26.目指せハイボール
「思ったより若いな、あの子。一人酒だから男子かと思ったけど、女の子かな? どっちか分からないな」
「いや、男子、だと思う……」
半分上の空で相槌を打ちながら、ハイボールに口をつけている童子から目線を移せない。
高級なバーでカクテルグラスを傾けているわけじゃない。割と賑やかな店でジョッキのハイボールを飲んでるだけだ。それなのに、あの何ともいえない色香は何だろうか。
椅子のえんじ色とのコントラストが映える白い着物、ジョッキの持ち方、少し前屈みの姿勢、あごの傾け方と長い指、そして妖しさすら纏う横顔。全てが居酒屋と思えない艶っぽさで、俺達以外の視線も集めていることは間違いなかった。
「いやあ、なんか良いもの見たって感じだな、春見」
「あ、ああ、そうだ——」
「おわっ、ユーセイ! 奇遇じゃねーか!」
視線に気づいた童子が声をあげて立ち上がる。あれ、急に艶っぽい感じがなくなったぞ。
「こんなところで飲んでるなんて珍しいな! あ、ここに席移していいですか?」
ポカンとする白根を余所に、店員さんに声をかけて俺の隣に座った。
「いや、俺達は会社近いからよ……むしろお前が来てることにびっくりだ」
「へへっ、ここのハイボールはうまいからな、割と常連だよ。いつもはもう少し早く来るんだけど、今日は別のところで飲んでて遅くなった」
店員さんが元の席からジョッキを運んできてくれた。
「え、春見、知り合いなの!」
「ああ、まあ知り合いというか——」
俺の横から体を出し、着物の
「
「やめろよ! お前が言うとシャレにならないっての!」
呆気に取られている白根に、親戚の
「そっか、童子君か。常連がいてくれるなら次の酒も選びやすいな」
「お、本気のハイボールはもう飲んだんだな。なら、今度は変わり種でどうだ?」
童子が俺達に聞こえないようにこっそり注文する。
やがて出てきたジョッキに入っていたのは、真っ白い液体だった。
「……童子、何だこれ」
「いいから飲んでみろって」
勧められるがままに白根と一緒に口をつける。
「甘っ! でもなんかクセになるな!」
「これ、何の味だろう……なんとなく記憶にあるんだけど……」
斜め上を見ながら考え込んでいた白根は、やがてタンッとテーブルを叩いた。
「乳酸菌のやつだ!」
「おっ、正解だ、ミツナリ」
童子が小さく拍手して、ジョッキの取っ手に手を入れて持ち上げる。
「乳酸菌飲料を混ぜてある。混ぜる量によって味は大分変わるけど、この店では半分くらい入れてるな。持ち味のスッキリ感より甘味の方が強いから乾杯とかには向かねーけど、この組み合わせも悪くねーだろ」
解説を聞きながら、もう一口飲んでみる。確かに甘味はあるけどそれだけじゃない。あの飲料独特の酸味も、ウィスキー独特の苦味も感じられる、バラエティーに富んだ一杯だった。
「へえ、面白いな! ありがとう童子君!」
「頻繁に新メニュー作ってるからな。ユーセイもミツナリも定期的に来るといいぜ」
相変わらずの名前呼びに、彼は軽く目を見開いた。すまない白根、さっき説明した通り悪気はないんだ……。
「あ、そういえば春見、登用プログラムの話聞いたか?」
「んあ? いや、何だそれ?」
出てきた牛もつ煮込みに箸をつけながら、白根は「最短で来期かららしいけどな」と話し始めた。
「上司が推薦した管理職候補を対象に、半年くらいかけて事前教育やるんだってさ。マネジメント研修とかかな。急に管理職になってうまく回せない人も結構いるみたいで、その対応策なんだろうな」
「へえ、そんなことやんのか。営業だけじゃなくて全社で?」
「ああ、うちの課長が人事の知り合いから聞いたんだって」
白根のチームの課長はもともと人事部もやってたって言ったっけ。ううん、持つべきものはネットワークだな。
「管理職かあ」
「30半ばでなってる先輩もいるもんな」
そう遠い話じゃない。家庭と趣味を優先させるため、「管理職にはなりたくない」といって断った先輩も知っている。そういう判断の時期が近づいているという漠然とした焦りと不安が、酒のペースを進ませた。
「童子、次のハイボール、オススメ教えてくれよ」
「おう、じゃあとっておきのを頼むかな」
こっそりプレゼントを準備するかのように楽しげな表情で店員さんに耳打ちで注文する童子。
店内も大分混雑してきたからだろうか、やや時間が経ってから、3つのジョッキが運ばれてきた。
「お待たせしました、漬け込み果実のハイボール、オレンジです」
「おお、おいしそう!」
パッと見の色は変わらないハイボールの中に、扇形に切られた皮つきオレンジが入っている。漬けておいたものも一緒に入れた、ということなのだろう。
「どれどれ……美味いっ! これいいぞ、春見!」
「だな! これはハマる!」
さっきの乳酸菌とは違う
「漬け込み系のハイボール、最近どこの店でも少しずつ流行り始めてんだ。僕も幾つか飲んだけど、ここのが一番だな」
童子はそう言いながら、指でジョッキの中のオレンジをそっと摘まみ、あむっと食べた。
「ハイボールって色んなアレンジできるんだな。本気のハイボールみたいな高級志向もできるし」
「……春見、良いこと言った!」
白根がバンッと俺の肩を叩く。オレンジ漬け込みのハイボールをほぼ一気飲みしたからか、割と酔いが回ってるようだ。
「春見、俺達が目指すのはハイボールだ!」
「んあ? ハイボール?」
僅かな残りをクッと喉に流し込み、メニューを開きながら彼は続ける。
「なんていうかさ、上を目指すこともできるし、今のポジションにいながら色んな人と協力して楽しむこともできるわけよ」
「おお、なるほどな」
無理やりだけどな、と白根は軽く笑ってから続けた。
「でも大事なのはさ、どっちの良し悪しも知って選ぶことでさ。つまり! 俺達はもっと会社や仕事のことを! 知らなきゃいけないということであります!」
「よっ! よく言った、ミツナリ!」
「いよっ、大統領!」
俺と童子の割れんばかりの拍手を、「ありがとう」と制する白根。
そうだよな、自分がどうしたいかを考えるためには、もっと知らないといけない。こういうことを気兼ねなく話せる同期がいるってのは、幸せなことだな。
「童子君、締めの一杯、オススメを頼みます!」
「俺も! 童子、お願いします!」
メニューを開いて頭を下げる2人に、童子は「うむ、苦しゅうない」とヒゲもないのに顎を撫でる。
「それじゃ、僕が気に入ってる別の漬け込み果実にしよう」
「いよっ、ナイス童子君!」
「大統領2人目!」
最後のハイボールも大騒ぎで飲んだのは、言うまでもなく。
「ふう、冷えるな」
「だな、もう冬だ」
店の外に出て手を擦り合わせる。吐いた息が煙のように天に昇った。
「んじゃ春見、明日からも頑張るか」
「おう、また飲もうぜ」
最寄駅が違う白根と別れる。童子に「楽しそうだな」と肩を叩かれながら、地下鉄に続く階段を下った。
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