24.しばしのお別れ

「ただいま」

「おう、おかえり、ユーセイ」


 家に着いたのは22時過ぎだった。童子はいつも通り寝っ転がりながら雑誌を読んでいたけど、今日はなんだかそれを見て少し安心した。


「今日はちょっと酒の準備してあるんだ。一緒に飲もうぜ」

「酒? 悪いけど、俺は今日は酒の気分じゃなくてさ」

「いいからいいから。残しても構わねーからさ」


 そう言って、いそいその机の上の箱を開ける。中には、綺麗に磨かれた、光沢のあるシェイカーが入っていた。


「こんなの持ってたのか?」

「いや、ホスト時代の仲間に借りた。夢のためにホストやるやつもいるからな。今は独立してバー出してるんだ」


 白く細い指で丁寧にそのシェイカーを取り出してローテーブルに置き、キッチンに材料を取りに向かう。


「珍しいな、お前が家でカクテル飲みたいなんて」

「くははっ! 僕だってそういう日もあるさ。それに、ユーセイは外で飲む気分でもないだろう?」


 いくつかの洋酒の瓶を抱えて戻ってくる。そして、シェイカーに順番に入れていった。


「それ、ウォッカだろ? そっちは何だ?」

「これか? ベネディクティン、甘めの酒だけど40度ある」


 聞いたことのないその酒の瓶を手に取り、まじまじとラベルの裏表を見る。


「蒸留酒に香草や薬草を漬け込んで作るんだ。レシピがある中では世界最古のリキュールなんだってさ。何でも500年前からあるらしい」

「500年!」


 食生活なんか50年で大分変わるのに、江戸、いや、室町の頃からあるのか。すごいな。


「ベネディクティンって人の名前みたいだな。ベネディクトっているし」

「確かにな。でもこれは、ベネディクト会の修道院で作られたのが語源だ。今も活動してるけど、カトリック教会で最古の修道会だな」


 何も見ずにスラスラ答える童子。ベネディクト会の名前はテレビのニュースで見たことがある。お酒の話が、いつの間にか宗教と結びつく。教養の世界は複雑に絡み合ってて面白い。


「で、そっちは?」

「ビターズって呼ばれる苦味付け用のアルコールだよ。数的垂らすだけで味が変わる」


 全ての材料と氷を入れ終わり、シェイカーを閉める。そして、綺麗な八の字を描いてカシャカシャとシェイクしだした。


「普通に上手いな」

「くはっ! 年季が違うよ、年季が」


 しばらくして手を止め、パキッと上部のフタを取って2人分の小さなグラスに注ぐ。


「カクテルグラスがないのが残念だけどな。はい、ジプシーってカクテルだ」


 カチンとグラスを合わせ、静かに口をつける。ほのかな甘みの後で、香草っぽい苦さがビリッと舌に来る。後味はスッキリしてて爽やかだけど、ちょっと飲んだだけで度数が高いと分かる一杯だ。


「うまいな」

「だろ」


 最小限の言葉を交わして、部屋から音が消えた。

 黙って少しずつ飲み続け、移動の疲労もあったのか酔いが回ってボーッとしてくる。




「カクテル言葉ってのがあってさ」


 ふいに、童子が口を開いた。


「花言葉みたいなもんだ。カクテルにもメッセージが込められてるものがある」


 そして、ジプシーを指し、少し悲しそうな笑顔で俺の顔を見た。


「『しばしのお別れ』 まあ、恋愛に使うのが一般的なのかもしれないけどな」

「ん……」


 彼の想いはちゃんと伝わってきて、小さな声で「ありがとな」と呟く。ジプシーは放浪民族のことだっけ。そこからこのカクテル言葉が来てるんだろうな。



 お別れ、の言葉を噛み締めながら体を後ろに倒すと、童子の読んでいた雑誌に手が当たった。式場でのアナウンスが浮かんでくる。



『本がとても大好きで、雑誌を作る編集のお仕事をなされていました……』



 バカ言うな。


 これからだった。これからだったんだ。


 アイツは、自分が大好きだったものを、自分の手でたくさん作る気だったんだ。給料下げて、新人になって挑戦する気だったんだ。


「……悔しいよなあ」


 唐突に、喪失感が襲ってきた。この言葉を聞かせたい張本人がいないこと、大樹と一緒に酒を飲めないことに、今になって急に理解が追いついたような感覚。


 取り残されていた俺が、現実に戻ってきた。



「……ふっ、うう……うあああ…………」


「もう一杯飲むか。酔いすぎないように水も飲むと良いぞ」


 泣いて頷くしかできない俺に、童子が黙ってお替りを作る。


 脳ってのはきっと便利にできていて、対応しきれないものにはフタをしてくれる。大樹がいなくなったことに心が耐えられそうになくて、だからこそ徐々に徐々にフタを開けて、時間とともに受け入れられるように調整してくれたんだろう。



「辛いな。辛いもんだなあ」


 寂しい。もう会えない、一緒に遊べない、どこにもいない。

 拭っても拭っても出てくる涙、その水分を補うように、酒と水を飲んでいく。


「童子はこんな辛いこと、何度も何度も経験してるんだよな」

「まあな」


 カーテンの開いたリビング、窓の外を見ながら、童子が続ける。


「慣れねーけど、でも生き死にだけはどうやったって変えらんねーことでさ。だからこそ、僕達は生きてくしかねーんだよ。いなくなったヤツを覚えてて、思い出してあげられるのは、生きてる僕達にしかできねーことだからさ」

「……だな」


 俺ができることを、してあげなきゃだよな。


「なあ、高校時代とか何して遊んでたんだよ」

「大樹とか? いやあ、アイツ意外とゲーム上手くてさ。よくゲーセン行ってたんだけど……」


 昔話に花を咲かせて、バカなこと思い出して笑って、やっぱり泣いて、長い長い土曜が更けていく。




***




「おい、ユーセイ、起きろ」

「……んん…………早いな……」


 流石に深酒だったか、軽く頭が痛い。仕事に行くのに支障が出るかと不安になったが、今日が日曜日で安心した。


「ほら、もう朝だぞ」

「お前、俺の倍は飲んでたのにピンピンしてるな……」

「くははっ! 天下の酒呑童子を舐めんなよ」


 コイツの方が早いなんて珍しいと思いつつ目を開けると、彼は既に立ち上がって腕まくりをしていた。


「昨日飲んでそのまま寝ただろ。片付けと掃除からやるぞ」

「……どうしたんだ、天変地異か」

「うるせーっての」


 雑誌をまとめながら、童子が自分自身にも言い聞かせるように続ける。


「ちゃんとやってこうぜ」


 ああ、うん。コイツなりの優しさが見えた気がする。


 そうだな、生きてるから、ちゃんと暮らしていこうな。


「まあ、僕は片付け終わったらまた寝るけどね」

「いいや、そのまま洗濯とかも手伝え」

「はあ? バカ言うなよ。食器は昨日飲んだから手伝ってやるんだろ。一切関係ない洗濯まで巻き込むんじゃねーよ」

「お前の着物も洗うんだっての」


 起き上がった俺も、急いで部屋着に着替える。


 カーテンをシャッと開けて、朝日を吸い込んで、生活が始まる。

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