10杯目 帰郷酒 ~エールビール~

19.心残りはあるとしても

「んじゃ、乾杯!」

「乾杯!」


 10月最後の週末、真っ昼間の俺の部屋。俺と茨木童子、そして大学のゼミの友人、奥島瑛一おくしまえいいちと3人で、ビールの入った大きめのグラスをぶつけ合った。


「やっぱり普通の生中なまちゅうとは違うな、瑛一!」


 黄色よりさらに濃く深い琥珀色、表面でプツプツと弾けながら揺れるキメの細かい泡、何か瑞々みずみずしい果物を潰して入れたのかと思うほどフルーティーな香り。それら全てが、いつも飲んでいるビールとは違っていた。


 ワクワクしながら口をつけてみる。ゴクゴクと飲める華やかさに、甘味も苦味も重なるコク。


「美味い!」

「夕晴、すごいなこれ!」


 口についた泡を舐めとりながら、瑛一が叫ぶ。役者らしく会うたびにコロコロ髪型を変えているが、今の目にかかるかかからないかくらいの茶髪が一番大学時代に近かった。


「これがエールビールか、茨木くん!」

「ええ、海外ではこの種類も多いですよ」

 普段焼き鳥屋とかしか行かないからなあ、と瑛一は笑った。




 大学で演劇サークルにいた瑛一は、その魅力に取り憑かれ、卒業後も役者として小さな劇団に所属していた。


 とはいえ、当たり前のことだけど、役者で食べていけるのはほんの一握り。それ以外の人はバイトで食いつなぐ。聞いた話では公演の収入なんて端役では雀の涙で、バイトで食べつつ趣味で演劇をやってるに等しいらしい。


 それでも、それが楽しいなら続けたっていいのだろうけど、瑛一はそれも失いいつつあったらしい。親を安心させたい、才能の限界、ひもじい暮らしのストレス、そういったものが積み重なって、30の節目の年で役者を辞め、地元に戻ることになった。




「いつ帰るんだ?」

「来週。家電とかも処分しなきゃいけないからな。しばらくは引き払い準備だよ」

「処分って、実家に戻るのか」

「しばらくしたらまた一人暮らしするけどね。洗濯機とかも古くなってたし、どこ借りるのがいいか分からないし。とりあえず介護の契約社員決まってるから、金貯めながら体制整えるさ」



 そんなわけで今日はプチ送別会。邦楽や漫画の趣味が合ったおかげでゼミ以外でもよく会ってたので、こうして大事な時に声をかけてもらえた。


 たまたま酒呑童子は日本酒のイベントがあるだとかで出掛ける予定があり、今日は茨木童子と3人で。瑛一がビール好きということで、茨木童子が用意してくれたエールビールを嗜んでいる。



「いやあ、何口飲んでも驚きだね、このビールは。原料が違うのかな?」


 興奮気味に話す瑛一に、「原料というか、発酵のために使う酵母が違うんだよ」と答えながらグラスに注ぎ足す。


「エール酵母を使ったらエールビール、ラガー酵母なら俺達がいつも飲んでるラガービールになる」

「へえ、夕晴詳しいな」

「ホントです、さすが晴見さん!」

「あの呑み助に教えてもらったんだよ」

 今はいないアイツの口調を思い出しながら、苦笑いで返した。


「茨木童子、エールビールにもいくつか種類があるんだろ?」

「ええ、ビアスタイルなんて呼んだりしますけど、色んな種類がありますよ」


 そう言って彼は、グラスを上に掲げ、光に透かしてみせた。


「まずはクラフトビールの中で一番スタンダードなのが、このペールエールって種類ですね。ペールは色が薄いって意味です」

「どっちかというと濃い気がするけどなあ」


 楽しそうに返す瑛一。ほんの少し芝居がかった感じに聞こえるのは仕事柄かな。


「当時の中では薄かったみたいですよ。味は爽やかですし、アルコール度数もほどほどです。エール系のなかでは一番飲みやすいですね」


 こっちもどうぞ、と茨木童子はもう1本の瓶の栓を開けて、空のグラス3つに注いだ。赤茶色といった感じの、さらに濃い色合いのビール。


「インディアンペールエール、略してIPAと呼ばれています」

「あ、俺IPAって名前見たことある! そっか、ちゃんと正式名称があったのか」


 瑛一が感動するように何度も「そっかあ」と呟きながら、瓶のラベルを回し見する。海外のビールかと思いきや、日本産らしい。


「夕晴、飲んでみようぜ」

「おう」


 2人でグラスを傾ける。飲んだ瞬間にはっきりと分かる強烈な苦味。前にビールを飲んで舌を慣らしておかないと、咽せてしまいそう。


「ぐわっ、苦い!」

「ホントに苦い! ああ、でも俺これ好きかも」

 瑛一がケヘケヘと小さく咳をしながらもう一口ゴクリと飲んだ。


「ペールエールよりIPAの方が苦みもアルコールも強いです。その分、クセになる人はハマるみたいですね」

「茨木くん、なんでこんな苦いの?」


「イギリスから植民地のインドにペールエールを運ぶ時に、悪くならないようにホップを多めに入れたらしいです。ホップは植物で、保存性を高めますからね」

「なるほど、腐らないように成分調整した結果ってことか」


 だからインディアンが付くんだな。


「いやあ、美味い! 良いビールたくさん飲めて良かった!」

 うははっと笑いながら、瑛一がばたりと大の字のようになって寝転んだ。


「ごめんね、茨木くん。親戚なのに巻き込んじゃって」


 お礼を言われた茨木童子は、ハリウッド映画に出てくる妖精や精霊の類のような綺麗な顔をきょとんとさせる。そして、「いいえ」とキュッと笑顔になる。


「スペルは違いますけど、ボクなりの『エール』です」


 今度は瑛一がきょとんとする番。リラックスしたような表情になって、「ありがとう」と起き上がった。


 悔いはないのか、と聞こうとしたが、すぐに思い直す。ないわけがない。わかりきったことを本人に言わせるのは野暮だ。



「……心残りはあるけどね」

 俺の本心を知ってか知らずか、瑛一が口を開いた。


「でも、自分の中でやれるだけのことはやったし、チャンスにも飛び込んだつもりだよ。そこでダメだったなら、やっぱり才能とかの問題なんだろうな」

「いや、でもいつ開花するか——」


 俺の返しを、首を振って遮る。サラサラの茶髪が、少し残念そうに揺れた。


「没頭できることも含めて才能だよ。いくつになっても、バイトを続けても、演技が好きで好きで、抜けられない人がいる。そういう人なら開花するまで待てるかもしれない。でもまあ、俺にはそこまでは無理だった」

「そっ……か……」


 どう声をかけるか迷う俺の肩を、瑛一がバンと叩く。


「あんまり気にするなよ。またやりたくなったら趣味でも続けるし!」


 明るく言い放つ。「やりきったけど悔いはある」ではなく、「悔いはあるけどやりきった」というポジティブさが、強い目に表れている。


「まあ、都心の方が楽しいけどな。でも結構地元に帰ってる友達いるし、面白そうな店も幾つか出来てるみたいだし、またやり直すさ」

「奥島さん、いいですね、そういうの」


 話を聞いていた茨木童子が、もう一本のIPAを開ける。


「エールビールが日本で広まったのは最近です。日本人が海外でエールビールを飲んで、その素晴らしさに気付き、いくつかの醸造所が作り始めた。日本酒は逆です。海外、特にアジアのお酒好きな人が気に入りだしてどんどん買ってるし、海外に酒蔵を建てた酒造もあります」


 グラスを満たす赤褐色に口をつけ、彼は後輩を励ます先輩のように優しく微笑んだ。


「どの場所でも、まだ知らない発見があります。きっと地元でも。どこまでいっても悔いは消えないかもしれないけど、新しいものを見つけて楽しんでいける希望はありますから」

「……うん、そうだな」


 茨木童子だって、1000年生きてきた。色んな新天地に移っては、楽しいことを見つけて暮らしてきたんだろうな。


「それに、奥島さんの地元、確か最近エールビールの醸造所ができましたよ」

「マジで!」


 スマホでサイトを見せる茨木童子。瑛一は右手でグラスを掴み、左手で「うしっ!」とガッツポーズした。


「夕晴、いつか遊びに来いよ! 俺が美味いビール飲ませる場所に案内してやる!」

「おう。茨木童子と、あともう1人酒好きがいるから、まとめて連れていくよ」


 もう一度、3人で乾杯して全員のグラスが空になる。すぐに新しい瓶が開き、新天地を祝う会はもうしばらく続きそうだ。

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