9杯目 カウンター酒 ~スカイ・ダイビング~
17.Welcome to Spain!!
「あ、春見さん。すみません、今大丈夫でしたか?」
「ああ、ちょうど電車降りたから」
時間あるときに連絡ください、という茨木童子からのメッセージを見て、電話しながら街を歩く。
明日頑張れば週末だもんな、というどこか肩の力が抜けた雰囲気が街に漂う木曜日。みんな賑やかに歩いているけど、その装いはコートの人も増えていて、10月とはいえ秋の終わりがそう遠くないことを感じさせた。
「あの、今日夕飯どうしますか? 必要なら準備しようと思って」
「あれ、童子から聞いてない? 今日は
「えっ、ああ、彼女さんとですか! 分かりました! 生姜使った野菜スープつくっておくんで、帰って夜食欲しくなったら好きに食べてください」
何だろう、この溢れ出る奥さん感。でも掃除も洗濯もしてくれるし、ホントに助かってるんだよな。
「で、童子は?」
「ああ、童子様はテレビで紹介してた猫を集めるアプリに夢中になってます」
「何その悠々自適な生活」
もう完全に隠居したおじいちゃんじゃん。いや、年齢的にはおじいちゃんどころの騒ぎじゃないんだけどさ。
「帰るときに連絡くれれば、お風呂沸かしておきますから」
「ありがと、またな」
電話を切り、目当てのスペイン料理屋へ向かう。俺の家から電車で3駅で来れるので、いつか行きたいと思っていた店。澄果とも盛り上がって、今回初めて予約した。
店に入ろうとすると、肩を叩かれる。
「やほ、私も今来たとこ!」
水色のTブラウスに少し濃い水色のテールスカート、黒のノーカラージャケットで、シックな印象の澄果。ダークブラウンの髪が、お店を待ちきれないかのようにフワフワ揺れている。
「気が合うねえ」
ですな、と笑う彼女の畳んだコートを持ち、並んでお店に入った。
「パエリヤは時間かかるから先に頼むでしょ。それから……トルティージャとハモン・セラーノ、あとソパ・デ・アホ!
「いや、今日は澄果チョイスで」
メニューを持っている彼女が、「任せて」とばかりに眉をクッと上げ、店員さんを呼んで注文していく。
「あと、サングリアの赤2つで!」
すぐに出てきたサングリアのグラスを、いそいそと持ち上げた。
「今日もおつかれ!」
「お疲れい」
赤ワインとはまた違うフルーツの香りを楽しみながら、一口目を飲む。シナモンのライトなスパイシーさと果汁のような甘み、そして赤ワインの濃厚さがいっぺんに口の中を駆け巡った。
「甘くて美味しいね!」
「うん、これは何杯でもいけるな」
グラスから立ち込める香りが魅力的でついつい鼻の方に寄せてしまい、その度にまた一口飲んでしまう。
「ねえ、サングリアってどんなお酒なんだっけ?」
「んん、ワインと果物とシナモンを混ぜるんじゃなかったか?」
スマホで調べる澄果。ううん、童子だったら間違いなく「そのくらい覚えておけよ」なんて呆れて嘆息してるな。
「ワインに、切った果物と甘味料を入れて、シナモンのようなスパイスやブランデーを加えて香りづけして、一晩寝かしたもの、だって。赤ワインとは限らないんだ。そういえば私、現地で白ワインのサングリア飲んだ気がする!」
「へえ、白もあるのか。気になるな」
話しているうちに、大きな皿で料理が運ばれてきた。
「これがハモン・セラーノ、生ハムね。で、こっちがトルティージャ」
「ああ、これスペイン風オムレツってやつか!」
ホールケーキみたいな丸形の玉子焼き。じゃがいものカケラが見えている。
「で、これはなんだ? スープ?」
「そう、ソパ・デ・アホっていうパン入りのニンニクスープ。バルで食べてハマったの!」
真っ赤なスープにおそるおそる口をつけてみる。見た目と違って全く辛くなく、ニンニクの風味が堪らない。ひたひたのパンを噛むと、ぎゅっとスープが浸み出てきて、何とも言えない贅沢な気分になった。
「向こうではどこ行ったんだっけ?」
「西部除いてぐるっと回った感じ。アンダルシアの方から動いて、最後はマドリード!」
お盆休みに女友達とスペインに行った澄果が、嬉しそうに思い出話を始める。そうそう、これ聞きながら食べるのが楽しみだったんだ。
「あ、アンダルシアのフラメンコの話、したっけ? お店のショー形式のじゃなくて、洞窟で見たの」
「洞窟?」
「もともとは洞窟で踊ってたのが文化の始まりらしいんだよね。それを今でもやってるの」
「へえ! 音も響いて見応えありそうだな」
「そうなの! 洞窟の壁沿いに観客が座って、中央で踊るんだけど、途中で観客も一緒に踊る部分があって、私もやってきたよ!」
熱いスープと熱の入ったトークで顔の火照った彼女が、ジャケットを脱いだ。柔らかそうで、それでいて華奢な腕にドキリとさせられる。
「アルハンブラ宮殿ってアンダルシアだっけ?」
「あ、そうそう! あの辺りは電車とか全然だから、ツアーで行って正解だったなあ。もう一回写真見る?」
「うん、見る見る」
スペインのスパークリングワインであるカヴァ、これまた名物の山羊のチーズ、そしてパエリヤに舌鼓を打ちながら、旅行トークに花を咲かせた。
「ふう、お腹いっぱい!」
店を出てすぐ、コートを広げて着込む澄果。21時になると、さすがに冷え込む。ほろ酔いの彼女にいたずらするように、風がブルーのスカートをパタパタ揺らした。
「どうする?」
「どうしよっか」
俺の家に近い方だから、彼女が帰るには少し遠いはず。礼儀で「遅いから帰るかい?」と一言付けるのがマナーなのかもしれないけど、俺達の関係ならそれは要らない気がして、そのままぶつけてみた。
「もう少し時間くれよ」
少し遅いけど、まだ帰したくない。あれだけいっぱい話したのに、話せば話すほど足りなくなる。顔だって見てたいし、声だって聞いていたかった。
「ふっふっふ、バーなら良さげなところ見繕ってるぜ」
「おっ、さすが夕晴、オットナー!」
褒めなさんな褒めなさんな、と拍手する澄果を静め、スマホにメモしたお店と住所の一覧メモを開いた。
別にその場で調べてもいいし、男友達の集まりならそうするけど、やっぱり澄果の前ではスマートでいたい。
「こっちだな」
薬局を曲がり、喧騒の大通りを外れる。
「あー、スペイン楽しかったなあ」
「な、楽しそうだった。俺ヨーロッパの方全然行ってないんだよな」
クッと見上げた澄果が、にへえっと頬を緩める。
「へへっ、ユーセイとも行けたらいいなあ」
「おう、行きたいな」
やっぱりその笑顔を見ると、蛇口を全開でひねったかのように幸せが胸を満たす。
「ここだ!」
「おお、良さげじゃん!」
小さなお店が集まった4階建てのビル。エレベーターで3階まで行き、重そうな木のドアを開けると、そこには写真で見た通りのこじんまりとしたバーがあった。
「いらっしゃいませ」
換気用の窓がちらっと見えるだけで、夜景など見えない。
それでも木製のカウンターとゆったり座れそうな椅子のテーブル席、さまざまな洋酒が並ぶ棚、そして店内に心地よく流れるピアノジャズが揃うと、こんなにもオシャレな空間になることに感動し、そこに来ている自分が場違いじゃないか、急にそわそわしてしまう。
先客はカウンターとテーブルに1組ずつ。どちらも声のトーンも抑えめに、思い思いのお酒を楽しんでいた。
「こちらにどうぞ」
カウンタ―の端に通され、並んで座る。1人で切り盛りしてるらしいマスターは50歳くらいだろうか。清潔感のあるロマンスグレーの髪に、うるさく話すことのなさそうな穏やかな印象の顔。
「私、こういうバー来たの初めてかも」
「俺も自分で入るのは初めてだな」
初心者が2人揃って、綺麗に印刷されたメニューを開いた。
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