10.心に火を
「うわ、すごい!」
瓶を鼻に近づけただけで分かる麦芽の香ばしさ。居酒屋で飲む生中とは比較にならない。
「かなり麦芽を焙煎してるからな。うん、コーヒーに近いような香りがする」
そのまま、瓶に口をつけて飲んでみる。
これだけ強烈な香りなのに、意外にも飲み口はすっきり、するすると喉を滑っていく。海外ビールにありがちな苦味や飲みづらさもなく、ただただ鼻をくすぐられながら飲んでいられた。
「で、ユーセイ、仕事どうしたんだよ」
「ああ、大したことじゃないんだけどさ」
事の顛末をかいつまんで話す。
意図的に手を抜いて前回の企画をそのまま流用したこと、それを上司から叱責されたこと、とはいえ現場は現場できゅうきゅうで、どこかで手を抜かなきゃ残業規制には対応できないってこと。
「なるほどなあ、まあ全部100%じゃたしかに回らねーのかもな。バリバリ終電まで働くのが普通って時代も少し前にあったけど」
「童子にとっちゃ少しでも、俺達にとっちゃ大分前だよ、そんなの。上のお偉方はみんな、そんな時代の話をして俺達の非難の材料にするけど、時代が違うのに響かないよな。働けば働くだけ豊かになる、みたいなの経験したこともないし、金がそんなになくても楽しめるコンテンツいっぱいあるしな」
「まあな、僕もユーセイのアカウントで海外ドラマ見させてもらってるよ」
勝手に見るな、と小突くと「2人で見れば元取れるぜ」と笑って瓶に口をつける。
「いやあ、それにしてもさすがシュバルツ! この濃厚な香りと飲みやすさのギャップが堪んねーんだよな!」
「シュバルツっていうビールなのか」
「んあ、商品名じゃねーぞ。ビアスタイル、ビールの種類だ」
クッとさらにもう一口飲み、「ぷはあ!」とCMみたいに叫んでから、説明を始めた。
「まずビールってのは大別するとラガービールとエールビールに分けられる。原料が麦芽・ホップ・酵母・水ってのは一緒だけど、ラガー酵母とエール酵母のどっちを使うかで変わるんだ」
「おお、ラガーもエールも、聞いたことあるな」
エールビールとか、
「日本で売られてるビールの大多数はラガービールだな。酵母の特性でスッキリしたキレのある味になる」
「『キレがある』ってよく宣伝してるもんな」
「ラガービールの中でも使う原料とか製法で幾つか種類がある。代表的なのはピルスナーってヤツだ。日本のビールはほぼこれ、ラガーのピルスナーだな。この色、おなじみだろ?」
スマホで見せてくれたサイトの画面には、よく知っている黄金色のビールの写真が映っていた。
「へえ、いつも飲んでるのはピルスナーって種類なのか」
「で、それ以外のラガーの一つが、このシュバルツ。ドイツ語で『黒』って意味だ」
言いながら、コップに移してみせた。「ダークブラウン」という単語でもまだ表しきれていない、漆黒に近い色合い。
「瓶で飲んでるから全然色に気付かなかった。黒ビールのことか!」
「色んな製法の黒ビールがあるから、正確には黒ビールの一種って感じだな。他の黒に比べて飲みやすいんだぜ」
泡を口髭のようにつけて遊ぶ童子。にしても、ホントに酒に詳しいな。
「ピルスナーが日本で一般的って言ってただろ? じゃあピルスナー以外のビールをクラフトビールって言うのか?」
「ああ、いや、それはビールの製法とはまた別の話なんだ。クラフトビールってのは簡単に言えば、メーカーとかじゃない小さな
なるほど、特定のビールを指すわけじゃないんだな。
「そういえば、昔は『地ビール』なんて言ったりもしたよな」
それを聞いた童子は、ポンッと俺の両肩に手を置く。そして、白黒のコントラストがはっきりしたその目をキュッと細め、首を横に振った。
「……その話はしてくれるな」
「何があったんだよ」
芝居を終えた彼が、くははっと笑い声を漏らした。
「昔はビール製造するためには大量に造れないと許可が下りなかったんだけど、規制緩和で小規模でもオッケーになった。そこで各地で町おこしのために造られたのが地ビールだ。でもユーセイ、そんな急ごしらえで造られた醸造所のビールが美味いと思うか?」
「いや、あんまり……」
町おこしありきで進んでるだろうしな……ありがちなお土産って感じだよな……。
「そうなんだよ。でも一部の小さなブルワリーは、地ビールのブームが終わった後も技術を磨いて、世界でも評価されるクオリティーのものを作れるようになった。で、最近の海外の人気上昇を受けて、地ビールは『クラフトビール』となってまたブームが来てるってわけだ」
「なるほどね、ビールにも歴史ありだな」
「そうそう、何でも歴史があるわけよ。地図には載ってねーけどな」
作りかけのパズルを楽しそうにトントンと叩く。
「でもって、彼らには技量と熱意がある」
瓶を回して裏のラベルを見る童子を真似してみる。麦芽や酵母の選び方、発酵の拘りが、細かく書いてあった。
「日本じゃビールは大手メーカーが寡占してる市場だからな、力で勝てるはずがない。でも、自分達なりのプライドを持って、
こちらが掲げてないのに、カツンと瓶に乾杯して、童子は口の端をクッと上げてみせた。
「そういうんだろ、上司がユーセイに言ってたことって」
さすが、お見通し。
「……かもな」
そう、自分でも分かってはいたんだ。
種類もターゲットも全部一緒の商品なんてそうそうあるものじゃない。それでも、「時間がないから」「以前成功したから」という理由で、前の企画をそのまま流用した。
時間がないってのは事実、その通り。でも、この仕事の一番根幹の「誰に、どう宣伝すれば、買ってもらえるか」を削ってはいけない。ここに時間をかけて、他に効率化できるところを探す。
それが、自分が
「ようしっ、燃えてきたぞ、童子!」
「おっ、いいじゃねーか」
「パズル一緒にやろうぜ。俺、地味に結構好きなんだよ」
「は?」
「これを終わらせてから寝ないと気が済まない。俺の心に火が付いた!」
「面倒なプライド出てきたな! んじゃもう1本シュバルツ開けようぜ!」
そうして2人でピースとにらめっこしているうちに、短針はゆっくりと下山を始めた。
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