第5話 深緑の従士


 ルミエルド聖暦六百四十五年四月十六日 午前六時頃

 アルザーク帝国 〈帝都〉グラーフェンヴェルグ ディアークの屋敷


 あの夜から、三日が経った。

 ゼバルドゥスの死とレイナードとの邂逅を経験したあの夜。

 忘れることなどできるはずもない。今でも克明に思い出すことができる。

 さりとて、三日も経つとディアークの日常はすっかり元に戻っていた。

 四時頃。二階の寝室で目を覚ました少年は身支度を整えた後、一階の隅にある小さな部屋へと向かった。外は白んではいたもののまだ薄暗く、小窓が一つ付いているだけの部屋の中には静謐と陰翳いんえいが満ちていた。その壁際には一エーレelle(約九十センチ)程の木造の十字架が立っている。長袖の衣服であるコットに身を包んだ少年は十字架の前に膝をついて、そのまま祈るように両手を合わせた。目は軽く閉じたまま。

 ディアークが住む以前、この屋敷にはある帝国下級騎士ミニステリアーレの一家が暮らしていて、信心深かったのだろうか小部屋の中に十字架が残されていた。縦横それぞれ三エーレ(約二・七メートル)ぐらいで、寝室として使うにはあまりにも狭い。かといって少年も物を多く持つような性質たちではないので、荷物部屋としての用途も無い。

 そんなわけなので、わざわざ十字架を撤去することもなく礼拝室という形で残してある。少年はその礼拝室に二時間近くもいたが、それはけして彼がルミエルド聖教の熱心な信者であるということを示さない。

 寝起きで頭がぼんやりとした状態でだらだらと寝室にいれば、また睡魔に負けてしまうだろう。だから少しだけ歩いて、心なしか他の部屋とは空気が異なる礼拝室で、意識が覚醒するのを待つ。完全に目が覚めた後も考え事をするにはうってつけの静かな空間なので、そのまま座って祈るような姿勢を取っているだけ。ただの習慣だ。

 そもそも私は〈災厄の皇子〉だ。この大陸において支配的なルミエルド聖教徒にとっては不倶戴天の敵〈魔族〉と同一視されているというのに、何故その教会の象徴たる十字架に祈りを捧げねばならないのか。……それに。

 私は、これまでに数え切れない程の人を殺めてきた。今更、教会が言うところのデウスに救いを求めたところで、どうして伸ばした手を掴んでくれるだろう。

 少年は悲観と諦念が入り混じったような薄ら笑いを浮かべながら、目をゆっくりと開ける。そしてそろそろ部屋に戻ろうと立ち上がる。太陽はすっかり地平から姿を現し、小窓からでさえ白光が燦々と降り注いでいる。また、朝が来た。

 礼拝室の外から、つまり一階の広間の方から何やら物音が聞こえてくる。無論、強盗や野良猫の類ではない。ディアークと共に住んでいる、彼女だ。

 礼拝室を出て短い廊下を渡るとすぐ左手に広間が見える。横に長い空間になっていて、中央辺りに小さな食卓が置かれている。右の壁際に暖炉が置かれ、奥の方は調理場になっている。調理場のすぐ近くには勝手口があって、そこから外に出ることができる。この屋敷の一階の大部分を占める広間は、おおよそそんな構造だ。

 その広間の中をせわしなく動き回っている女性が一人。ほうきを手に持って、白い頭巾を被った初老の女性。白髪交じりの黒髪で、年齢にしては顔や手に多くの皺ができている。苦労人といった風貌だが、表情は包容力に満ちていて柔和だ。


「あ、ディアーク様。おはようございます。また礼拝室におられたのですか」


 〈ユリアJulia〉。帝国ではあまり珍しくない名を持つその小間使いはディアークに気付くと、表情を綻ばせる。彼女が手に持つ箒に視線を落としながら、少年は言った。


「おはよう、ユリア。また少し考え事をな。……朝早いのに、いつもすまぬ」


 毎朝、彼女は六時頃から広間を中心に屋敷中の掃除を行っている。それから洗濯を行い、昼餐の準備やその片付けなど午前中だけでも彼女の仕事は多岐に渡る。

 その上、午後のものも合わせて大量の家事を彼女は毎日、一人だけでこなしているのだ。すまない、と言いたくもなる。

 だがユリアは笑顔を崩さず、箒を右手だけで持ってから左手を幾度か振った。


「とんでもない! ディアーク様に仕える身として当然のことです」


「だが……」


 ディアークが申し訳なさから言葉を続けようとするが、彼女はそれを遮る。


わたくしは貴方様の小間使いなのですから。何も謝る必要など」


 そう言ってまた、ユリアは笑う。いつも、彼女はそうやって微笑みかけてくれる。

 だが、ディアークは知っている。

 彼女の笑顔が、小間使いから皇子に対するものであることを。

 帝室から命じられて、もう七年も〈災厄の皇子〉に仕えさせられていることを。

 その心労で、彼女の容貌は今のように老いて痩身になってしまったことを。

 ある時、少年が彼女の負担を減らすために家事を手伝おうとしたことがあった。その時も彼女は「ディアーク様に仕える身として当然のこと」と言って、少年の提案を拒んだ。命じられたことだからだ。義務であるからだ。

 忠誠心からの行動では勿論ない。ディアークに愛着を持ったからでもない。

 ただ純粋に帝室からの命に従って、少年の小間使いをしているだけ。

 それがユリアという女性だ。

 だが、そのことを責める気などない。むしろ感謝したいことばかりなのだ。

 家事を日々、欠かすことなくやってくれること。

 ディアークが帰宅するのが遅くなった時には、迎えに来てくれること。

 街に出た時〈災厄の皇子〉を憎む市民からの罵倒にも、堪えてくれること。

 どれだけの苦労を彼女にかけたか。どれだけの理不尽を彼女に強いたか。

 ……それでも、彼女はいつも少年に笑いかけてくれる。

 ディアークはそのことを知っている。七年間も共に暮らしてきたのだから。

 知っているからこそ、ディアークも笑顔で応えるのだ。


「そうだな。……いつも、ありがとう」


「……謝る必要など、ありませんのに」


「私が、伝えたいと思っただけだよ」


 これは申し訳なさから来る言葉ではない。ただ感謝したい。それだけの言葉だ。

 正面からの感謝に、流石に気恥ずかしくなったのかユリアは少し顔を背けた。その様子を見て、今度はディアークの方が居たたまれない気持ちになる。掃除の邪魔にならないように、外か二階の自室にさっさと退散しようと少年は考えを巡らせた。

 しかしその考えは、屋敷の戸を叩く音によって掻き消された。

 木扉に付いた金具が三回ほど、タンタンタンと叩かれる音がする。


「はい、ただいま……」


 ユリアが箒を壁際に置いてから、そそくさと玄関の方へ駆けていく。

 ゆったりと伸びた亜麻色のブリオーが床に引き摺らないくらいに宙を走る。

 ディアークは彼女を目で追いながら、誰が来たのだろうと思案する。何しろ周囲には盗賊が棲みついている屋敷だ。昼間は比較的大人しくしているが、夜に一般人が立ち寄れば目も当てられないことになる。ディアークが何度か彼らをしているので、少年とユリアには危害を加えることは無いが、何にしても普通の市民ならば誰も好んで訪れることなど無い。……だとすれば。

 少年が一つ来客の見当が付いた一方で、ユリアは不思議そうに扉を開けた。

 昇り続ける太陽の光が広間の中に差し込んで、ディアークの黒髪が白んだ。

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