第6話 赤毛の傭将〈上〉

 

 ルミエルド聖暦六百四十五年四月十六日 午前十時頃

 アルザーク帝国 〈帝都〉グラーフェンベルク ディアークの屋敷


「さあ、そろそろお食事に致しましょう」


 ユリアがそう言ったのは、屋敷中の掃除と洗濯を終え裏庭の方から帰ってきた時のことだった。その時ディアークは広間の食卓に座っていた。勿論、何もせずに座っているわけではない。食卓に何着かの自分の衣服が重ねてあって、少年は針と糸を持ってそれらのほつれたところを縫い直していた。裁縫は女性の仕事などと言われていたこの大陸、この時代で、である。しかし少年にはそんな価値観は知ったことではないのだった。ユリアが掃除や洗濯・炊事など彼女自身にも直接関係のある仕事は譲らないというのなら、少年にしか関わりの無い仕事は自分だけでやってしまおうということで始めたのが針仕事だ。最初はやはり慣れないもので何度も自分の指を刺してしまったが、ユリアが手伝ってくれたこともあって今ではそれなりに様になっている。その様子を少し離れた壁際で、じっと何も言わずに立っているのが新たな従士、ラインハルトだ。全く考えていることが読めない。

 先ほど、礼拝室でラインハルトが言った一言。


『毎朝、私を起こしてください』


 結局あの後、従士がその言葉の真意を語ることは無かった。口の端や眉をピクリとも動かしてはいなかったが、口で説明してみたところで理解されないだろう、と半ば諦めたような目をしていた。だからそれ以上ディアークも問うのはやめた。

 しかし……。自分が裁縫しているのをこんな風に誰かにじっくりと見られるのは初めてで、とても気まずい。何か話しかけてくれれば気まずさも少しは紛れたろうが、このおかしな従士にそんなことを期待するのは酷であった。

 ラインハルトの方をちらりと一瞥してから、少年はユリアに応える。


「そうだな。食卓を片付けねば」


 ディアークは食卓に並べてあった自身の上着であるコットとブレー、下着のシュミーズなど数着をテキパキと片付け、針糸を一緒に持って二階へ上がっていく。自室のチェストに服を戻しに行ったのだろう。ラインハルトはわざわざ付いていくことはせず、壁際から離れずにいる。そんな彼にユリアが話しかけた。


「お優しい方ですよ、ディアーク様は」


「……そうですか」


 階段と廊下を歩く音とチェストを開け閉めする音が二階から漏れ出している。二人はその音を聞きながら、どこか静かな雰囲気で話し始めた。


「宮廷から送られてくるお金は僅かですから、ほつれたからってすぐに衣服職人のギルドに直してもらったり、新しく買ったりなんて中々できないんです。そのことをあの方は察してらっしゃる。私の仕事を少しでも減らそうとしてくださっているのです」


 そう話すユリアの表情は、まるで我が子を想う母のように見えた。

 少し沈黙していたラインハルトだが、おもむろに彼女の方を向いて口を開く。


「ディアーク様を、慕っているのですね」


 抑揚の無い声。だが。心なしか、彼の瞳は笑っているように見えた。

 一瞬だけ目を見開いたユリアだったが、すぐに顔を背けた。そして声音を少し低く抑えて、話を逸らすように言った。


「……小間使いとして当然のことです。それより、ラインハルト様。騎士なのですから私のような小間使いに敬語など不要です」


「いえ。生来、敬語以外の言葉遣いを知らぬものですから。お気になさらず」


 生来? そんなことがあり得るのかとユリアの顔が困惑に堕ちる。

 しかし問いただしたところで、礼拝室での一件のように大した答えが返って来るとも思えない。ユリアの考えがそこまで及んだところで、会話が止まった。

 その気まずさを打ち破ったのは、階段を降りて来るディアークの足音だった。


「あっ、ついぼうっとしちゃって。すぐにお食事の準備を致します」


 そう言って、そそくさと厨房へ向かう小間使い。ラインハルトは何も言わずに、その様子を目線だけで追う。衣服や針糸を全て仕舞って広間に戻ってきた少年は、二人の様子に何か違和感のようなものを感じ取って、従士に問うた。


「む……何かあったのか?」


「何もございませんよ」


「ぬ……」


 間髪入れずに言われると、何も言い返せなくなる。それに、なんと素っ気ない返事だろうか。悪意は勿論無いのだろう。悪意が無いだけに対応に困るのだ。

 今までの従士共はべらべらと良く喋るが、代わりにディアークへの侮蔑の念を隠すことは無かった。だが、このラインハルトという男は全くの逆。

 彼にどのように接すれば良いのか、まだ決めかねている。それも当然かもしれない。彼と出逢ってから、まだ数時間しか経っていないのだから。

 しかし一つだけ確かなことがある。

 ラインハルトが、けして悪い男ではないということだ。



 それからしばらくして、食卓にはユリアが用意した食事が並んでいた。

 この大陸では、食事は一日二回が一般的だ。一回目は昼餐ちゅうさんと呼ばれる一日で最も量が多い食事で、午前九時から十時にかけて摂られることが多い。二回目は午後四時から五時にかけての夕餐ゆうさんと呼ばれる軽めの食事。上流階級の間では、多くの人々を招いて多量の酒を交えて食事をする晩餐ばんさんも行われているが、ディアーク達にとっては関わりの無い話だ。普段なら午前九時頃にディアークとユリアも昼餐を摂るのだが、ラインハルトの思いがけない来訪によって予定が少し後ろ倒しになったので、十時過ぎに食事を摂る運びとなった。


「そう言えば、ラインハルトは何か食べるものを持参していないのか?」


 食卓の小さな椅子に掛けた少年は食事を始める前に、壁際に立ったままの従士に尋ねた。今までの従士達は〈災厄の皇子〉と共に食事など摂りたくないという理由で、事前に食事を済ませて来たり、食事の際は自分達の住まいに一度戻るなどしていた。ところがラインハルトは朝早く訪れたし、どこかに出かけようという様子も無い。


「ありませぬ。多少の金は持っていますから、外で食べて……」


「今日はどこもいちが開かれておりませんし、ここからだと酒場に着くまでも時間がかかります。ここで召し上がるのはいかがです?」


 体を玄関の方に向けようとするラインハルトを、ユリアが言葉で制止する。

 確かに、この従士は何故だか分からないが〈災厄の皇子〉への嫌悪感は全く無いように思える。それならば、共に食卓を囲むことをこちらも拒むいわれはあるまい。

 ディアークはそう思い、小間使いに同意するように頷いた。


「……ならば、ご相伴にあずからせていただきます。お言葉に甘えて」


 ラインハルトは暫くの沈黙の後、少し頭を下げながら言った。それを見てユリアは嬉しそうにしながら、従士の分の食事を取りに厨房へ歩いて行った。

 世話焼きのユリアのことだ。ディアーク以外に食事を振舞えることなど滅多に無いから、それが嬉しいのだろう。とはいえその相手がラインハルトでは、反応に期待のしようがないとも思う。少年は軽く笑みを漏らした。その隣に従士が座る。

 やがてラインハルトの分が準備されると、ディアークとユリアはいそいそと食事を始める。それに追随するようにラインハルトも食卓の輪に入った。

 いつもと変わり映えしない食事だ。ライ麦でできた小さな黒パンが二つに、玉ねぎと人参が入ったポタージュ、キャベツの漬物であるザワークラウト、更にエンドウマメが付け合わせとして幾つか皿に盛り付けられている。

 肉や魚は高価な代物で、滅多にこの屋敷で食されることは無い。その為、農民や労働者など下層の人々がよく食す野菜料理が食事の中心となる。騎士層が好んで食べるようなものではなく、今までの従士達が同席を拒んでいたのにはそこにも原因がある。しかしラインハルトは特に抵抗感を示さず、手に取ったスプーンでポタージュを一掬いして口に運ぶ。それをじっと見ているユリアと、横目で特に期待せずに見ているディアーク。さて、従士の反応や如何に。


「美味しいですね、このポタージュ」


 表情は変えないが、従士がぽつりと発した一言。ユリアにとっては満点の回答だ。

 ディアークは黒パンを頬張りながら、意外そうに目をパチクリとさせる。

 ほうれい線がくっきりと浮き出た顔貌が気にならない程に満面の笑顔を見せている小間使いと、この従士との接し方がますます分からなくなってきた少年。

 色々な感情が渦巻きながらも、昨日より一人増えた食卓は何だか明るい。

 きっと今日のような食事の時間が、明日も続いていくのだろう。

 それはディアークのかすかな希望で、ほのかな幸せを予感させていた。

 それが幻想で、簡単に壊れゆくものだとも知らずに。




 同日 正午頃 帝都 グラーフェンベルク市庁舎前


「はぁーっっ!?」


 帝都北部。カイザーブルク城にもほど近いところにある市庁舎。

 四階建てで、白っぽく加工された煉瓦が積み重なってできた建造物だ。正午ということもあり、天高く上がった太陽から放たれる光がその壮麗さを際立たせている。

 その前にある少し開けた広場に、二人の男がいた。一人は面食らったように叫ぶ茶髪の少年。もう一人は市庁舎の玄関に背を向けながら、後頭部を掻く赤毛の青年。


「なんでわざわざ、俺達が退なんか!」


「しょうがねぇだろー。参事会のおっさん共がうるせぇんだ。酒場で毎日どんちゃん騒ぎしてるようなら、市から傭兵団ようへいだんごと叩き出すってよー」


「俺は酒場でどんちゃん騒ぎなんてしてねーっつーの! お前だけで行けや!」


「分かんねぇやつだなー。ここまでのこのこ付いてきたんだから、今日はこのまま俺に従ってくれよ。給金はうんと弾むからさ」


 洗練されていない言葉遣いで言い争う二人の男。道行く人々はその様子と彼らの服装を一瞥するや否や、じろじろと視線を向ける。その無数の視線が意味するところは好奇心とか軽蔑とか敵愾心てきがいしんとか色々あるが、大体は後者二つだ。

 少年の方は背中に折り畳み式の翼槍スペトゥムを背負い、両腰に二丁のダガーを差している。青年は、全長が五フースfuß(約一・五メートル)の大剣ツヴァイヘンダーを肩に担いでいた。

 それに加えて、彼らはその武装に対して不似合いな程の軽装だった。鎧や兜など付けていないし、農民の作業着と同じような茶褐色のチュニックという衣服を纏っている。しかも服は皺ばかりでヨレヨレの状態。大都会である帝都の、それも帝城に近いこの場所では浮いても仕方のない二人だった。


「ちっ。ここで面倒ごとを起こすのは御免被る。場所を変えるぞ、ゲルト」


「……分かったよ、ジグムント。けど、ぜってー付いていかねぇからな!」


 ジグムントと呼ばれた青年は周囲を見回してから、少年に対して小声で言った。赤毛を肩ぐらいまで長く伸ばしていて、その服装からも野性的な印象を抱くが、整った顔からはまだ幼さを隠しきれていない好青年のような雰囲気も感じ取れる。

 ゲルトの方は、茶髪を無造作に伸ばしただけのまだまだ幼い少年といった風貌。

 しかし周囲を警戒して、足早に広場を離れようとする二人の眼は普通の人間のそれとは全く異なっていた。何度も死線を潜り抜けてきた手練てだれの如き眼光。

 として、食い扶持の為に自らの命を賭ける。

 金の為に、自分の為に戦うからこそ、周囲を注視することを忘れない。

 周りの人間がどう動くか理解しているからこそ、その裏をかける。

 敵どころか味方すらも裏切って、狡猾に振舞う。

 全ては金の為に、自分の為に。

 彼らの鋭い眼はそんな、飢えた狼のそれに酷似していた。

 やがて二人は帝城や市庁舎、貴族や騎士の邸宅が集まる旧市街を抜けて、東市街の方へと向かった。それも東市街の中心部は避けて同じような小路を何度も進んでいったので、もはや周囲に人通りは見られない。そこでゲルトが言った。


「おい、もう話しても良いだろ。とにかく、参事会のお偉いさん方がなんで俺達みたいな傭兵に盗賊狩りの依頼を出すんだ! 自分の街の問題だろ?」


 納得できないとばかりにゲルトは不満を爆発させる。それに対してジグムントはどう説明したら良いかと、また後頭部を掻きながら応えた。


「いや、正確に言えば参事会じゃなくて筆頭役人のホルストって奴が依頼してきたんだ。なんでも東市街の一角が盗賊のねぐらになっちまってるみたいで、帝国騎士団の方も盗賊退治に後ろ向きなんだとさ。だから俺達、傭兵の出番ってわけ」 


「帝都を護るはずの騎士団が、なんで盗賊を放置するんだよ? ……しかも、東市街ってことはこの近くにそのねぐらってのがあるんじゃねえか?」 


 ゲルトがそう言って不安そうに首を左右に動かしていると、ジグムントは笑った。

 嗤ったという方が正確か。悪戯な笑みを浮かべて、青年は告げる。


「ああ、盗賊のねぐらってのは俺たちの目の前にあるぜ?」


 そう言って指差したのは、ジグムントとゲルトが立っている十字路の先。

 馬車が一両通るので精一杯くらいの道の両脇に、見るからに人が住んでいなさそうな二階建ての住居が所狭しと並んでいる。真昼間ということもあって陽光がしっかりと差し込んでいて、奥の方もよく見える。それでもどこか陰気臭い街区だ。

 「付いてきちまったな」と言わんばかりにウィンクして見せる青年の様子に、少年が腹を立てるのは当然だろう。


「ちくしょう、騙しやがったな!」


「まあまあ良いじゃねぇか。給金はたんまり弾むって」


「さっきから給金給金って言うけどよ、盗賊退治で臨時収入そんなに入んのかよ?」


 虫の居所が悪いのは隠さないまま、青年にじとーっとした目を向けるゲルト。

 そう言われると、また説明に困るなと先ほどと同様の仕草をするジグムント。


「まぁ、盗賊退治それ自体が目的ってわけでもないんだが……。ガキのお前にゃ分からない大人の事情ってのがあんだよ」


「なんだよ、馬鹿にしやがって! 教えろよ」


 また癇癪かんしゃくを起こすゲルトに、そういうところがガキなんだよと心の中で思いながら、青年は話を逸らすように言った。


「そういや、お前。なんで騎士団が盗賊狩りをしたがらないのかって言ったよな」


「……ああ」


 ガキとは言っても、それなりに分別は付く少年は思いの外すぐ静かになった。

 そんなゲルトにジグムントはある問いを投げかけた。


「それと関わる話なんだが……。お前、災厄の皇子って知ってるか?」


「災厄の皇子? ……よく知らねぇけど、とにかくこの帝都じゃ皆から嫌われてるって話だろ。廃嫡はいちゃくされた皇子、確か廃太子はいたいしって言うらしいぜ」


 思いがけない単語に少し考えながらも応える少年だったが、一体そのことと何の関係があるのかと全くつながりが掴めていない様子だった。


「けど、その廃太子が盗賊退治とどう関係あるんだよ?」


「そいつがこの街区に住んでるって話だ。恐らくだが、騎士団は災厄の皇子を恐れて

この街区には近寄れない。だが、放置しておけば周囲の街区で犯罪が起こるし、治安も悪くなる。かといって大規模な掃討戦をやりゃ、逃げた盗賊共が他の街区でやらかすかもしれねぇ。結局は市政と盗賊共のいたちごっこなんだよ」


「……そんじゃ、打つ手無しじゃねえか」 


 ジグムントの話を聞いて、ゲルトは弱々しい一言を漏らす。

 すると青年は唐突に少年の肩を掴んで、にかっと白い歯を見せて言った。


「ようはやり方次第ってわけよ。俺達二人みたいに少人数で攻めりゃ、盗賊共は怖くて逃げ出すなんてしねぇ。だが、そこで俺達がばったばったと敵を薙ぎ倒す。そして適当に片付けたところで引き揚げりゃ、奴らは恐怖で委縮する。次はいつ、どんな手練れが来るんだろうってな。そうすりゃ向こう数か月は下手に動けないだろうさ!」


 それはあくまで皮算用であるとジグムントも分かっていた。しかし重要なのはそこじゃない、ゲルトをその気にさせることだと知っていた。実際、堂々と言ってのけた青年の言葉に、少年の目には輝きが戻っていた。


「なるほど、流石はジグムントだ! 仕方ねえから俺が付いて行ってやるよ!」


 そう言って鼻を鳴らして得意げなゲルトに、とんでもなく単純な奴だなと自分がやったことながら心配になる。ともかく、役者は揃った。

 ジグムントは盗賊共が棲む街区の方に向き直って、舌なめずりをする。

 それから顔をキメて、こう言うのだ。


「ここか……」


 しかしすぐに横からツッコミが入る。


「どこかなんて知ってた癖に」


「雰囲気ってもんがあんだろ! これから戦うんだからよ!」


 茶化すような少年の言葉に、ジグムントは顔を真っ赤にして怒る。

 どっちがガキだよとゲルトは独り言ちる。……さて。

 彼らがまた何遍か言い争いをした後。

 一軒一軒、盗賊共がいないかどうか探る為に二人は街区に入ってすぐのところにある住居の前に立った。どこにでもありそうな、二階建てで石造りの家だ。


「そんじゃ、仕事を始めますか」


 青年がそう言うと、ジグムントは家のドアノブに手をかける。そして回す。

 ……鍵はかかっていないようだ。それから二人で家の中に入った。

 そこには、何の変哲もない居住空間が広がっている。小さなテーブルやチェスト、倒れた花瓶や散った花びらが目に映る。テーブルの上に、幾つかの……酒瓶も。

 そして、人の気配は――――あった。


「「ッッ……!!」」


 二人が一斉に振り返る。目にするのは、ドア裏に潜んでいた三人の盗賊。

 それぞれナイフを持って、目を剝きながら少年と青年の方へ向かって来る。

 だが。彼ら二人の表情は、獲物を見つけた狼のようだった。




 少し遠くから大きな物音と叫び声が聞こえて目を覚ましたのは、昼餐を終えてからしばらくしてのことだった。昼餐は十一時ごろに摂り終わり、それからまた裁縫を再開したのだが、いつの間にか眠りこけてしまったようだ。

 食卓の椅子に背中をもたれていた少年は、紅い瞳を持つ目を覚醒させた。

 そしてすぐさま振り返って、玄関の方を見る。視界には同じように屋敷の外に意識を向けている従士が一人。ラインハルトだ。左腰に提げた剣に手をかけている。


「……ユリア、ユリアはいるか!」


 ディアークは平生より声を大きくして、屋敷中に聞こえるように言った。

 しばらく続く沈黙に、少年の眉間に僅かな皺が寄ったが、それは杞憂であった。


「はい、ただいま……」


 裏庭の方からいつもと変わり無い小間使いの声が聞こえて、ディアークは安堵する。恐らく洗濯物を見に行ったか、花壇に水をやりに行ったのだろう。

 ともかく、外にいるにしても裏庭なら問題ない。物音と叫び声がしたのは、玄関に面した通りの方向だったからだ。正直なところ、少年はこういう時の対応に慣れていた。すぐにユリアの安否を確認してから、二人で離れないように屋敷の中で待つのが最善策だ。……こういう時、というのは。


「また盗賊共の内輪揉めであろう。どうせじきに終わる。屋敷の中にれ」


 裏口の扉から入ってきたユリアに、少年はそう声をかける。

 ディアーク達が住む東市街のこの街区は、正式には少年の屋敷以外の住宅に誰も住んでいないことになっている。しかしそれは市参事会や教区教会が正確に把握していないというだけで、そこには確実に棲みついている。帝都中から、そして帝都の郊外からも流入した盗賊共が。帝都の中心部と周縁部とのちょうど中間あたりに位置しているという地理的条件も作用してか、この街区はまさに匪賊の吹き溜まりである。

 しかし集まった彼らとて一枚岩ではない。昼夜問わず帝都の至る所に出向いて悪事を働く彼らだが、当然大勢での犯行を企てれば流石の騎士団も黙ってはいない。ディアークが住む街区でなければ、騎士団が盗賊如きに何を恐れることがあろうか。そのため盗賊共は少人数で徒党を組んで、属する盗賊団の利益の為に動く。ところが、盗賊団同士の利益がひょんなことから衝突したら? 例えば、ある盗賊団の失態で別の盗賊団の情報も芋づる式で市政に知られてしまったら? 市庁舎に赴いて、どちらが悪いか裁判でも開いてもらうだろうか? 本末転倒である。起こるのは争いのみ。

 盗賊共の牙城には、常に内紛という火の粉が潜んでいる。そしてその牙城の一隅に凛と咲く一輪の花がディアークの屋敷。火の粉を振り払う術など心得ている。


「しかし、ディアーク様。様子が少しおかしくありませぬか」


 ユリアは少年の傍に来て、少し不安そうにディアークを見ながら立つ。

 ラインハルトの方は不安とは全く異なる緊張感を滲ませながら、少年に言った。


「どういうことだ、ラインハルト」


「内輪揉めなら、口論から武力行使へと移るはずです。しかし今の物音と叫び声は全くの予兆無しに起こりました。……突然、から攻撃されたかのように」


「ッ……。ラインハルト、付いてまいれ。外の様子を見る」


 従士の冷静沈着な応えに、ディアークは何かに気付いたように席を立った。ラインハルトは「はっ」と短く返す。そのままずんずんと玄関に向かう少年を見て、ユリアは慌てて階段を上っていく。しばしお待ちを、しばしお待ちを、と呟きながら。

 その呟きを無視して玄関の扉を開けて出ていくほど、ディアークは非情ではない。やがてユリアが階段を下りてくる。彼女の手には少年が見知ったものが握られ……。

 いや、翻っていた。


「私のマントではないか。無くても困らぬだろう」


「ゼバルドゥス様が貴方様に下さった、今となっては形見の品ですから」


 ラインハルトが付けているものと大して変わりが無い、純白のマント。他の騎士が持っているものとも殆ど見分けが付かないものだが、それでもディアークにとっては大事なものだった。二日前の朝、小間使いは少年の口からゼバルドゥスが亡くなったことを告げられた。表面上何でもないように振舞ってはいたが、マントを少年に差し出す彼女の顔は一つの強い意志のようなものを感じさせた。

 ディアークは何も言わずにそれを受け取り、慣れた動作でマントを肩に付けた。そして玄関の木扉の前に立って、振り返らずに言った。


「ありがとう。ユリアはここで待っていてくれ。……行ってくる」


 それ以上、余計な言葉は不要だった。

 ユリアの返事を待つことなく、少年は扉を開けて屋敷の外へ出ていった。それに続いてラインハルトも全身を陽光に照らされていく。春風に揺れる二枚の白きマントが、まるで二輪の待雪草シュネーグロッケンの花のように見えた。


 ルミエルド聖教の言い伝えによれば、待雪草は〈慰め〉と〈希望〉という二つの花言葉を持つという。少年が求めるのは、どちらか。


 ゼバルドゥスを喪い、傷付いた自らの心を癒す……慰めか。

 どんな不幸が襲おうとも、未来へと進み続ける……希望か。


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