第4話 純白の賢者〈下〉


 ディアークの屋敷を後にした老爺。

 彼が、道端に停めてあった馬車の前に立っている。いつの間にか真っ白なほろが取り付けられたそれは、馬車としてようやくまともな姿を為していた。

 先程よりも一層に濃さを増した宵闇が、グラーフェンヴェルグの街を覆っている。とはいえ、夜目が利く老爺にとっては問題ではない。

 問題はレイナードの目の前にあった。

 一人の老人が御者台に座って、レイナードの方を見つめている。

 灰色の縮れた髪と髭を無節操に伸ばし、茶褐色の薄汚いローブを身に纏う。腰は折れ曲がっており、その青白い肌には乾燥した無数の皺ができている。

 レイナードが御者に扮していた時と全く同じ容貌。

 すると、その老人は唐突にニタッと口角を鋭く上げた。

 レイナードは動揺の色を見せるどころか、いつものことかと言わんばかりにその正体を解き明かす。その名は、彼のさがとは似ても似つかぬもの。


「相変わらず悪趣味だな、ガーブリエル」


 名を呼ばれた老人の姿が狂気的な笑みはそのままに、闇と共に歪んでいく。

 皺くちゃの肌は、青白さをそれなりに保ちながら若々しいものに。

 腰は折れ曲がったものから、少し猫背に。

 襤褸ぼろ切れのようなローブは、狩人が用いる小汚いものに。

 髭はすっかり無くなって、くすんだ金髪を長く伸びたままにさせている。

 それなりに整った顔貌はその危うい笑みと、何の意志も無いかのように虚ろに微睡まどろんだ灰色の瞳によって台無しになっている。彼は口を開く。


「バレてしまいましたかー。流石はレイナードの旦那」


 〈ガーブリエルGabriel〉。その青年は長髪を無造作に掻き揚げ、再び不敵に笑う。

 対照的に、レイナードはピクリとも表情を変えずに言った。


「お前の考えそうなことなど、ひと時考えずとも分かる。……ディアーク皇子との接触は済んだ。私は宿営地へ戻る。お前はこのまま皇子の監視を続けろ」


 短く、簡潔に、冷徹に。酷薄と、老爺は青年に向けて言葉を紡ぐ。ディアークと話していた時の貴族らしい、好々爺然とした口調はもはや今のレイナードには無い。

 その様子は、青年と老爺の間に明確な上下関係が無く、なおかつ長年の付き合いであることを伺わせる。……だが。


「それは無理な相談です。僕はこれからハールダムに帰るのですからー」


 二人の間には、一切の信頼関係が成立していない。

 ガーブリエルの何の感情も投影されていない笑みが、また彼と老爺との距離を突き放す。御者台に座るガーブリエルと、その眼前に立つレイナード。両者は一歩たりとも動いていないというのに、その間にはより強い夜風が吹き抜けるような気がした。

 レイナードはまだ表情を崩さず、短く問うた。


「何故だ」


、あの皇子のことは見させてもらいましたからー。それに、アナタが戦に出向いている間はもう一人の新しい従士が監視の任に就くはずでしょ? あと、もうそろそろこの辛気臭い街からは離れようと思っていたところなんですよねー」


 それなりに筋が通ったことをのたまった後、ガーブリエルはそれらをぶち壊すような、気分屋の風来坊のような一言を放つ。そしてそれを皮切りに、相手がいるのも気にせずに話し続ける。レイナードはいつものことかと聞き流す。


「ハールダムも都会ですが、あっちは小さな街ですからちょっと歩けばすぐに森が見える。街を出ないでも港湾都市ですから、至る所に潮の香りが満ちているでしょ? それに比べりゃ、この街は大きすぎるし、何もかも整理されすぎてる。街中の河も林も、全部が街の一部でしか無いというか……ああ、三十年前はそんなに大きくなかったんでしたっけ? それもこれもエルンスト帝さまさまってことですかねー。まあ僕は生まれてすらなかったんで、良く知りませんけど。アナタは何か知ってます?」


「まとまりも無く良くだらだらと喋るな。……まあ良い。とにかくお前は監視を新しい従士に任せて、ハールダムに戻るということで良いんだな?」


 レイナードは青年の問いには応える素振りすら見せない。とはいえ青年の方も、端から応えてくれるとは思っていないようではあるが。

 それから、老爺はさっさと協力者同士の会話を打ち切ろうとして本題に戻ることを念押しする。ガーブリエルはつまらなさそうに「それで良いですけど」と短く応えた上で、何か言いたそうに老爺の顔を直視する。老爺は一瞬、怪訝な顔を見せた。

 一方の青年はいつも通りの怪しい笑みで言い放つ。

 

「いつも言ってるじゃないですか、僕に命令しないでくださいって。僕たちはなんですからー。僕とアナタの利害が一致するなら、言われる前にやりますよ」


 ……嗚呼、そうだ。私たちは、協力者。共犯と呼んだ方がより正確か。

 ディアークはあの屋敷で、自分を協力者と呼んだ。しかし。

 協力者、共犯など、ロクなものではない。レイナードは心の中で独り言ちる。

 何故なら。


「……そうだな。年齢や身分に違いはあろうとも、私たちは互いに利用し合っているだけなのだからな。私は私の目的の為に、お前も自身の目的の為に」


 ディアークが自らに言ったように、協力者とは対等な関係だ。

 だが、それだけではない。

 互いの目的の為だけに協力し合う、ただそれだけの、それ以上でもそれ以下でもない関係。対等で、ただそれだけだから、以上も以下も無い。離れることはあっても近づくことは無い。仮にも主従関係が結ばれるのなら、そんな関係は協力者ではない。

 ディアークとの関係は、そんなものでは。

 ……では、どんな関係だというのだ? 

 レイナードは自らの内奥から湧き出す疑問を今は考えないようにして、ガーブリエルの方へ向き直った。今は、考えても答えが出ないことを知っていたから。


「ところで、その馬車をどうする気だ?」


 魔術による変装を解いた今でも御者台に座り続けている青年に、老爺は問う。

 普段使いするものでは無いとはいえ、その馬車はディアークの屋敷に長年置いてあったもの。〈災厄の皇子〉のものということはグリューネヴルム帝室が所有していることと同義だ。それを勝手に持ち出すことは、これから従士長となる者としてはけして看過できない問題だ。すると、馬車の中から何やら呻き声が聞こえてきた。

 一人ではない、複数人だ。それに微かだが、馬車が揺れているのも分かる。ガーブリエルはニヤッと笑って馬車の中を覗き込んだ。

 レイナードも釣られて、怪訝な面持ちのままの顔を車体の方へ向けた。


「今まで魔術で眠らせておいたんですが、ちょっと手が滑りまして」


 そこにいたのは、貧相な身なりをした大柄の男たちが三人。野蛮な人相を隠すどころか黒髭をおぞましく生やし、顔の所々に斬られた跡がある。そんな歴戦の強者、というよりも熟練の盗賊たちの表情は恐怖に歪んでおり、彼らの口は後頭部から伸びた赤い布で覆われている。同じように、手足もきつく拘束されていた。

 レイナードは一度ひとたびその様子を見ると、もはや興味を失ったように顔を背けた。

 それから青年が指をパチンと鳴らすと、盗賊たちはすぐさま眠りへといざなわれた。


「ハールダムに連れ帰るつもりか。……すぐに馬車を返すつもりはあるんだな?」


 ガーブリエルは肩を竦める。こういう場合、彼の回答は「はいJa」だ。

 ということは、ここで別れたとしても青年と再会する日は近いということだ。

 

「市民であるなら、魔導伯といえども魔導士として徴発することはできない。しかし農民やら盗賊なら、魔導士としても、としても、いくらでも使役することができる……。『都市の空気は自由にする』とはよく言ったものですねー」


「それも、お前が仕える主からの命令か?」


 青年のおしゃべり好きが昂じて出た、取り留めもない、返してくれることも期待していない言葉の羅列を無視して老爺が問うと、ガーブリエルはまたも肩を竦める。

 レイナードはもはや何も問うまい、と別れの言葉を告げる。


「そうか。なら良いのだ。……そろそろ、私は宿営地へ――――」


「おっと! まだ帰らないでくださいよー」


 しかし青年の言葉で、既に帰路に就こうとしていた老爺の足は止まる。

 何か用かとレイナードが問う前に、ガーブリエルは無邪気に言った。


「アナタが散々質問して、応えてやったんだ。僕からも質問させてよー」


 レイナードは少しうんざりとしながらも、青年の指摘が正しいことは分かっていた。首肯するも、どうせ仕様もない問いかけだろうと高を括って、視線をガーブリエルから狭苦しい街並みへと移した。吹き抜ける夜風の冷たさをローブの上からでも改めて感じ、帝都の四月はここまで寒かったかなとふと過去を追想する。だが。

 

、どうしてゼバルドゥス司祭と深い親交があるなどと嘘付いたんだ?」


 普段の彼の、穏やかさの中に隠しきれない狂気を内包させた喋り方とは全く違う。

 鋭くて、触れたら傷付いてしまいそうで、脆くて、触れたら壊してしまいそうな。

 そのことに即座に気付き、レイナードはハッとガーブリエルの方を向いた。

 しかしその時には、ガーブリエルの表情は張り付いた満面の笑みだった。


「アナタと皇子の会話はずっと聞かせてもらいましたけどねー。どうにかしてあの皇子を味方に付けたくて必死だったんでしょ? だから、あんな嘘を」


「……そう、だな。私はゼバルドゥスの事など名前しか知らぬ。そうでなければ、どうしてあの男をことなどできようか……」


 レイナードは肩を震わせながら言った。

 全ては自身の目的の為に。無辜むこの司祭を一人、あの従士たち二人と引き合わせた。

 ガーブリエルは自身のくすんだ金髪を大きく掻き揚げながら、更に問う。笑みを浮かべるのは忘れずに、しかし薄っすらと怒気を纏っている。


「僕には分からないんですよー。アナタの目的の為に、あの皇子が何の役に立つというんです? 僕が長い間、陰から監視して。副従士長のゲオルクに、皇子がよく訪れるのはあの聖堂だと教えてやった。そして今日……この日。従士二人は司祭を殺し、それに激昂した皇子は従士共を殺した……。全てがアナタの計画通りです」


 ガーブリエルは、割に合わないと言いたいのだろう。レイナードが故郷のルードリンゲン地方から魔導士団を連れて来る以前から、彼の野望は始まっていた。

 ゼバルドゥスの死は偶然に非ず。全ては、レイナードの目的を果たす為に。

 老爺は応えない。青年はそれでも語り続けた。


「あの皇子が異常な力を持っているということは分かります。油断していたとはいえ、魔術を扱える騎士二人を相手取って、一方的になぶり殺して見せた。非力な子供ですが、を以てすれば確かに容易いこと。ただ、あれ程までに熟練したものにするには相当のが必要だったに違いありません。そう、この屋敷の周りに幾らでも潜んでいる盗賊共が格好の相手になったでしょうねー」


 そう言って、ディアークの屋敷の周囲に建っている無数の廃屋はいおくを、ガーブリエルはわざとらしく眺め回した。最後に、馬車の中の盗賊共に目を落とす。

 皇子の屋敷が建っているこの街区には、公にはディアークと小間使いのユリア、この二人しか住んでいない。帝室が立ち退かせたのではなく、災厄を恐れた住民たちが蜘蛛の子を散らすように家を出て行ったためだ。そして誰も住んでいない住居の数々に代わりに住み着いたのは、災厄をも恐れぬ盗賊共というわけだ。

 ガーブリエルは皇子の力については認めつつ、それでも問い続けた。


「しかしどんなに強大な力を持とうとも、奴は所詮しょせん災厄の皇子なのですよ? 何の権力も、後ろ盾も無い。帝都から一歩出ることすら叶わない。そんな子供を、何故」


 全く以て理由が分からないという風に、ガーブリエルは矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。余裕が無いことを示すように、語尾を伸ばす癖が消えてしまっている。

 そんな青年とは対照的に、レイナードは落ち着き払っていた。

 そして。たった一言と共に〈純白の賢者〉は口の端を大きく歪ませた。


「だからこそ、どんなうつわとなるか……楽しみではないか」


 ガーブリエルは老爺の初めて見た類の表情に、微睡んだ灰色の眼を覚醒させる。

 その表情は、狂喜ではない。自分でも分からない、言い表しようもない心の高揚が忽然と発現したかのような。笑みでは決してない、顔貌の大いなる歪み。

 レイナードは心の中で、ディアークとの会話を回想していた。


『私など、死んでしまえば――――』


『—―――なんと愚かなことかッ!』


 どうしてあの時、私はあんなにも強い怒りを覚えたのだろう。


『ゼバルドゥスの、あの言葉の真相を知るまでは。私は死ぬわけにはいかぬのだ』


 どうしてあの時、彼はあんなにも強い意志を抱いたのだろう。


 あの時から。あの皇子の従士長となることに。単なる協力者ではない、しかしまだ何なのか分からない関係になることに、言い知れぬ心の昂ぶりを感じていたのだ。

 レイナードの表情はいつの間にか平静のものに戻り、青年の方を向いていた。


「……なら、しょうがないですねー」


 まだ完全には納得していない様子のガーブリエルだったが、調子が狂ったとばかりに口調を戻して、掻き揚げたままになっていた髪をぐしゃぐしゃと元に戻した。

 

「じゃ、僕の質問も済んだんで。帰らせてもらいます。遅くともひと月後には馬車を返しに伺いますからー。それじゃあ、また遭う日まで。レイナードの旦那」


 もはや余計なことは何も言うことなく、青年はそそくさと必要なことだけを伝えて馬車の手綱を繰った。張り詰めた空気にいななきすら忘れていたかのように静かだった一頭の栗毛の馬は、ようやく解放されたとばかりに猛然と歩みを進める。

 

「ああ、また遭う日まで」


 老爺はそう返して、馬車が通りの奥の方へと消えていく様を眼差し続けていた。




 ルミエルド聖暦六百四十五年四月十四日 午前九時頃

 アルザーク帝国 〈帝都〉グラーフェンベルク カイザーブルクKaiserburg


「……なるほど。レイナード殿たっての願いとあらば、無碍むげにはできまい。おぬしをディアークの従士長とすることを認めよう」


 帝都の北部・きゅう市街しがいに鎮座するカイザーブルク城。名の通り、アルザーク皇帝を始めとしたグリューネヴルム帝室が住まう、石造りの堅牢な城である。

 その玉座の間にて相対しているのは、玉座に座って大仰な装飾の付いた冠を頭に戴き、豪奢な衣服を身に纏った初老の男と。

 そして青藍のローブを纏い、立派な白髭を蓄えた老爺であった。

 老爺を見つめる男が戴く冠は、その主の面持ちを表しているかのように不思議と静謐せいひつに満ちた雰囲気を纏っている。仄かな、力の胎動と共に。


「有難き幸せ……皇帝陛下」


 膝まづき、深くこうべを垂れて謝意を述べるレイナード。

 頷くのは、当代のアルザーク皇帝にして〈賢帝けんてい〉の異名を持つ男〈エルンストErnstフォンvonグリューネヴルムGrunewurm〉。ディアークの実父である。しかしその金髪と青き瞳は実の息子とは似ても似つかないものだ。

 エルンストの近くには皇后のギーゼラGiselaが立って、同様にレイナードを見下ろしている。されど見下しているのではない。長らく魔導伯として帝国に貢献してきた老爺に対する最大限の慈愛を、その長く美しい茶髪と共に表現しているかのような視線だ。

 ディアーク従士であったダミアンとゲオルク、そしてゼバルドゥス司祭が争ったことによって三人が共に倒れた。何はともあれ、ディアーク従士団は空白の状態となってしまった。そこで老爺は、自身を皇帝に売り込んだのである。

 皇帝陛下、ならばこの老骨をお使いください、皇子に直接仕えることは貴族としてこれ以上ない名誉であります……と。

 それに対し、エルンスト帝はさしたる逡巡も無しに決断を下した。その真意は、実のところは分からない。しかし賢帝の異名に資する者として、ただ何も考え無しの判断ではなかったことだけは分かる。膝まづく老爺は、皇帝を信頼していた。

 しかし一方で、玉座の間の端に控えている宮廷貴族や騎士、召使や侍女たちは動揺している様子だ。七年前、ディアークを帝城から追い出した者達である。

 何故、レイナードともあろう者が〈災厄の皇子〉などに仕えるのか。

 何か企みでもあるのではないか、と。

 だが同時に、全員がこう思っているに違いない。

 〈災厄の皇子〉如きに何も為し得ることなどできぬ、と。

 ならばずっと、そう思っているが良い。

 ――――さあ、ここからだ。ここから私の野望は、また一歩前進する。


 〈純白の賢者〉は頭を垂れながら、またおのが相貌を歪ませた。



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