第3話 純白の賢者〈上〉


 二十分ほど馬車に揺られている内に、ディアークが住まう屋敷が見えてきた。

 東市街の中心から少し離れた街区の奥ばった場所に在る、二階建ての家屋だ。

 皇子が住まう屋敷にしては……という言い回しは、もはやくどいか。しかし今回にしてもその表現は当てはまる。六歳の時にディアークが帝城を追放されてから住むことになった小さな屋敷で、現在住んでいるのは少年と小間使いの二人のみ。従士団は監視役とはいえわざわざ屋敷に泊まることはせず、ディアークが夕餐を終えたら帝都内にある各々の住まいに帰るのが常となっていた。そもそも余計に二人泊められるほどの部屋数も無いというのが実際のところ。それほど広さに余裕はない屋敷なのだ。


「皇子殿、屋敷に着きましたぜ。……気を付けてお降りくだせぇ」


 もう七年間も住んでいる自分の屋敷に対して今更ながらぼやいていると、御者である老人のしゃがれた声が聞こえた。大通りに比べるとディアークの屋敷がある街区の道幅は狭く、馬車が一両通るだけで精一杯だ。更に少年の屋敷と同じような二階建ての家屋がひしめき合って多くの陰ができているので、深夜は微かな月光を頼りに進まなければならない。目が闇に慣れていることもあろうが、この老人はずいぶん順調に屋敷まで馬を繰ることができたものだ。

 ディアークは「感謝する」と返して、石畳が敷かれた道に降り立った。目の前にはどの窓からも灯りが漏れていないディアークの屋敷、その扉があった。そのまま屋敷の中に入ろうとしたが、改めて老人に言葉を掛けようとふと思い立って振り返る。


「…………いない?」


 しかし、その御者は姿を消していた。扉を開ける際に邪魔にならないようにする為か、馬車はディアークから見て少し右方に移されていたが、肝心の老人の姿が無い。

 ディアークが馬車を降りてから数秒のことだ、あり得ない。元よりあの老人には一抹の不安を感じてはいたが、ここに来て一気にそれが表出した。

 その所以は何も、老人が一瞬にして消えたことだけではない。ディアークの屋敷の灯りが一切付いていないということ。あの老人は『貴方様の小間使いの方より遣わされた』と言った。何度かディアークが深夜に屋敷へ戻ることはあったが、毎回灯りは付いていて、小間使いのユリアが帰りを待ってくれていた。

 それが無いということは……偶然か、はたまた。


「……春だというのに、随分と冷え込むな」


 ふいとディアークは自分の左腕あたりをさすった。今までは感じていなかった四月の夜の寒さを思い知る。先ほどまで全身を生暖かさで染め上げていた血が乾き切り、春風が皮膚を撫でたからだろうか。あまり体を冷やすのも良くない、とディアークはひとまず気がかりなことを頭の隅に追いやって、屋敷の方へ向き直った。

 そして木扉をゆっくりと開けて、一階の大部分を占める広間へと足を踏み入れる。

 当然灯りは無いが、月明かりと慣れた夜目のおかげで広間の様子はある程度分かる。人は勿論いない。広間の所々に陰ができている他は、何の変哲もない。

 しかしディアークは次の足を踏み出す前に、異様な雰囲気を感じ取った。


「ッ……誰だ」


 ディアークが低く声を出すと、思いの外すぐに違和感の正体は姿を見せた。

 広間の中央あたりにできた不定形の陰から輪郭が段々と浮かび上がり、ディアークが瞼を閉じて開いた後には、先ほど知り合ったばかりの老人が朧げに佇んでいる。

 かといって「何だ、おぬしか」等と呑気な台詞を吐けるような状況ではない。

 一体どうやって、この老人は少年の屋敷へと入ったのだ?


「—―――はっはっはっはっは!!!」


「……!?」


 少年が再び老人に対する疑念を噴出させようとしていた刹那、その老人は先ほどまでの皺枯れた声とは打って変わって朗らかに、高らかに笑い出した。

 平生は冷静であるディアークも動揺を隠せない。それでも今、自身の眼に捉えている老人の今までと異なった様子をつぶさに観察する。御者台に座っていた時は折れ曲がっていた背中はしゃんと伸びて、ディアークよりも背丈は大きいように見える。

 だが、彼のぼさぼさとした灰色の髪と髭、それに身に纏う粗末なローブは変わっていない。姿勢と声が変わるだけで、ここまで印象が違うのか。

 ……否。それだけではない。今まで髪で隠れていた彼の双眸そうぼうが、今ははっきりと見える。いつかの日の、生母クリームヒルトを思わせる翡翠ひすい色の瞳。

 自身の笑いに釣られるように細まった、その眼に。

 暗闇の中でさえ一点のきらめきを放つ、その瞳に。

 今までずっと脳内を埋め尽くしていたディアークの不安はどこか彼方へと吹き飛んでいた。それどころか、懐かしささえ感じる。

 まるで、いつか、どこかで逢ったような――――。

 するとしばらくの間笑い続けていたその老人が、ぱったりと口の端を動かさなくなった。かと思うと、唐突に告げる。


「そろそろ、悪ふざけは終わりに致しましょう」


 その言葉の響きに、何か嫌なものを感じてディアークは身構える。

 しかしそれは杞憂であった。

 老人がおもむろに右手を上げると、彼を中心として広間中に白光が満ち始める。

 思わずディアークは腕で目を覆い隠した。この光は蝋燭や松明たいまつの炎などとは根本的に違うもの。だ。ディアークは悟った。

 やがてその光は収まっていく。同時に広間の隅や中央に配置された蝋燭が独りでに灯り、広間に穏やかな光が満ちていくのを感じる。

 実際は五秒ほどだったのだろうが、何十秒にも長く感じられた。ディアークが老人の方に再び目線を向けると、そこには。


「ようやくこの姿でまみえることが叶いました、ディアーク皇子」


 少年はそのに、思わず目を見開いた。

 そこに立っていたのは、見すぼらしい格好をした灰色髪の老人ではなかった。

 純白に染まった髪と長い顎髭を持つ、明朗闊達な老爺。身長は五フースと八ダウル(約百七十センチ)を超えており、その身に纏う青藍のローブの上からでも若者に決して劣らない肉体を持つことが分かる程に、赫赫かっかくたる威光を持ち併せていた。

 ディアークは未だ現状を把握しきれないままに、口を開く。


「おぬしは一体……。いや、まさか」

 

 しかし。その老爺の風貌に、ディアークは見覚えがあった。

 確か少年がまだ帝城にいた頃……六歳にも満たない、幼き頃の微かな記憶を辿る。

 そして、辿り着いた。そう。いつか玉座の間で見た老爺の、彼の名は――――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る