第2話 災厄の皇子〈下〉


「は……」

 

 その時、ディアークは目の前で起きている現実を可能性としては思い浮かべながらも、ずっと否定し続けていたことに気付く。だがその可能性は今、まさに現実として昇華していた。少年は現実を受け止める刹那の思考すらも自らに許さぬかのようにすぐさま二人の従士を押し退け、ゼバルドゥスの方に駆け寄る。

 普段の柔和な表情を苦悶に歪めたまま、瞼は閉じて躰は完全に静止している。右肩から左腰、左肩から右腰という風に袈裟懸けに斬り結ばれた躰からは、側廊からでも識別できた血潮の臭いがこれでもかというほどに立ち込めている。そんなことは知ったことではないと言わんばかりに、少年は聖職者の右手を握った。

 両手で、ひしと、しかと。


「何故……何故だ! 何故なにゆえ、おぬしがこのような……ッ!」


 ディアークが顔を深く俯かせて呻くように発した声が、聖堂内で微かに反響する。

 そして訪れる静寂と共に、ゼバルドゥスが微かに呼吸する音を耳に捉えた。


「……! ゼバルドゥス、聞こえるか! 私、私だ! ディアークだ!」


 少年は仄かな希望を感じ取り、少し表情を緩ませて懸命に話しかけた。

 完全に死に絶えてしまったのではないかとすら思うまで、自分は勝手に可能性を最悪なものへと押し上げていたのか。ディアークはそう心の中で独り言ちて、ゼバルドゥスの返答を待つ。するとゼバルドゥスは小刻みながらも瞼をゆっくりと開けた。


嗚呼ああ……。そこにおられるのですね、様……」


「—―――――!」


 躰を起き上がらせることも叶わぬゼバルドゥスが放った言葉。その言葉が、まるで嚆矢のように黒髪の少年を射抜いた。瀕死の重体である聖職者の単なる言い間違いではない。確かに意味を持った言葉として、ディアークは受け止めた。


「……おぬしは、認めてくれるか。いや……おぬししか、おらぬか」


 ゼバルドゥスの右手を握ったまま、ディアークは深い溜息をつく。そして自問自答する。彼が応えてくれるとは思わなかったから。

 かろうじて生きてくれてはいたが、彼の息は絶え絶えで血も大量に流れ出ている。意識はほぼ無く、ディアークの声など殆ど届いていないだろう。それでも何か伝えたいことがあるのだろうか、ゼバルドゥスの唇は動きを止めることはない。少年はその言葉を聞き洩らすことが無いように、唇の近くへと顔を寄せる。


「私にとって……貴方と出逢えたことが……最上の僥倖で、ありました……」


 まず聞こえてきたのは、ディアークに対する謝辞。いいや、そんなことは無いと少年は首を横に振る。そして聞こえていないと分かりながらも少年は告げる。


「礼を言いたいのは私の方だ……。おぬしがいてくれて、私がどれだけ救われたか」


 かつての日々を思い出す。齢六にして帝城から追い出され、従士共に監視されながら孤独を噛み締めていた幼き日々。それでも今まで生きてこられたのは、ゼバルドゥスとの出逢いがあったからこそなのだ。そんな彼が、何の恩返しすらできないまま自分の前で命を落とそうとしている。だからせめて、感謝だけでも。


「ディルク様……。貴方こそが、この大陸に、平和を、もたらす者……」


 大陸に、平和を、か。……はっ。ゼバルドゥスめ、死に際にとんだ世迷い言を。こんな私に一体何ができるというのか。おのが師に恩を返すことすらできぬ私に。

 ディアークはそう自嘲しながらも、遺言をけして聞き流すことなく傾聴する。

 ――――その瞬間、ディアークは自らの耳を疑った。


「……貴方の追放と、クリームヒルト様の、死は……、もの……」


 少年の紅眼が強く見開かれる。

 クリームヒルトKriemhild。ディアークの生母に当たる、市民階級出身の女性だ。

 元より、彼女は黒髪の皇子を生んだことから宮廷内では疎まれていた。しかしその皇子が六歳時にとある事件を引き起こして帝城から追放された後、よりクリームヒルトの立場は悪化した。更に悪いことに、皇帝エルンストはそうした事件やディアークの存在そのもの……いわゆる〈災厄〉の罪をクリームヒルト一人に被せた。それによって、クリームヒルトは半ば強制的に自死の道を選んだのだ。

 そんな彼女の死が、仕組まれたものだと……? 勿論この言葉も死に際の世迷い言だと切り捨てることは容易だ。しかしディアークにはどうも嘘だとは思えなかった。


「ま、待て。ゼバルドゥス。……おぬしは一体、何を知っている?」


 より自分の顔を近づけて、ディアークは問う。その声が聞こえたのだろうか、ゼバルドゥスは心なしかディアークの方に目線を向けて、また微かに唇を動かす。

 ……だが。その唇の動きが空気を震わせ、新たに言葉を紡ぐことは無かった。

 ディアークの瞳に映るゼバルドゥスの面差しに、黒く大きな陰りができる。先程までの苦渋の表情が一弾指いちだんしの間だけ、常々の平安なものに変わった。

 その刹那、ゼバルドゥスの脳天を貫くように両用剣バスタードソードが振り下ろされる。

 少年の顔やコット、そして純白のマントに紅の飛沫しぶきが鷹の翼を広げたように飛び散った。驚愕に顔を強張らせる少年の周りには、大剣の一振りによる衝撃で弾け飛んだゼバルドゥスの眼球が、体液に塗れながら無惨に転がっている。目と眼が、合う。

 少年の目から、光が消えた。


「ダラダラと妄想垂れ流してんじゃねぇよ、糞坊主が。……へっ、スカッとしたぜ」


 ディアークはずっと握っていたゼバルドゥスの手を放して、顔を上げた。

 そこには一人の大柄の男が立っている。両用剣を片手で軽々と振り下ろしたままニヤニヤと、黄ばんで所々欠けた歯を見せながら笑っている。その恰好だけは騎士らしく立派なもので、鎖帷子チェインメイルの上に〈帝冠を戴く双頭の翠鷲グリューン=ドッペルアドラー〉が描かれた黒のシュールコー、更にその上から赤のマントを羽織っている。

 少年はその男に向けて、微かな笑いを浮かべながら言った。


「何故、と問うのはお前たちからだったな……。ダミアン、ゲオルク」


「……いやあ、この司祭が中々ディアーク様の居場所を言わないもので。ついカッとなってしまいましてね。元からこの聖堂の司祭がディアーク様と懇意であることはゲオルクから聞いておりましたから、魔術の探知反応が消えても特定は容易でしたよ」


 赤毛の短髪をポリポリと搔きながら、従士長のダミアンは抜け抜けと言ってのけた。それから自らの得物をゼバルドゥスだったモノから無造作に引き抜く。体液が付着した剣の手入れが面倒になりそうだと少しうんざりした表情を浮かべた。

 ディアークは立ち上がる。そしてダミアンの少し後ろに控える、頬がこけた紫髪の男に対してゆっくりと視線を向けた。副従士長のゲオルクだ。


「まさか私の探知魔術陣が解かれるとは思いませんでしたがねぇ。この司祭も中々の巧者だったということですか。……まあ、これはこれで術式に改良の余地があるということで。私としては悪くない経験だったと思いますよ。クククッ」


 ゼバルドゥスの死など何の気にも留めていない様子の、ディアーク従士の二人。

 彼らがディアーク従士として少年の前に現れたのは去年の春。帝国下級騎士ミニステリアーレの中からほぼ無作為に選ばれるディアーク従士団は、万が一にでも監視対象との親交が深まらないように二年で交代となる。その為、少年にとっては四度目に結成された従士団ということになる。そして無作為という言葉通り、選出された従士たちは粗野であったり偏屈であったり、と皇族の傍に置くには憚られる者ばかりなのだ。

 特にこのダミアンとゲオルクという、齢にして共に三十を少し超えたぐらいの男たちはその好例である。帝国下級騎士を代々輩出する家門の中でも、全く無名の家系に三男坊や四男坊として生を受けた無名の者たち。ただ無名で、粗野で偏屈であるだけならまだ許容できる。しかし彼らには、ディアーク従士としては全く以て失格に足る欠陥がもう一点だけ存在するのである。


「それにしてもこの坊主、死に際に何やら変なことを言ってましたなぁ。『ディルク様』でしたっけ? ディアーク様の名前すら間違える程に耄碌もうろくしていたとは……ここらで私が殺しておいて良かったやもしれません。ミサの時に司式の段取りも間違えちまうかもしれませんから! ハッハッハ!」


 ダミアンは両用剣を鞘に納めながら豪快に笑った。ゲオルクがそれに呼応する。


「ええ、まさにその通り。『ディルクDirk』では『統治者』の意味になってしまうじゃあありませんか。なれどディアークDirk様は一生、のですから!」


 二人の間で、下卑た笑いの渦が生まれる。一方の豪快な笑い声と、もう一方の卑屈な引き笑いが不協和な狂想曲を奏でる。少年の相貌から、笑みが消える。

 そう。彼らの欠陥とは、ディアークへの忠誠どころか敬意すらも何もかもが欠けて

いるということ。だからディアークにとって家族同然のゼバルドゥスを軽率に殺しておいて、何の反省も釈明も無い。そして面と向かって少年を侮辱する。

 そんな彼らを前にして、少年は一歩たりとも動かない。


「……さーて、死体はそのままってわけにはいかんな。こんな小さくて貧相な教会だ、この坊主以外に人っ子一人いやしねぇ。俺達だけで処理するか」


「ええ……それにしても、外はすっかり真っ暗になってしまったようで」


 ひとしきり笑った後、ダミアンはゼバルドゥスの遺体を埋葬しようと提案した。それに対してゲオルクが返したように、先ほどまで落日だった太陽は完全に地平線に消えてしまって、教会の窓から入ってくる光は月が放つ淡いものになっている。


「む、本当だな。何か灯りが欲しいが……チッ。この祭壇、燭台はあるが肝心の蝋燭が無ぇじゃねぇか。どんだけ耄碌してやがんだ、この生臭坊主がよ」


 ダミアンはそう悪態を付いて、ゼバルドゥスの潰れた頭部あたりを踏みにじった。

 そしてゲオルクも「どこかに蝋燭は無いものか」と教会内を探そうとする。二人とも光明魔術や火焔魔術の適性が無い故の行動だ。

 すると、ディアークが突然口を開いた。


「おぬしら、ここに光があるぞ」


 今までずっと立ち尽くして沈黙を貫いていた少年。

 そんな彼の言葉に、ダミアンとゲオルクはつい彼の方を振り返る。

 その時。

 

 ディアークの紅き瞳が、より強く、その鋭い輝きを放った――――。




 聖ペーター聖堂教会の門前に、ディアークはいた。

 夜空に浮かぶ満月はそろそろ南中しようかというところであり、夕方から随分と時間が経過したことを物語る。ディアークが見つめる先には、舗装された石道にぽつんと置かれた一頭の馬とそれが曳く一台の四輪馬車があった。

 屋根が付いていて、黒を基調としたその馬車には見覚えがあった。ディアークが普段暮らしている東市街の屋敷の前にいつも置いてあったものだ。とはいえ帝都の外に出ることが許されていないディアークにとっては無用の長物ではあったが。

 しかしダミアンやゲオルクが乗ってきたものではないだろう。だとすれば、誰があの馬車をここまで曳いてきたのか。顎に手をやって、目を瞑って黙考する。

 すると乾き切っていない血の臭いが、強烈に鼻腔を襲ってきたので慌てて止めた。

 気付けば、さっきまで誰もいなかったはずの馬車の御者台に誰かが座っている。月明かり以外に頼れる光源が無いので、一体どんな人物であるかは皆目見当が付かない。訝しく思いながらも、ディアークは馬車の方へゆっくりと歩みを進めた。

 そこにいたのは……灰色の縮れた髪と髭を無秩序に伸ばし、茶褐色のローブを纏った見すぼらしい老人。その髪のせいで目が隠れて見えない。腰も酷く曲がっている。


「つかぬことをお訊きするが……この馬車は私を乗せるためのものか?」


「へぇ。あっしは貴方様の小間使いの方より遣わされた、一介の御者でありやす」


 その老人は風貌通り皺枯れた声、洗練されていない喋り方で少年に応える。

 ディアークが住む東市街の屋敷には、家事全般を任された小間使いの女性が一人だけ住み込みで働いている。上流階級、しかも皇子に対して使用人が一人というのは本来あり得ないことだが、これも〈災厄の皇子〉であるが故だ。


「そうか。それではありがたく乗らせてもらおう、東市街の屋敷まで」


「へぇ。……そこに足を掛けて登ってくだせぇ。この闇夜です、踏み外さんように」


 ディアークはその老人の気遣いに「すまぬな」と返す。無粋な第一印象の割に意外と気が回るものだなと少し感服しながら、馬車下部の少し出っ張った木の部分に慎重に足を掛ける。その様子を老人は横目で虚ろに眺めている。ぽたぽたと、教会堂の方から石畳の大通りまで続く血痕の終点を、その目に捉えている。

 ディアークが馬車の中に入ると、あと二人ぐらいならば余裕で入ることができそうな縦に長い空間が広がる。代わりに座席のようなものは無い。また屋根付きとはいっても、その屋根の所々が壊れている上に車体側面は吹き晒しの状態だ。どちらかといえば旅馬車というより荷馬車の方が印象が近い。何にしても庶民寄りの造りだ。

 黒を基調とした車体の色といい、ある意味で自分に対しての特注品のようだとディアークは自虐的に苦笑する。そして硬い木板で出来た床に、足を曲げて腰掛けた。


「では、よろしく頼む」


「へぇ」


 短いやり取りを経て、その老人は両手に持つ手綱を動かして馬車を前進させる。石畳で舗装された道なのであまり段差は無いが、少し左右に揺られながら赴く。

 もはや庶民の家々から灯りが漏れることも無い暗黒の夜だ。月明かりだけを頼りにして、ゆっくりと通りを進んでいく。淡々と手綱を繰って、馬が進む方向を統御する御者の表情は当然のことながらディアークの方からは見えない。

 そのこともあってか、ディアークはその御者に対して若干の不安を抱いていた。

 まず第一に。


 自分が、従士のダミアンやゲオルクと共にいないことに、彼は何故言及しない?


 小間使いに依頼されて来たというなら、この聖堂にディアークだけでなく従士の二人もいることを見越して遣わされたはずだ。それなのに、まるでディアーク一人だけを待っていたかのような反応を見せ、従士たちのことについて尋ねることすらしなかった。それに加えて、不可解に思う点がある。

 暗闇の中では少年の姿がよく見えない上、あの老人がいくら口髭を無造作に伸ばしているとはいえ、気付かないはずがないのだ。


 ディアークの全身を染め上げる、乾き切らない多量の血液の臭いに。


 少年の顔にも、髪にも、コットにも、マントにも。べっとりと付いている。

 ふと、御者への懸念など忘れ去ったかのようにディアークは項垂うなだれる。

 そして自分の紅に染まった両手を、じっと見つめる。

 この手でゼバルドゥスの右手を握っていた感触を、思い出しながら。

 少年の髪は黒く、夜風に揺れる。

 眼は紅く、悲哀に濡れている。

 

「ゼバルドゥス……。これでも私を、認めてくれるか……?」


 〈災厄の皇子〉は小さく、消え入るような声で、呟いた。



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