「申し遅れました。我が名は、レイナード・フォン・ヴァルトブルク」


 その名は、帝国に住む者ならば誰もが知っている。

 帝国北中部・ルードリンゲンLudoringen地方の前領主にして、ヴァルトブルクWartburg魔導まどう伯爵はくしゃくの前当主。帝国内で三人しか叙爵を許されぬ爵位・魔導伯爵の一角をあずかる者として長らく君臨し、皇帝エルンストに伺候していたこともある帝国随一の魔導士。

 齢は今年で六十五、流石に魔導伯としての地位は嫡男に譲ったが、それでも魔導士としての力量は全く衰えを見せない。そして落ち着き払った上品な所作や思慮深い態度から、その白亜の髪や顎髭と相まって〈純白じゅんぱく賢者けんじゃ〉の異名を持つ老爺である。

 ディアークには、その老爺に尋ねたいことが幾らでもあった。しかし一旦、少年はおのが動揺を取り繕って、差し障りの無い会話から始める。


「……久しいな。何年ぶりだ?」


「貴方様が五歳の折、玉座の間でお会いしたのが最後でございましょう。実に八年ぶり……とは申しましても、直接お話ししたのはこれが初めてやもしれませぬ」


 確かに少年にも、老爺を目にした記憶はあっても話をした記憶は無い。無論、皇族とはいえ五歳と幼く、宮廷内でも敬遠されていたディアークに話しかけてくれた貴族など、レイナード以外にもいなかったのだが。それはともかくとして。


「初めて話す場がここになるとは思ってもみなかったがな。……目的は何だ?」


 軽い挨拶代わりの会話を一通りしてから、話題を一転させる。

 これまでの不可解な行動。何故、この老爺は御者の振りなどしていたのか。

 ディアークの鮮血に濡れた姿を目の当たりにして、何故何も言わなかったのか。

 それに、ユリアは今どうしている? 小間使いとはいえ、今までの七年間ずっと共に暮らしてきたのだ。もはや、ディアークが家族同然に思っている唯一の人だ。


「その前に一つだけ。貴方様の小間使いには一切、危害は加えておりませぬ。ただ、ちょこまかと動かれると面倒ですので、魔術でしばし眠らせております」


 レイナードはユリアの寝室がある二階を指差して、ディアークを安心させるためか微かに笑みを湛える。それでもディアークは警戒を解く気は毛頭ない。勿論ユリアが無事であるというのは朗報だが、この老爺の真意は未だ分からないままなのだ。

 かと思うと、老爺の翡翠色の双眸がひと際強く、ディアークの方へ向けられる。ただ佇んで此方を見ているだけだというのに、少年は少し身震いする。


「……簡潔に申し上げましょう、わたくしの望みはただ一つ」


 レイナードは口を開き、自らの目的を遂に打ち明ける。

 しかしそれは、ディアークにとっては思いもよらぬものであった。


「貴方様の従士長となり、そのを御支えすること」


「…………何—―――?」


 黒髪の少年の紅き眼が、大きく見開かれる。突然告げられたレイナードの従士長就任宣言もそうだが、それよりも突拍子の無い言葉が飛び出したのだ。

 ディアークは老爺の言葉を反芻しながら、唇を震わせる。


「野望を支える、だと? ますます分からぬ。そもそも私には……」


「私には野望など無い、と?」


 ディアークの言葉に被せるように、レイナードは低い声音で問う。

 自らの心根が全て見透かされているような心地がして、少年はそれに応えることができなかった。ああ、そうだ。自分には何も成し遂げたい野望など無い。皇子でありながら帝位継承権を奪われ、この屋敷に追放された七年前のあの日から。

 忠誠心の欠片も無い従士たちに監視され、帝都から出ることも許されなくなった。

 ユリアを除けば唯一心を開ける相手だったゼバルドゥスも、もういないのだ。

 そこまで思考が及ぶと、ディアークは自棄になったかのように言葉を紡ぎ出す。


「私には、何も成し得ぬ。不忠の従士をこの手で幾ら殺そうとも……何も変わらぬ」


 自らの右掌にまみれた、生臭さの残った血痕をレイナードに見せた。

 レイナードの表情は一切変わることが無い。老人らしく瞼が少し垂れ下がっているのを感じさせないほどに強く、鋭い眼光が少年に向かって注がれ続ける。

 ディアークは顔を少し下げながらも、自らの黒々と渦巻く想念を伝えんとする。最初は少年の方がレイナードに問いかけていたというのに。


「私は、災厄の皇子なのだ。存在するだけで周囲の者を傷付ける。飼い殺しにされているだけ、まだマシというものだ。……いっそのこと」


 ゼバルドゥスだけではない。クリームヒルトも、ダミアンも、ゲオルクも。

 で死んでいった者たちも……。皆、自らのせいで命を落とした。

 いつか、自分はユリアさえも死へと導くかもしれない。

 そんなことになるくらいなら。周囲の人々がこれ以上、傷付くことになるのなら。

 いっそのこと。


「私など、死んでしまえば――――」

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