「勇猛さと聡明さを兼ね備えるジギスムント新皇帝陛下、万歳ハイル!」


万歳ハイル!』


 先ほど近衛騎士団の各士団長が行ったような万歳復唱を、群衆らが誰に言われるまでもなく行う。先ほどまでより多くの人々が熱烈な歓声を上げ、手を大きく振る者も珍しくない。魔導士が討たれた後のジギスムントの果断な対応が、群衆の眼には先帝エルンストにも劣らぬ有能な新皇帝として映ったのだろう。

 馬車に乗って行進していた時の皇帝らしい冷徹な態度から一変して、ジギスムントは表情こそ変えはしないが群衆の方に向けて手を振り返した。それによって群衆の熱狂度合いは更に高まっていく。自身の新皇帝としての堂々たる振る舞いを群衆の前で見せつけながらも、人心掌握は欠かさないということか。

 全く以て隙が無い。それが〈ジギスムントSigismundフォンvonグリューネヴルムGrunewurm〉という男に、俺が抱いた感想だった。彼ならば、大陸の平和を束の間でないものにできるかもしれない。それは微かな希望だった。


「……我が騎士リヒャルトよ、少し喉が渇いた。水をくれぬか」


 俺の視線の真正面にいるジギスムントは、近くにいた警護部隊の副隊長に対して話しかけた。先ほどの演説や指示で喉が渇くのも当然だろう。リヒャルトというらしいその騎士は「仰せのままに」と言って駆けて行き、しばらくして水の入ったガラス瓶を手にして戻ってきた。恐らく後列の部隊から拝借してきたのだろう。

 リヒャルトは魔導士隊に、魔術陣に穴を開けるように命じてから再び不可視の魔術陣の中へと入っていった。今現在ジギスムント皇太子夫妻を中心に構築されている魔術陣は、魔導士二十人がかりで組まれた非常に強力なものだ。矢弾どころか破城はじょうついや数百人単位での騎馬突撃でも破砕することは叶わないだろう。

 どのような外部からの攻撃があろうとも、ジギスムントにはかすり傷一つ負わせることはできないだろう。……外部からは。内部はどうだ?

 魔術陣の中にいる誰もが、あの矢に続く空からの追撃を警戒している。魔導士殺しの黒鎧重歩兵たちも遠ざけた。信に足る近衛歩兵と近衛魔導士たちがジギスムントとアンネリーゼを護っている。リヒャルトという男は黒鎧を纏っているが、ジギスムントが直接めいを下すほどの忠義者だ。心配はいるまい。

 大丈夫だ。

 このままジギスムントの安全は保障され、馬車は再び動き出し、彼は〈帝冠〉を受け取って、アルザーク帝位を得る。そして新たなる平和が到来する。

 これは予定調和なのだ。

 今更どんな邪魔が入ろうが、ジギスムントの戴冠は疑いない。

 ……それはただ信じたいだけではないかと思う内心を抑え、俺はただ立っている。

 馬車後方を眼差しながら、ガラス瓶に入った水を口へ流し込んでいるジギスムントの立ち姿が見える。騎士のリヒャルトはその前で膝まづいている。アンネリーゼ妃はその夫と同じ方を向きながらも座って、どこか遠い方を見つめているようだ。

 先刻まで空を覆っていた厚い黒雲の隙間から、陽光が見え隠れしていた。


 その時、事件は起こった。


「—―――――な……馬鹿なァ…………ッ!」


 俺が瞼を閉じて再び開いた時には、ジギスムントの背中を深々と槍が貫いていた。

 穂先の根本に翼のような二本の刃が伸びた翼槍を両手で持ち、ジギスムントの胸を狙い撃つかのような一撃を放ったのは、一人の近衛歩兵。今まで如何なる背信の素振りも見せていなかった、近衛歩兵隊の一人だった。

 ジギスムントが口を付けていたガラス瓶が手から滑り落ちて、音を立てて割れる。

 —―――崩壊の、音。


「……で、殿下……? 殿下? 殿下ぁぁぁぁッ!」


 近衛歩兵が槍を引き抜くと、ジギスムントは体勢を崩して馬車から転落した。

 菩提樹大通りが再び鮮血に染まる。アンネリーゼ妃の悲鳴がそれを掻き消した。

 ジギスムントを刺したその近衛歩兵はすぐ近くの彼女には全く近付く様子もなく、その場に立ち尽くしていた。その様子を見て、しばらく放心状態だったリヒャルトや周りの帝国兵も一斉に動き出した。


「貴様ァッ! 今、何をしたのか分かっておるのか……! この御方は、新アルザーク皇帝となられるジギスムント皇太子殿下であるぞ……ッ!」


『そやつをひっ捕らえよぉぉぉ!』


 リヒャルトは膝をついてジギスムントの血でまみれた躰を抱き寄せ、くだんの近衛歩兵に対して怒号を放った。それでも身動き一つしない近衛歩兵が被る犬面兜の下で何を思っているかなど分かりようもない。

 他の近衛歩兵たちが五人がかりでその男を取り押さえ、地面に顔を兜ごと叩きつける。犬面兜を乱暴に引き剝がされ、顔が露わになったその男はまだ若く、俺と同じくらいの歳の美男子だ。深緑の長髪で、その端正な顔貌には幾つかの切り傷があった。その表情は決して絶望に満ちたものでも、歓喜に満ちたものでもない。まるでやり切って安堵したかのようだった。


『――――きゃぁぁぁぁぁぁぁッ!』


 群衆の方から、金切声にも似た悲痛の叫びが近くで聞こえる。

 崩壊の音だ。

 周囲は一度聞こえた叫びを除いて、水を打ったかのように静まり返り……。

 そして状況を呑み込めた者から声にならない声を上げ、その連鎖は半永久的に続く。ある者は絶望し、ある者は悲嘆し、ある者は錯乱して笑い声を上げる。

 菩提樹の葉が舞う大通りの様子は一瞬にして、地獄絵図と化したのである。


『こ……皇太子が暗殺されたぞーーッ!』

『馬鹿なっ。どうして近衛兵が皇太子殿下を……。あ、あり得ぬ!』

『ふはははッ! なんとお気の毒なジギスムント殿!』

『……貴様ら、一刻も早く本国にこの事を伝達するのだ! 隊列を整えよ!』


 群衆はただただ困惑し、混乱し、疑心暗鬼となる。馬車後列の帝国兵たちすらも、それを収めるどころか恐れおののくばかり。馬車付近の警護兵たちは件の近衛歩兵を拘束しつつジギスムントの遺体やアンネリーゼ妃を護るだけで手一杯となっている。

 そして今起きた事件を帝国弱体化の予兆と見て、直ちに本国に帰投せんとする周辺各国の軍隊。俺の横にいたディオニュシウス司教も、再び起きた惨劇に首から下げた十字架を握りしめながらも聖王国軍遠征隊に向けて号令を掛けた。


デウスに忠誠を誓うヴェルランドの聖戦士たちよ、ただちにサン=アルヴィネーゼへ出立の準備を! 教皇猊下げいかにこのことをお伝えせねばなりません!」


 聖王国のな都たる〈聖都〉サン=アルヴィネーゼSaint=Alvinezet。ルミエルド聖教会の総本山であり、サン=アルヴィネーゼ教皇猊下がおわすところ。

 あの伏魔殿にこの事件を伝えに行くということは、つまり。

 

帝国による平和パクス=グリューナの崩壊……」


 俺は呟く。嗚呼ああ、きっと大陸の平和は遠いものとなる。

 眼前に現れた平和への希望が今、眼前で打ち破られたのだから。

 俺は再び戦に赴くことになるのだろう。嗚呼、最悪だ。

 ……嗚呼、なんて愉快なことだろう。精々、生き残ってやろうじゃないか。

 俺はずっと外したままでいた閉鎖兜を被る。

 そしてジギスムントがいた方向から目を背け、歩き出した。

 俺は〈ルイLouisVVilleneuveヴェルディエVerdier〉。聖王に仕える一介の聖騎士だ。


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