大乱世と覇道の始まり〈下〉


「……ッぐ、ぐぁぁぁぁッ!――――ぁ」


 その光とは、一本の矢であった。どこからともなく放たれた嚆矢こうしは、馬車の車体後部に立てられていた帝国旗のど真ん中を射抜いた。

 更には、そのまま一人の黒鎧重歩兵の胸へと吸い込まれていったのである。鎧を貫いて深々と突き刺さった矢は、魔術の助けを得たもののように思えた。


「たっ、隊長ッ!」


 傍にいたもう一方の黒鎧重歩兵が狙い撃たれた方に駆け寄る。身体から絞り出されるように聞こえた叫び声、その末に力なく崩れ落ちたのだ。恐らく即死だろう。

 俺達を含め、諸国軍の戦列の間に動揺が広がる。その動揺は後方の群衆たちにも伝播し、先ほどまで喝采と歓声に沸いていた大通りが一気に静まり返った。

 ……隊長? なるほど、馬車の後方に警護隊長がいた方が皇太子夫妻を常時見張ることができて、指示も通りやすかろう。

 だが。今この瞬間、明らかに狙い撃たれた。

 と、いうことは。

 今から確実に、何かが起こる――――!


「魔導士共! まさか防御ぼうぎょ魔術まじゅつを張り忘れたのではあるまいな!」


「そ、そんなことは……! あの術式で、矢弾など貫通するはずが……っ!」


「ええい、黙れ! ならば貴様らが何者かと共謀し、魔術陣にを開けたとしか考えられぬではないか、この逆賊めが!」


 馬車前方にいた黒鎧重歩兵を中心に、重歩兵たちが魔導士たちに詰め寄る。

 あまりの剣幕に魔導士たちが後ずさった。本来の的であったかもしれない皇太子が口を挟む暇すら無い。皇太子夫妻が屋根も無いような四輪馬車に乗って衆目に晒されることができるのは、近衛の魔導士たちが不可視の防御魔術陣を馬車の周囲に張り巡らすことで、矢弾どころか他者の侵入さえ全てを封殺しているからだ。それでも万が一の為に、魔術陣の中に黒鎧重歩兵が控えていた。

 誰も侵入できない空間に、彼らがいた。


「今この場で、貴様らをする!」


 馬車前方の重歩兵の一人が左腰に手をやりながら叫んだその一声が、皮切りとなった。—―――四隅に二人ずつ配置されていた魔導士たちの肉塊が、四散する。

 重歩兵たちが抜剣したと思うと、続く動作で彼らの長剣は魔導士たちのくびを捉えていた。至近距離での戦闘では、魔導士は手も足も出ない。ただ狩られ、呆気に取られたままの顔貌もそのままに首を地面へと落とされる。

 滔々とうとうと流れる紅色が、大通りを舗装する敷石を染め上げる。敷石同士の隙間を縫い、その紅色は大地の錆色さびいろに馴染んでいくのだろう。

 それを見下ろすは、六人の黒鎧重歩兵。皇太子のめいも受けずに味方の魔導士を処断するなど言語道断。それにも関わらず、彼らは全く動揺すらしていないようだった。一体、何のつもりなのか。俺は手に汗を握った。

 同時に、俺の隣にいたディオニュシウス司教が目の前で繰り広がられた惨劇に耐えられず、腰を抜かして震えながら倒れ込む。俺は自らの肩を貸し、老齢らしい枯木のような彼のからだを再び立ち上がらせる。普段から人間が殺される光景を見てきていない聖職者ならば仕方なかろう。聖職者に限らず、群衆も耐えられるものではあるまい。実際、群衆の方からはうめき声とも金切声とも分からない声が聞こえてくる。

 警護隊長に続いて魔導士八人が討たれた大通りでは、先刻とは打って変わって殺伐とした空気が流れていた。身に迫る死の臭いを感じ取るのはいつも戦う者だ。

 誰があの矢を放ったのか。帝室に敵対する帝国内勢力か、諸外国の者か、単なる愉快犯か。そもそも皇太子夫妻を狙ったものだったのか。だとしたら追撃が来るのではあるまいか。黒鎧重歩兵たちの行動の真意は何なのか。帝国軍や諸外国軍の兵士たちは、民間人とは違う冷静な思考でこの状況を注視していた。


「—―――我が忠勇なる騎士たちよ、何故なにゆえ其方そなたらの同胞を討つ? 討つべきはこの矢を放ち、我が親愛なる騎士ディートリヒを葬った痴れ者であろう!」


 その時、四輪馬車に乗っていたジギスムント皇太子が立ち上がり、威風堂々とした体躯を見せつけるかのように両手を広げ、芝居がかった台詞を言い放った。

 魔導士を討った重歩兵六人と、警護隊長の死を悟った副官らしき重歩兵が一様に膝まづいた。ジギスムントの隣にいるアンネリーゼ妃は余裕そうな表情を崩してはいないが、膝を小刻みに震わしているのがドレスの上からでも分かった。


「いつ追撃があるかも分からぬ、新たに魔導士と衛兵を私の下へ! 貴様らは必ずこの矢を撃った不届き者を見つけ出せ! 無辜むこの魔導士を討った汚名をすすぐ機会を与えてやる! アルザーク帝室に歯向かった者に、地獄を見せてやるのだッ!」


『—―――ははッ!』


 大仰な振る舞いはそのままに、ジギスムントは的確に後続の騎馬隊へ指示を出す。

 そして六人の黒鎧重歩兵に対しては恩赦をちらつかせながら、ていよく自分たちの側から追い払う。重歩兵たちは瞬く間に大通りの奥へと姿を消した。それを確認して、ジギスムントは警護兵の副隊長に耳打ちした。するとしばらくして三十人程の騎乗兵と歩兵の混成部隊が重歩兵たちの消えた方へ向かった。

 なるほど、賢明な判断だ。

 射撃手の本格的な捜索は彼らに任せ、厄介払いさせた重歩兵たちは捕縛してしまおうというわけだ。重歩兵たちをこの場で捕縛することもできただろうが、その際に至近のジギスムントに危害を加えないとも限らない。それに俺達のような諸外国の軍隊の前で、これ以上の醜態を見せるわけにもいかなかったのだろう。

 先帝エルンストは〈賢帝けんてい〉として名高かったが、新皇帝のジギスムントもとんだ傑物のようだ。芝居がかった振る舞いは鼻に付くが、あの若さで近衛騎士団に臆せず正確無比な指示を出し、この大通りでの混乱を収拾せんと動いた。

 実際、大通りに広がっていた動揺はある程度落ち着きを見せた。あの矢が警備隊長を射殺してから十五分程度が経過して、その間に魔導士たちや警護隊長の遺体が撤去されたことも人々にひとまずの安心を与えた。

 未だ俺の眼前に留まっている皇太子夫妻を乗せた馬車の周囲には、先程よりも多い数の警護兵が集まり、彼らを囲むように二十人ほどの魔導士が更に強力な防御魔術陣を張ろうと詠唱を開始していた。流石に黒鎧重歩兵をこれ以上警護に付けるのははばかられたのか、板金鎧を纏って翼槍スペトゥムを武装した帝国歩兵があてがわれている。その様を眺めていると、すぐ近くの群衆の方から声が聞こえた。


「勇猛さと聡明さを兼ね備えるジギスムント新皇帝陛下、万歳ハイル!」


万歳ハイル!』


 先ほど近衛騎士団の各士団長が行ったような万歳復唱を、群衆らが誰に言われるまでもなく行う。先ほどまでより多くの人々が熱烈な歓声を上げ、手を大きく振る者も珍しくない。魔導士が討たれた後のジギスムントの果断な対応が、群衆の眼には先帝エルンストにも劣らぬ有能な新皇帝として映ったのだろう。

 馬車に乗って行進していた時の皇帝らしい冷徹な態度から一変して、ジギスムントは表情こそ変えはしないが群衆の方に向けて手を振り返した。それによって群衆の熱狂度合いは更に高まっていく。自身の新皇帝としての堂々たる振る舞いを群衆の前で見せつけながらも、人心掌握は欠かさないということか。

 全く以て隙が無い。それが〈ジギスムントSigismundフォンvonグリューネヴルムGrunewurm〉という男に、俺が抱いた感想だった。彼ならば、大陸の平和を束の間でないものにできるかもしれない。それは微かな希望だった。


「……我が騎士リヒャルトよ、少し喉が渇いた。水をくれぬか」


 俺の視線の真正面にいるジギスムントは、近くにいた警護部隊の副隊長に対して話しかけた。先ほどの演説や指示で喉が渇くのも当然だろう。リヒャルトというらしいその騎士は「仰せのままに」と言って駆けて行き、しばらくして水の入ったガラス瓶を手にして戻ってきた。恐らく後列の部隊から拝借してきたのだろう。

 リヒャルトは魔導士隊に、魔術陣に穴を開けるように命じてから再び不可視の魔術陣の中へと入っていった。今現在ジギスムント皇太子夫妻を中心に構築されている魔術陣は、魔導士二十人がかりで組まれた非常に強力なものだ。矢弾どころか破城はじょうついや数百人単位での騎馬突撃でも破砕することは叶わないだろう。

 どのような外部からの攻撃があろうとも、ジギスムントにはかすり傷一つ負わせることはできないだろう。……外部からは。内部はどうだ?

 魔術陣の中にいる誰もが、あの矢に続く空からの追撃を警戒している。魔導士殺しの黒鎧重歩兵たちも遠ざけた。信に足る近衛歩兵と近衛魔導士たちがジギスムントとアンネリーゼを護っている。リヒャルトという男は黒鎧を纏っているが、ジギスムントが直接めいを下すほどの忠義者だ。心配はいるまい。

 大丈夫だ。

 このままジギスムントの安全は保障され、馬車は再び動き出し、彼は〈帝冠〉を受け取って、アルザーク帝位を得る。そして新たなる平和が到来する。

 これは予定調和なのだ。

 今更どんな邪魔が入ろうが、ジギスムントの戴冠は疑いない。

 ……それはただ信じたいだけではないかと思う内心を抑え、俺はただ立っている。

 馬車後方を眼差しながら、ガラス瓶に入った水を口へ流し込んでいるジギスムントの立ち姿が見える。騎士のリヒャルトはその前で膝まづいている。アンネリーゼ妃はその夫と同じ方を向きながらも座って、どこか遠い方を見つめているようだ。

 先刻まで空を覆っていた厚い黒雲の隙間から、陽光が見え隠れしていた。


 その時、事件は起こった。


「—―――――な……馬鹿なァ…………ッ!」


 俺が瞼を閉じて再び開いた時には、ジギスムントの背中を深々と槍が貫いていた。

 穂先の根本に翼のような二本の刃が伸びた翼槍を両手で持ち、ジギスムントの胸を狙い撃つかのような一撃を放ったのは、一人の近衛歩兵。今まで如何なる背信の素振りも見せていなかった、近衛歩兵隊の一人だった。

 ジギスムントが口を付けていたガラス瓶が手から滑り落ちて、音を立てて割れる。

 —―――崩壊の、音。


「……で、殿下……? 殿下? 殿下ぁぁぁぁッ!」


 近衛歩兵が槍を引き抜くと、ジギスムントは体勢を崩して馬車から転落した。

 菩提樹大通りが再び鮮血に染まる。アンネリーゼ妃の悲鳴がそれを掻き消した。

 ジギスムントを刺したその近衛歩兵はすぐ近くの彼女には全く近付く様子もなく、その場に立ち尽くしていた。その様子を見て、しばらく放心状態だったリヒャルトや周りの帝国兵も一斉に動き出した。


「貴様ァッ! 今、何をしたのか分かっておるのか……! この御方は、新アルザーク皇帝となられるジギスムント皇太子殿下であるぞ……ッ!」


『そやつをひっ捕らえよぉぉぉ!』


 リヒャルトは膝をついてジギスムントの血でまみれた躰を抱き寄せ、くだんの近衛歩兵に対して怒号を放った。それでも身動き一つしない近衛歩兵が被る犬面兜の下で何を思っているかなど分かりようもない。

 他の近衛歩兵たちが五人がかりでその男を取り押さえ、地面に顔を兜ごと叩きつける。犬面兜を乱暴に引き剝がされ、顔が露わになったその男はまだ若く、俺と同じくらいの歳の美男子だ。深緑の長髪で、その端正な顔貌には幾つかの切り傷があった。その表情は決して絶望に満ちたものでも、歓喜に満ちたものでもない。まるでやり切って安堵したかのようだった。


『――――きゃぁぁぁぁぁぁぁッ!』


 群衆の方から、金切声にも似た悲痛の叫びが近くで聞こえる。

 崩壊の音だ。

 周囲は一度聞こえた叫びを除いて、水を打ったかのように静まり返り……。

 そして状況を呑み込めた者から声にならない声を上げ、その連鎖は半永久的に続く。ある者は絶望し、ある者は悲嘆し、ある者は錯乱して笑い声を上げる。

 菩提樹の葉が舞う大通りの様子は一瞬にして、地獄絵図と化したのである。


『こ……皇太子が暗殺されたぞーーッ!』

『馬鹿なっ。どうして近衛兵が皇太子殿下を……。あ、あり得ぬ!』

『ふはははッ! なんとお気の毒なジギスムント殿!』

『……貴様ら、一刻も早く本国にこの事を伝達するのだ! 隊列を整えよ!』


 群衆はただただ困惑し、混乱し、疑心暗鬼となる。馬車後列の帝国兵たちすらも、それを収めるどころか恐れおののくばかり。馬車付近の警護兵たちは件の近衛歩兵を拘束しつつジギスムントの遺体やアンネリーゼ妃を護るだけで手一杯となっている。

 そして今起きた事件を帝国弱体化の予兆と見て、直ちに本国へ帰還せんとする周辺各国の軍隊。俺の横にいたディオニュシウス司教も、再び起きた惨劇に首から下げた十字架を握りしめながらも聖王国軍遠征隊に向けて号令を掛けた。


デウスに忠誠を誓うヴェルランドの聖戦士たちよ、ただちにサン=アルヴィネーゼへ出立の準備を! 教皇猊下げいかにこのことをお伝えせねばなりません!」


 聖王国のな都たる〈聖都〉サン=アルヴィネーゼSaint=Alvinezet。ルミエルド聖教会の総本山であり、サン=アルヴィネーゼ教皇猊下がおわすところ。

 あの伏魔殿にこの事件を伝えに行くということは、つまり。

 

帝国による平和パクス=グリューナの崩壊……」


 俺は呟く。嗚呼ああ、きっと大陸の平和は遠いものとなる。

 眼前に現れた平和への希望が今、眼前で打ち破られたのだから。

 俺は再び戦に赴くことになるのだろう。嗚呼、最悪だ。

 ……嗚呼、なんて愉快なことだろう。精々、生き残ってやろうじゃないか。

 俺はずっと外したままでいた閉鎖兜を被る。

 そしてジギスムントがいた方向から目を背け、歩き出した。

 俺は〈ルイLouisVVilleneuveヴェルディエVerdier〉。聖王に仕える一介の聖騎士だ。




 同日 午後四時頃 帝都・西城門前


「司教様! 全軍行軍準備ができております!」


 あれから俺たち聖王国軍遠征隊は混乱した大通りを抜け、祖国へと向かう為に帝都の西城門を目指した。そうして辿り着いた先には、一昨日の夕方に帝都へ入ったときには城門の両側に立っていた守衛の帝国兵がいなくなっていた。この大混乱の最中であるからこそ検問は必要不可欠だというのに。

 そんなことを考えながら、隊全体で小休止を行った後のこと。俺は騎乗したディオニュシウス司教に報告を行った。遠征隊に帯同する聖職者は皆、馬で移動するのだ。


「左様ですか。それでは出立することとしましょう」


 司教は先を急ぎたい一心の表れのように、すぐさま手綱を繰って西城門側へと騎乗する自分の向きを変えた。俺もその気持ちを汲むように、すぐさま司教に背を向けて他の兵士たちに命令を下そうとした。

 しかしその時、市街地の中心へ伸びる通りの方から一際大きなひづめの音が聞こえ、それが今我々がいる城門に向かって近づいてくるように感じた。


「あれは……っ。馬車が我らの方に! 司教様、こちらにお下がりください!」


 俺はその音が聞こえる方に向き直ると、遠くに一両の荷馬車が見えた。馬車には白いほろが付いており、御者も含めて中に誰がいるのか遠くからでは分からない。たった一頭の馬に曳かせているようだが、異様に速い。魔術でも付与しているのだろうか、沿道にいた民衆さえも咄嗟に逃げるほどの速度で、まっすぐに突撃してきている。

 このままでは司教があの馬車の突進に巻き込まれるかもしれない。この御方を護ることが我が第一の責務。俺は気づいていないらしい司教に大声で警告した。


「む……? このような時に帝都を出るとは、どこかの貴族の伝令ですかな?」


 彼は少し不服そうな表情を見せたものの、大人しく誘導に付いてきた。

 そうして他の兵士にも警告を行うことで、何とか西城門前の石畳でできた通りに大きな空隙をつくることができた。それにしても、あの馬車は速いな。

 馬車はそのまま西城門を突き抜けようとするかのように、疾風の如く速くなった。

 そうして馬車は俺の眼前を瞬時に通り過ぎて、西城門を抜けていった。

 ……しかしその一瞬で、俺はとある事実に辿り着いていた。

 

「――――――あれは。あの馬車に乗っていたのは……」


 俺は固まっていた。馬車のあまりの速さに、足がすくんだというわけではない。

 ただ今俺の目が見たものを信じられず、戸惑っているだけなのだ。けれど不思議なことにすんなりと、それが真実なのだと理解できた。


「む? どうしたのです、ヴィルヌーヴ殿」


 ディオニュシウス司教が不審がるように馬上から俺を見下ろした。俺はすぐに、自らが見つけ出した答えを口に出した。出さずにはいられなかった。


「あの馬車に乗っていたのは――――の、災厄さいやく皇子おうじであります!」


 胸の鼓動が早くなるのを感じた。今まで起きたことに対する不安、違和感、興奮。その全てが、今見たものによって繋がっていくのを。


「は、災厄の皇子ですと? まさか……」


「確かです! 一瞬だけでしたが、馬車に乗っていた者達の姿を見たのです! ローブを被った老爺と少女と……青年。彼の髪色は紛れもなき漆黒でありました!」


 俺は信じようとしない司教に対し、まくし立てるように早く喋った。俺が一瞬の内に導き出した推察は恐らく正しいはずだ。……何故なら。


 ジギスムント皇太子の暗殺。

 

 その大事件を最上さいじょうなる僥倖ぎょうこうとし、喜々として帝都を脱出せんとする存在は〈災厄の皇子〉以外にあり得ないからなのだ。そして俺は、馬車の中にいた〈災厄の皇子〉の表情をも一瞬だけ瞳に捉えていた。鮮明に、そして克明に覚えている。

 その表情は、紅き眼光は、決意に満ちていた。

 まるで自らこそがこの状況を創り出したのだと言わんばかりに。

 復讐心とは全く異なる、まっすぐな意志の胎動を感じた。

 西城門の遥かその先を、射貫くように見つめる。俺は呟いた。


「大戦乱の始まりだ……。災厄の皇子よ、貴様は一体何を為す?」




 ジギスムント皇太子暗殺事件……通称〈菩提樹が見た鮮血リンデン・ブルート〉。

 ルミエルド大陸全土を包み込んだ大乱世は、ここから始まった。

 ……いや、違う。それより以前からこの大陸の至るところで、些細なすれ違いや傲慢なる理由から戦乱の火種が飛び散っていたのだ。あの事件は、その戦乱の火蓋を人々の予想より早く切ったというだけ。単なる一つの切欠きっかけに過ぎなかった。

 あの時の俺は、そんなことは何も知らなかったのだ。目を逸らしていた、と言った方が正確か。無知むち蒙昧もうまいな群衆と同じように、俺は心の奥底では永劫の平和を信じていた。迫る軍靴の音からただひたすらに耳を塞ぎ続け、あまつさえ己の眼を閉じた。

 そして祈っていた。戦乱など起きぬと自らをあざむいて。

 過去の自分を責めるわけではない。今でも俺は、永劫の平和を信じているから。

 過去と違うのは、俺は目を背けずに向き合っているということ。

 俺の眼下で、燃え広がり続ける大乱世に。

 ……大乱世を引き起こしたのが彼だとするならば。

 俺が戦乱に向き合う切欠をくれたのも、彼なのだろう。

 だからこそ俺は、彼の戦いの征く先を見届けねばならない。

 

 汝、災厄の皇子よ。遍く理不尽を踏み越え、野望を掲げし覇皇となれ。




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