序章 大乱世と覇道の始まり

大乱世と覇道の始まり〈上〉


 ルミエルド大陸全土を包み込んだ大乱世。 


 その開幕と同時に、とある男の覇道はどうは始まりを告げた。

 俺は始動の瞬間を。大乱世を引き起こした者の姿を、この眼に捉えたことがある。

 脳裏に焼き付いて、片時も忘れたことは無い。


 〈災厄さいやく皇子おうじ〉と渾名あだなされ、数多の人々に忌み嫌われた。

 理不尽に対する復讐を掲げ、数多の人々を傷付け苦しめた。

 ……だが、それでも大陸中の人々の為に戦い続けた、一人の男の姿を。




 ルミエルドLumield聖暦せいれき六百五十年六月十三日 正午頃

 アルザークArsarg帝国 〈帝都〉グラーフェンベルクGrafenberg 菩提樹リンデン大通り


 あれは、帝都での出来事だった。

 広大なルミエルド大陸の中央で覇を唱える帝国。

 アルザーク帝国を治める帝室〈グリューネヴルムGrünewurm家〉が住まう都。

 壮麗かつ剛健なるグラーフェンベルクを代表する大通りに俺はいた。

 名の通り、その沿道には多くの菩提樹が整然と並んでいる。青々とした葉が雲一つない晴れ空に舞っている。ほのかに甘い香りが、兜の隙間を縫って鼻腔をくすぐった。

 白銀の板金鎧プレートアーマーを身に纏い、蒼き閉鎖兜アーメットを被る兵が一人。長剣を左腰に下げている。周囲の兵士とさほど変わらない風貌の男が、俺だった。大陸西部〈ヴェルランドVelland聖王国せいおうこく〉の支配者たる聖王に仕える、一介の聖騎士。 

 この大通りには俺を含め大陸諸国から派兵された軍隊が集い、通りの中央を広々と空けながら立ち並ぶ菩提樹のように沿道に沿って隊列を成している。


「ヴィルヌーヴ殿。少し、硬くなっているようですな」

 

 すぐ左の方から、鷹揚とした声が聞こえる。俺の右に並ぶ甲冑の戦列とは対照的なほどに暢気な印象を与えるは声の主が纏いし祭服。黄の司教冠ミトラ、紫の幄衣カズラを被るその聖職者は司教杖バクルスを手にしており、視線だけを俺へと向けて問いかけている。


「……多少は。何といってもですからね。ディオニュシウス司教様」

 

 兜を被った状態だというのにどうしておのが心の震えに気付いたのか。少し脳裏で思考を巡らしながら、此方こちらも視線だけを向けながら応える。

 ……考えてはみたものの、やはり聖職にある者のみが持つ直感のようなものではないかと勝手に納得しておく。武力を以て準男爵じゅんだんしゃくに任じられた俺のような無学者には、彼のような高位聖職者の考えなど分かるはずはないのだ。

 俺にできること、そして遂げねばならぬ責務はこの御方を無事に聖都まで帰還させることだ。聖王国と帝国は何百年もの間、敵対関係にある。その理由は宗教だの政治だのが関わっているらしいが、やはり俺が考えたところで雲の上の話は分からない。

 俺は聖王国の為に戦うしか能のない聖騎士。万が一にでも帝国軍がディオニュシウス司教を狙ってくるのならば戦うのみだ。

 ただ、今回の任務ではそのようなことにはなりそうもない。無論、心構えとしては常に臨戦状態にはあるが、現在の俺の内奥に走る緊張はそこから来るものではない。


「……そろそろ始まるようですぞ」


 俺と司教のやり取りは一往復で終わり、両者は再び視線を前に戻して暫く静止していた。すると次第に、この大通りに並ぶ諸国軍の隊列後方に集まる群衆のざわめきが増していく。困惑や不安とは全く逆の、歓喜のざわめき。

 やがて一人の群衆が叫んだ。


「帝国騎士団が来たぞ!」


 隊列の後ろでひしめき合う群衆たちが好き勝手に声を出したところで咎める者はいない。が、俺たちのような他国から招かれた者たちは厳粛な儀式だということもあって隊伍を乱すことは許されない。先刻のように視線だけを左方へと移す。

 まだ群衆が言うところの帝国騎士団の姿は見えない。だが、ザッザッザッという重厚な軍靴ぐんかや擦れ合う鎧と佩用はいようの鞘の音が次第に耳へ入ってくる。すると。

 その音の塊が、瞬時に消え去る。訪れる静寂。

 だがその静寂も長くは続かない。遠くから一人の兵士の野太い声が聞こえる。


「偉大なるアルザークの地を治める、皇帝陛下の栄光ある軍勢! 帝国の威光を示す新進気鋭のグリューネヴルム帝国騎士団近衛このえ重歩兵じゅうほへい士団しだんよ、前へ!」


 さあ、いよいよの始まりだ。

 鼓笛隊の横笛ファイフと太鼓による勇壮な合奏に合わせるかのように、再び軍勢は前進する。群衆の盛り上がりが一つの頂を迎える。そして俺の眼前に捉えられるまで近くに、俺達と同じように甲冑を纏った近衛重歩兵隊の姿が現れる。

 否、俺達と同じではない。聖王国軍や他の諸国軍、また帝国の一般兵や貴族の私兵共が纏う白銀のものとは正反対の漆黒の鎧。被る帝国兜サレットも漆黒、更には彼らが右手に握っている長剣の柄も刃も、何もかもが漆黒。帝室の権威を示すにしても少し悪趣味ではないかと兜の下で顔をしかめようとするが、ふと帝都に至るまでの道中で河を渡る際に渡し守から聞いた話を思い出した。

 曰く、近衛重歩兵の鎧には帝国北方の北海ほっかいに浮かぶ孤島でしか産出されない漆黒の魔導鉱石が使われていて、生半可な威力の魔術は弾き返してしまうのだとか。

 〈黒鎧重歩兵こくがいじゅうほへい〉。皇帝の命で新たに誕生した、全身を漆黒に染める重装歩兵である彼らのことを、人々はそう渾名あだなしているそうだ。

 とはいえ見かけだけの張子の虎ではなさそうだ。彼らの帝国兜から覗かせる鋭き眼光はそれだけで、大陸中央で覇を唱える帝国の威容を代弁しているかのようだった。 


「黒……何と不吉な。の色ではありませんか」


 漆黒の戦列を目の当たりにして、隣の司教は額に汗を滲ませながらつぶやく。

 この大陸では、黒という色は悪の象徴として嫌われている。

 六百年以上も前、ルミエルド大陸に突如として出現し、人々を殺戮と暴虐の惨禍へと引きずり込んだという〈魔族まぞく〉。奴らの象徴こそが忌々しき漆黒。魔族を大陸から撃滅し、人々を救った〈ルミエルド聖教会せいきょうかい〉にとっては最も唾棄すべき色だ。

 

新皇帝しんこうていとなられるジギスムント殿下、万歳ハイル!」


万歳ハイル!』


 やがて数百の選ばれた近衛重歩兵士団が隊列行進を止めると、その最前列で騎乗して赤のマントを纏った団長らしき男が叫んだ。歳は随分と若いように見える。

 男の傍で同様に騎乗した兵士が掲げる〈帝冠を戴く双頭の翠鷲グリューン=ドッペルアドラー〉が描かれた赤地の帝国旗が、柔らかく吹く春風にひるがえっている。

 剣を天に向けて掲げながら放った彼の言葉に呼応するように、他の帝国軍兵士は勿論のこと我らのような他国の兵士たちも一斉に叫んだ。

 長年の間、聖王国と帝国は敵対関係にあるが、一度外交使節として帝国領内に踏み入り帝都まで来たのだ。応じないという選択肢ははなから無い。


「続いて、近衛歩兵ほへい士団! 前へ!」


「近衛騎兵きへい士団、前進せよ!」


「近衛弓兵きゅうへい士団、前へ!」


「近衛どう団、進め!」


 その後も、帝国騎士団に属する近衛士団がそれぞれ足並みを揃えて前進していく。そして途中で一時停止しては、各士団の団長がアルザーク新皇帝ジギスムントの即位を称え、再び菩提樹大通りを進んでいく。

 重歩兵士団の次は、我々と同じような板金鎧に犬面兜フンドスカルを被って長槍パイクの先端を天へと向けている近衛歩兵士団。ノルダーホルム島の魔導鉱石は発見されたばかりでまだまだ採掘量が少なく、皇帝直属の帝国騎士団といえども全歩兵に黒鎧を装備させることはできないのだとか。ついには彼らと同じような装備の帝国歩兵隊を相手取って、聖王国軍聖騎士として戦っていたことを思い出す。

 だが、今はこのように大陸の覇権国家たる帝国の新たなる門出を祝福すべく、大陸を代表する大通りに参列している。複雑な気持ちにはなるが、今の方がずっと良い。


 —―――――俺は、あまり長く戦場にいてはならないんだ。


 今は、束の間の平和を謳歌しよう。

 そう改めて決め、俺は続々と現れる近衛士団の戦列を目で追う。弓兵士団の次に現れたのは、みどりのローブに身を包んだ集団。護身用の刃剣メッサーを左腰に差して、両腕に深紅色の手甲てっこうめている。近衛魔導士……いわゆる〈戦列せんれつ魔導士まどうし〉だ。農奴のうどの強制徴集ではなく、市民の志願によって誕生した新たなる魔導士。同じ身分である帝国の群衆たちにとってはまさに羨望の的だ。更に群衆の喝采が大きくなるのを感じた。

 やはり、帝国の軍事力は強大だ。国土の殆どを貴族や騎士階級が治めているにも関わらず、グリューネヴルム帝室は権威を損なうことなく精強な近衛騎士団を抱えている。この観兵式はさしずめ周辺諸国に帝国の軍事力を誇示するためのものだ。

 聖王国は帝国と敵対関係にあるため度々軍事衝突を起こしているが、全て国境近くでの小競り合いに終わっている。聖王国もまともに帝国とやり合えば勝機が無いことを知っているからだ。一方の帝国も聖王国にばかり気を取られていれば、他国の付け入る隙が空いてしまうことを知っている。聖王国以外の諸勢力はそもそも帝国と一戦を交える気すら無い。結果として、このルミエルド大陸の平和は覇権国家たるアルザーク帝国の下で保たれている。俗に言う〈帝国による平和パクス・グリューナ〉。

 今回の観兵式も、聖王国を含めた大陸諸勢力に対する牽制として大いに機能しただろう。俺の眼前を近衛魔導士団の最後の戦列が通り過ぎた。そして群衆の喧騒が一通り収束したところで、少し遠方から帝国兵の勇ましい声が聞こえた。


「アルザーク帝国臣民並びに、この場に参列した大陸中全ての者たちよ!

 新皇帝となられるジギスムント皇太子殿下が今、我らの前にお見えになる!」


 観兵式はあくまで前座。俺達がこの大通りに集められたのは、新皇帝の即位を祝福する為。そう、前アルザーク皇帝〈エルンストErnstⅤ世〉急死に伴い行われることとなった、前皇帝の皇太子ジギスムントの戴冠式を見届ける為に。

 見届けるとは言うものの、実際に皇太子が帝位継承のレガリア〈帝冠ていかん〉を授けられるのは、菩提樹大通りを直進した先にある〈ザンクトボニファトールBonifator大聖堂〉にて。三日前、帝都に到着した折に見たことがある。俺の瞳に映ったあの荘厳な大聖堂は、偉大なる皇帝権力を示すかのように堂々と屹立していた。だが、今日この日。あそこでジギスムントが皇帝となる様を見ることは叶わない。ならばせめて、大通りを馬車で進む皇太子夫妻の姿をこの目に焼き付けたいものだ。


「大陸全土の平和を為す、新たなるアルザーク皇帝の誕生に盛大なる拍手を!」


 その帝国兵の声を皮切りに、群衆や俺達も絶大な拍手を大通り一帯に響かせた。

 ああ、今日は何と素晴らしい日だろうか。

 敵国の皇帝の戴冠式だというのに、心からそう思ってしまう。

 平和、平和。なんと良い響きか。


『新皇帝陛下万歳!』

『ジギスムント陛下とアンネリーゼ妃の馬車はまだか?』

『グリューネヴルム帝室万歳!』


 群衆の喧騒が、今は心地良い。希望に満ちたざわめき。新皇帝となるジギスムントが新たにもたらす大陸の平和を、俺は享受したくてたまらない。


『ジギスムント殿下がお見えになったぞ!』

 

 群衆の興奮したような声に釣られて、俺はつい左方を向いてしまった。すぐに体の向きを直すが、胸の高まりは抑えが効かない。

 やがて左目の端で捉えた。帝室の人間のみが乗ることを許される四輪馬車キャリッジを。

 屋根などは付いていないが、帝室の紋章があしらわれた車体は非常に豪奢なものだ。そしてそれに乗り、二頭の馬にかれているのは新皇帝であるジギスムントとそのきさきアンネリーゼAnneliese〉であった。二人とも二十代で金髪の美男美女ではあるが、どこか近寄り難く冷たい印象を抱かせる。実際、割れんばかりの歓声の中で手を振ることも無く、かといって互いに見つめ合うことも無く馬車に揺られている。淡々と、自分たちが着ている対照的な黒と白の煌びやかな正装を民衆に見せつけるかのように。

 周囲には四輪馬車を繰る御者以外に、黒鎧重歩兵と戦列魔導士が八名ずつ。馬車の正面・側方・後方に重歩兵が二名ずつで、四隅に魔導士が二名ずつの配置。漆黒と翠が混じり合うその配置が崩れないようにゆっくりと進んでいる。更にその後方からも、騎乗した衛兵たちが隊列を成して進んでいるのが見える。

 後方の群衆だけでなく、周囲の聖王国兵までもが口々に『万歳ハイル』と叫ぶ。聖王国遠征隊の副官である俺はそのような兵を諫めねばならない立場だが、生憎俺も同様のことを口走ろうとしていたところであった。

 実のところ、俺も彼らも帝国や帝室に対する敬意や愛情などからジギスムントを称賛しているわけではない。……誰でも良いから、平和をもたらしてくれる存在であれば、何でも縋るものなのだ。人間は。


 神でも、皇帝でも、——でも。


 アルザーク皇帝が、大陸に平和を招来してくれるのならば。

 これからも〈帝国による平和パクス・グリューナ〉が維持されるのならば。


 …………。…………?

 束の間の平和が、いつまで続くというのか? 帝国に、皇帝に依存した平和とやらが永劫に続くと、どうして無垢な眼差しで信じられる?


 俺は自然に兜を頭から外し、その重みを右腕で受けながら自身の銀髪を露わにしていた。何故だろう。この胸の高まり、否。

 この胸のざわめきは、何だ?


 ジギスムント皇太子夫妻の馬車が、俺の眼前をちょうど通り過ぎようとしていた。

 その時、ある衝動が脳裏を駆け巡った。


 束の間の平和が、どうして今ここで打ち切られないと信じられるのか?


 先ほどまで柔らかく吹いていた春風が止む。俺はふと天を見上げる。

 いつのまにか、黒炭をぶち撒けたかのような暗雲に閉ざされていた空。

 不吉なものを感じさせるその空を一瞬だけ、一筋のが引き裂いたのである。


「――――ッぐ、ぐぁぁぁぁッ……!」



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