第8話 第三次ヴァリダーナ会戦〈起〉


 ルミエルド聖暦六百四十五年。四月上旬のことである。

 大陸西部を治めるヴェルランド聖王国の都〈トリニティアTrinitia〉に、激震が走った。

 当代のヴェルランド聖王アルフォンスが正戦せいせんの開始を宣言したのである。

 正戦、すなわちルミエルド聖教にとっての敵を討ち滅ぼす、正義の戦いである。

 聖王国にとっての敵とは、東に接するアルザーク帝国。の聖王は直属軍を率いてトリニティアを発つと共に南部諸侯へ参戦を促し、南方からの帝国侵攻を目論んだ。

 開戦事由は、帝国内における聖職せいしょく叙任権じょにんけん闘争とうそうの武力による解決。

 その闘争が、一体どのようなものかは後々語られるとして。

 口実はともかく、宗教的情熱に駆られた数万の聖王国軍が帝国を目指して出兵したことは事実である。……彼らの進む先は〈ヴァリダーナWallidana回廊かいろう〉。

 大陸中央のアルザーク帝国。大陸西部のヴェルランド聖王国。

 そして、大陸南部の半島一帯に広がる諸都市の連合体〈エリアーノEriano都市とし同盟どうめい〉。

 この三勢力の境界地帯にあたるヴァリダーナ回廊は戦略的要衝であり、沿岸部に平原が広がっていることもあって、過去二度に渡り大規模な会戦の舞台になってきた。

 そして今。聖王国軍の進出を阻止する為に皇帝エルンスト直参の帝国軍が出兵したことで、再びこの回廊における両軍の衝突が不可避となったのである。

 後に、この戦いは〈第三次ヴァリダーナ会戦〉と呼ばれることとなる――――。




 ルミエルド聖暦六百四十五年四月二十二日 午後四時頃

 ヴァリダーナ回廊 帝国軍野営地後方


「なに……聖王国軍は二万五千にも満たないだと!?」


 ヴァリダーナ回廊。東西に長い平原地帯の中央には多くの天幕が張られ、帝国軍の野営地が設置されていた。その最奥で、一人の男が驚愕を露わにしている。

 後退した茶髪の生え際に玉の汗を浮かべている、青白く醜悪な顔つきの男。

 しかしその服装は上流貴族そのものであり、ひょろ長い体躯にゆったりとした赤色のチュニックを纏っている。しかしその雰囲気は鷹揚とは程遠いものだ。


「その報は確かか? 都市同盟の特使は三万を超えると豪語していたであろう!」


「グレンツェ魔導伯殿の偵察部隊による報告とのことです。誤報とはとても」


 声を荒げる彼の目の前で膝まづいているのは、甲冑を身に付けた伝令兵。

 犬面兜フンドスカルを脱いで左腕に抱えながら、頭を垂れている。中年の男の服装とは打って変わって、伝令兵は完全武装の状態だ。白銀の板金鎧で身を固め、左腰に長剣を提げている。更に長槍パイクを携帯すれば、一般的な帝国歩兵の恰好と言えよう。


「クッ、やはりエリアーノの商人共など信に足らぬか。……まあ良い、何にしても戦は明朝からだ。野営地前線での警戒はけして怠らぬよう、魔導伯殿へ伝えよ」


 不細工な顔を更に歪ませながらも、その男は冷静に伝令兵へ指示を出す。兵士は「はっ」と短く応え、天幕の間を縫いながら西の方へ消えていく。男は傾く陽の光がまさにその西から突き刺すように照るのを、右手を顔の前にやって遮った。そして回廊地帯が南に臨む大洋から漂ってくる微かな潮の匂いに、鼻を大きく鳴らした。


「西方からの聖なる光も、南方からの自由の風も、忌々しいことこの上ないな」


 それから、男は毒付くのだ。帝国には碌な隣人がいないと。

 そして改めて気付かされるのだ。

 やはり、自らが心から信ずることのできる主は一人しかいないのだと。


「……バルドゥル。何か話しておったが、大勢たいせいに関わりあることか?」


 背中の方から聞こえる落ち着いた声。その声に、男は少し身震いしながら振り返る。そこにいたのは、冠を戴く金髪碧眼の男。〈帝冠を戴く双頭の翠鷲グリューン=ドッペルアドラー〉の紋章があしらわれた赤地のダルマティカを堂々と着こなし、少し頼りない初老らしい線の細い風貌を物ともしない程の威風を全身から放っている。


「皇帝陛下。御心を曇らせるようなことはありませぬ。ただ、此度こたびの戦は想定していたよりも早く決着が付きそうですぞ。……勿論、我が軍の勝利で!」


 アルザーク帝国軍副将ふくしょうバルドゥルBaldurフォンvonレーヴLöw〉はそう言って、その双眸を細めた。自信満々とばかりに言い放ったバルドゥルに、この帝国軍の全権を握る皇帝エルンストは驚かない。出過ぎた口を咎めることも、口車に乗せられて浮かれることもしない。ただただ微笑んで「そうか。それは楽しみなことだ」と応える。

 そしてそれ以上は何も言うことなく、野営地の最奥に設置された皇帝の陣幕へと引き返していく。バルドゥルは嬉しそうに下卑た笑みを浮かべて、東へと向かう皇帝の背中を見送った。……そんな二人の様子を、少し遠方から眺めている青年が一人。

 ある天幕の前に設置された調理場代わりの焚火台の近くで、悠然と立っている。

 エルンスト帝と同じ金髪碧眼を持つ、若々しく容姿端麗な男である。

 時折、野営地の北方にそびえる山々の連なり、その向こうに目線を遣りながら。

 青年の才気に満ち溢れたような鋭い眼は、それでも年相応のものに見えた。



 同時刻 ヴァリダーナ回廊 〈紅き狼グラナヴォルフ〉傭兵団野営地


「暇だなぁ、ゲルト」


 そう呟いたのは、深紅色の髪をぽりぽりと搔いている青年。帝都でディアーク達と出会った時とは異なる様相で、緑に塗られた綿襖甲ブリガンディーンを鎧としている。表面にはベスト状に革が仕立てられ、裏面には金属片が打ち付けられた軽量の防具である。背中にはいつも通りの大剣ツヴァイヘンダーを担いでおり、その目線は西陽の方を向いている。


「ああ、暇だな。ジグムント……って違ぇだろ! 明日はいよいよ戦なんだぞ!?」


 そう言って呑気な雰囲気の傭兵団長に喝を入れるのは、少年ゲルト。

 彼も普段の農民のような恰好ではなく、鎖帷子くさりかたびらを纏った上から緑色の丈長外套シュールコーを着用している。そして一振りの長剣を左腰に提げつつ、予備として二丁のダガーを腰の後ろに差していた。二人とも緑を基調とした恰好で、春先の青々とした平原では遠目からは同化しているように見える。彼らの背後には〈紅の狼グラナヴォルフ〉傭兵団の兵士たちが寝泊まりする多くの天幕が一か所に集まっていて、大量の食料や武具、そして人がせわしなく行き交っている。すると、ジグムントはまたも飄々として少年を茶化す。


「得物をあの従士に取られちまうようなお子ちゃまが何を言ってんだか」


「……っ! いや、あれは返せって言うのを忘れたってだけで」


「それが緊張感ねぇって話だよ。そのせいで慣れない剣を使うハメになってんだろ」


 ジグムントの返しに、ゲルトが「うっ」と痛いところを突かれた声を出す。

 帝都での盗賊との戦いの折に、少年が落とした翼槍スペトゥムをラインハルトが拾って一時的な得物とした。そこまでは良いのだが、役人を連れて来てからは気が抜けて槍を返してもらうのを忘れてしまい、今回の主装備は長剣になってしまったのだ。

 戦に臨む緊張感が無いと指摘したゲルトに対し、完璧なカウンターパンチを繰り出したジグムント。得意げな表情を浮かべた後、すぐに青年は真顔に戻った。


「それに、両軍の状況は殆ど頭に入ってる。どんな戦いになるのかも、おおよそ予測もできてる。油断なんてしちゃいねぇ。……その上で、今の状況のまま開戦すれば間違いなく帝国軍は勝利するだろうし、俺達も無傷で生還できるだろうさ」


「……なんで、そんな風に確信できんだよ?」


 真剣な表情とは裏腹に自信ありげな言葉を言ってのけた青年に、ゲルトは半信半疑といった目を向けた。ジグムントは意味ありげに笑うと、急に地面に腰を下ろした。


「それを説明する為には、まず両軍の状況を確認しなきゃなんねぇ」


 ジグムントは近くに落ちていた木の棒を拾うと、土が露出した地面に何かを描き出した。不思議そうにそれを見つめるゲルトも、自然と腰を落としてしゃがんでいた。

 そんなゲルトの様は、まるで兄に読み書きを教えてもらっている弟のようだった。


「第一に、俺達の雇い主である帝国軍の陣容だ。今回は皇帝のエルンストが直々に参陣してるが、皇帝直属の軍なんてのは全軍の極僅か。一千の帝国騎士団だけ。俺達、紅の狼傭兵団も帝都から騎士団に帯同してここまで来たわけだが、聞く話じゃ騎士団の殆どは本軍に参加して、皇帝がいる本陣には数十人しか残らないんだと」


 ジグムントはこの回廊地帯を表しているのであろう二本の横線を描いた後、その中央あたりに二重丸を描いて本陣とする。そこから離れた左の方に一つの小さい丸を描いて、皇帝直属の近衛騎士団〈グリューネヴルム帝国騎士団〉を表す。


「直属軍が千人つっても、他の軍も皇帝の言うことはちゃんと聞くんだろ?」


「まあな。そこが、このアルザーク帝国が大陸の覇権国たる所以さ。騎士団以外の計一万余りの兵が全て、皇帝の、正確に言えば実質的な指揮権を任されてる副将の命令に従う国なんてな。『臣下の臣下は臣下ではない』なんて言葉もあるってのに」


 『臣下の臣下は臣下ではない』。

 つまり、直接に主従関係を結んでいない『臣下の臣下』は『主君の主君』に対する奉仕義務が存在しないということを表した言葉である。なるほど、これは帝国の隣国たる聖王国では通用する道理だ。聖王に仕える貴族、そしてその貴族に仕える騎士がいたとして、その騎士には聖王に対して何の主従関係も発生しないのだ。

 しかしこの帝国ではそうはならない。

 アルザーク皇帝は、帝国内に住むあらゆる人々を臣民しんみんとすることができる。

 

「ま、それに関しては説明不要。あのの恩恵ってことで話は終いだ」


 そんなジグムントの雑な説明にもゲルトは相槌を打つ。帝国で長らく住んでいる者にとっては常識のような話。いや、このルミエルド大陸中の人々ならば皆が知っているような話だからだ。……『あのレガリア』が無ければ、この大陸の平和は根本から突き崩されることになるのだから。

 それはともかく、青年は話を続ける。


「話を戻すぞ。聖王国軍による回廊占領を阻止する為に参陣したのは、帝国騎士団以外を大まかに分けて五つの軍だ。まずは帝国南西部を鎮護するシルヴィーツ辺境伯の軍勢が三千、更に帝国南方を治める帝室の分家・ザリエルン大公の軍勢が三千。この二つの軍勢が今回の戦における帝国軍の主戦力と言っていい」


 先ほど一つの小さな丸を描いた辺りに、更に六つの丸を適当に追加する青年。

 ヴァリダーナ回廊自体が帝国南部・聖王国南部・都市同盟北部の結節点に位置するのだから、必然的に帝国軍の主力は南部諸侯となるわけだ。


「騎士団を合わせ、これら七千の本軍第一陣が明日の戦で敵主力と衝突することになる。それから主力同士の戦いの様子を見て、随時援護するのがすぐ後方の第二陣。帝国西部、聖王国と接するヴェストアール地方の諸侯軍を主体とする軍勢で、計三千。特にアルテナ伯とリヒテンブルク伯はそれぞれ千人の兵力を動員してる。残りの千はヴェストアールのみならずザリエルン地方の中小諸侯も合わせた混成軍さ」


 合わせて七つの丸が集まったところの少し右方に、青年は三つの丸を描いた。

 敵主力とぶつかる本軍第一陣に、それを機動的に援護する第二陣。確かに諸侯同士で軍は別れてはいるが、決して無秩序ではない、単一の指揮系統に従っているような帝国軍の配置である。ヴェストアールWestare、更にザリエルンSaliyern地方に割拠している諸侯。彼ら自身は皇帝に臣従礼を取っているものの、諸侯に従属している騎士たちはまさに『臣下の臣下』。皇帝の意に反した行動を取るかもしれない者たちだというのに。


「第一・第二陣合わせて本軍の数はおおよそ一万。そして本軍と本陣……この両者のちょうど間に配置されるのが、千人の後詰ごづめ。主力はヴェストアールの有力貴族であるクルーヴェン伯爵の歩兵隊が五百。それから俺達……傭兵軍が五百だな」


 ちょうどジグムントが言った通りに、二つに分けられた本軍と二重丸の皇帝本陣の間にはぽっかりと間隙ができており、そこにしゃりっと土の音を立てて一つの丸が描かれる。五百、といっても〈紅の狼〉傭兵団だけで五百人いるわけではない。


「今回、帝国側に雇われてる傭兵団は二つのみ。俺達、紅の狼傭兵団が三百。全員が歩兵だ。そして、それを援護してくれるってのが……」


「—―――あんたたち、そんなとこにしゃがみ込んで何話してるんだい?」


 ずっと地面を見ながら話しているジグムントたちの耳に女の声が届く。随分と男勝りな声だが、それより戦場に女性がいるという事実に二人のおもては自然と上がる。

 その声の主は、ゲルトほどではないもののジグムントと同じぐらいには若かった。

 腰あたりまで長く伸びた艶やかな薔薇色の髪で、貴族の前で舞う踊り子にいてもおかしくない程の美貌を持つ女性だった。戦場に咲いた一輪の華、とでも言うべきか。

 しかし彼女が肩に担いでいるのは、紛れも無い機械仕掛けのおおゆみ。しかも弦に鉄が使われている大型のアーバレストだ。クロスボウ自体は比較的軽量な武器とはいえ、構えれば上半身と同じくらいの長さ。普通の女性が扱うのは難しいだろう。

 だがそれと同時に、彼女が決して普通のたおやかな淑女でないことに気付く。その野性味に溢れる堂々とした表情。要所に必要な筋肉がしっかりと付いた体躯。

 ジグムントは訝しげな目線を送りながらも応える。


「……どちらさん? こっちは紅の狼グラナヴォルフの野営地なんだが」


 すると、その女は白い歯を見せて笑った。小さな八重歯がちらりと見える。


「あんたが赤毛の団長さんかい? なら、話は早いね。……アタシはヘルガ。ヘルガ・シェーファーヴォルフ。魔迅の弩手フライシュッツェ傭兵団の団長さ。明日はよろしくね」


 〈ヘルガHelgaシェーファーヴォルフSchaeferworf〉。そう名乗った彼女は茶色を基調とした狩人風の服装をしており、なるほど正規の弓兵ではないのも頷ける。

 ジグムントは立ち上がって、右手を差し出す。傭兵同士と分かって警戒を解いたのだろう。それに呼応するように、ゲルトも顔を綻ばせながら腰を上げた。


「アンタもヴォルフか。俺はジグムント・ウィルクスキ、よろしくな。で、こいつはゲルト。……今ちょうど、アンタらの話をしてたところなんだ」


 ヘルガも青年に応えるように握手を交わす。ジグムントは相方の少年のことも紹介しながら、友好的な態度を取った。とはいっても、個人的な親交が芽生えたといったような雰囲気ではない。あくまで明日の戦で共に戦う傭兵団長同士の、仕事上の付き合いといった感じだ。恐らくヘルガもそうだろう。仕事仲間がどんな奴なのか知るために少し野営地に偵察へ来た、大方はそんなところか。


「私らの話……ああ、なるほどね。明日の布陣図をそこの坊やに教えてたってわけ」


 ジグムントとゲルトの足元に描かれている簡易的な地図を見て、ヘルガは興味ありげに腰を屈める。乳白色で地味な下着の上からでもはっきりと分かるほどに揺れ動いた乳房ちぶさに、初心うぶな少年は露骨に目を逸らした。その様子を青年が目の端で捉えると、坊やって小馬鹿にされてるのにも気づいてねぇなコイツと心の中でからかう。そして同時に、少なくとも仕事に関してならこの女と話が合いそうだと確信する。


「何なら、ちょっと話に加わってみねぇか? 今は両軍の状況確認してる途中なんだが、実際に明日どう動くのかについても同じ配置の奴同士で話がしてぇ」


「ふぅん、なかなか面白そうじゃない。今は暇だし、作戦会議に入らせてよ」


 ジグムントの提案をヘルガは快く受け入れる。その理由は赤毛の青年と同じく「今は暇」だから。その髪色といい竹を割ったような性格といい、この二人は随分とお似合いなんじゃないのかとゲルトはませた子供のように勘繰る。

 それはともかく、ヘルガも加わって三人になった傭兵たちは状況確認を続けた。もちろん三人揃ってしゃがみ込み、地面を見ながら。

 本軍と本陣のちょうど間あたりに配置される千人の後詰のうち、五百はクルーヴェン伯爵軍。三百は〈紅の狼グラナヴォルフ〉傭兵団。残り二百はクロスボウを扱う〈魔迅の弩手フライシュッツェ〉傭兵団という配置。そして本陣には皇帝エルンストと数人の皇族、数十人の近衛兵、更に帝国軍の実質的な司令官たる副将のバルドゥル。

 本軍第一陣が七千、本軍第二陣が三千、後詰が千、本陣に残る兵はほんの少数。

 これで帝国軍の総勢は……と青年が言い掛けたところで、ゲルトが口を挟む。


「なぁ、帝国騎士団以外は五つの軍に分けられるって言ってなかったか? 主力のシルヴィーツ辺境伯軍に、ザリエルン大公軍、ヴェストアール・ザリエルン諸侯軍と、更に俺たち傭兵軍……あと一つ足りなくね?」


 指を折りながら疑問を呈す少年に、ジグムントは「おっと、一番肝心な軍を忘れてた」と額に手を当てた。ヘルガは「しっかりしなよ、団長さん」と微かに笑う。

 それから満を持して青年は口を開く。


「そう、最後の一つが……」


「—―――でありましょう?」


 すると、またしてもジグムントの声を遮って声が聞こえる。今度は後方からだ。

 帝都でディアークに助けを求めた時といい、さきほどヘルガと出会った時といい、どうして自分が言わんとすることはことごとく遮られるのだろうか。嫌になるわけではないが、やれやれと肩を竦めてから青年は首を少し後ろの方に向ける。


「次から次へと……。今度はアンタか」


 使い古された薄汚い天幕に背中を預けて、三角座りをしている老人が一人。

 ところどころ擦り切れた緑色のローブを羽織っていて、白髪交じりの黒髪を後頭部で縛っている。無気力な手はだらんと垂れ下がり、淀んだ目を地面に向けている。

 それでも来客の存在に気付いたのか一度だけ頭を少し下げた。老人がそれ以上何も言わないことを見越してか、ジグムントはすぐに視線をヘルガの方に戻した。

 

「アイツはミヒャエルって言ってな。この傭兵団で唯一、魔術の心得を知ってる。と言っても微細な魔力の動きを感じ取れるだけで、実際に魔術は使えないがな」


 ミヒャエルMichael。彼のように魔術は扱えなくとも、魔術が発現する際に術者の周囲に集積する魔力の流れに人一倍敏感な人々がいる。とはいえ、ただそれだけの能力を見込んで老人を迎え入れる兵隊は珍しい。若い兵士と一緒になって戦えるような老人ならいざ知らず、あの老人は兵糧の運び入れなどにも協力せず、ただずっと天幕に寄りかかっているだけなのだ。不思議な傭兵団ね、とヘルガは心の中で疑問符を付ける。


「じゃ、話を続ける。ミヒャエルが言ったように、最後の軍ってのは魔導軍のこと

だ。魔導軍は今までの四つの軍と違って、一つにまとまって布陣していない。まずグレンツェ魔導伯軍が三百とシルヴィーツ辺境伯の魔導軍が百。合わせて四百の魔導士が本軍第一陣の……更に西で布陣する。つまりはだ」


 ジグムントは先刻から描いていた地面上の地図に、三角形を四つ追加する。丸が七つ描かれた本軍第一陣より少し左側。続いて、その第一陣の近くにも二つの三角。それから第二陣を飛ばして、傭兵たちが布陣する後詰の辺りにもう一つの三角形。


「本軍第一陣には、ザリエルン大公の魔導軍が二百人布陣して、状況次第じゃ先鋒の魔導士同士の戦いに加勢する。そして俺達が明日布陣する後詰にも、魔導士が百人

配備される。すなわち、ヴァルトブルク家のルードリンゲン魔導伯軍。指揮官は現当主のマリウスじゃなくて、前当主のレイナードって奴だそうだ」


 つまり魔導軍は計七百。それ以外の四つの軍の総勢は一万一千。合わせて、約一万一千七百が今回の会戦で帝国軍が動員した兵力である。

 するとゲルトが思い当たる節があるようで、疑問を投げかける。


「……ルードリンゲン伯爵? 帝国北方の名門じゃんか、なんでこんな南の回廊なんかに。それにレイナードっていえば、皇帝に随分気に入られてる奴じゃなかったか? なんで本陣じゃなくて、後詰なんて中途半端な配置なんだろうな」


「お前、帝都とか貴族のことにはやけに詳しいな。災厄の皇子の話といい……。俺達が酒場に入り浸ってる間、ちょこまか動き回って情報収集でもしてたのか?」


 根掘り葉掘り聞いてくるのをかわすために露骨な話題逸らしをする青年だったが、まんまとそれに釣られるは流石、純朴なる少年ゲルト。


「まあな。になりそうな情報だったら、いくらでも集めるのがゲルト流よ」


 得意げに鼻の下を擦る少年に「がめついところは子供らしくないわね」と、ヘルガが口を挟む。子供って言うなとばかりに女を睨み付けるゲルト。「なんだい坊ちゃん?」と更に挑発するヘルガ。だが、ジグムントはそんな二人の様子を微笑ましくは思えなかった。複雑そうな視線をゲルトの方に投げかけている。

 その時、青年の視線がゲルトのそれと交錯した。すると何かを思い出したように

怒りの顔を止めて、少年が口を開いた。


「なぁ、そういやどうして俺達はなんだ? 傭兵には先陣切らせてナンボだろ」


 その一言に、ジグムントの表情は一瞬だけ強張った。まるで触れられたくない話題の一端に足を踏み入られてしまったかのように。

 

「いや、それは……」


 ――――ぽつり、ぽつり。

 青年が答えようとした刹那、彼の背中に数滴の雨粒が落ちた。その雨は最初はほんの小さなものだったが、すぐに無数の雫が天から降り注ぐようになった。地面に描いていた地図も途端に水の泡となってしまう。雨水に青年の視界が滲む。天を仰ぐと、東の方からやって来た雨雲が天球の過半を埋め尽くしているのが見えた。


「……おいおめぇら! 一旦、作業打ち切って天幕に引き上げろ!」


 勢いよく立ち上がって、周囲の傭兵たちに指示を出す青年。『おお!』と威勢の良い返事が聞こえてくる。ちらりとゲルトが後ろを確認すると、いつの間にかミヒャエルはどこかへと消えていた。女傭兵も長い髪を軽く梳きながら立ち上がる。


「大して話せずに終わっちまったねぇ。私も部下に指示を出してこなくちゃなんないし、余裕ができたらまた集まらないかい?」


「ああ、そうしよう。……そうだ、最後に聖王国軍の兵力を確認しとく」


 そう言う青年は、濡れた赤髪で右目が隠れる状態になっている。それでもジグムントがヘルガに放った最後の一言は、風雨の中でもしっかりと響いた。


「—―――俺達の。詳しくは分からんが、それだけは確かだ」


 それを聞いてそのまま走り去っていくヘルガとは対照的に、鳩が豆鉄砲を食らったように口を開けるのはゲルト。青年が先ほど言っていたこととは全く話が違う。


『今の状況のまま開戦すれば間違いなく帝国軍は勝利するだろうし、俺達も無傷で生還できるだろうさ』


 それはつまり、後詰を出すまでもなく先鋒と本軍だけで二倍以上の聖王国軍に勝てるということ。その自信は一体どこから来るのか。

 少年の困惑とは裏腹に、ジグムントは天幕の方に走っていった。


「……なんで?」


 濡れ鼠となったゲルトは一人立ち尽くして、そう呟いた。




 明朝。午前五時頃である。昨日の夕方から降り出した雨はすっかり止み、東の地平線から顔を出した太陽は広漠とした平原を明るく照らしている。この回廊に集結した者達の中で、最も早く今日という陽光を浴びたのは皇帝エルンストその人だろう。回廊西部から侵入しようとする聖王国軍の進路に蓋をするように構えられた回廊中央の

本陣、その東端にあるひと際豪奢な天幕で既に目を覚ましていた。

 普段通りの赤地のダルマティカを身に纏い、金色に光る冠が頭上に置かれている。天幕の中には皇帝とその従者が数人……。そして、一人の老爺がいた。

 そこにまた一人、とばりを上げる者あり。


「父上! 少し話したいことが……。……レイナードもおったのか」


 快活な声を伴って入ってきたのは、皇帝が持つ金髪碧眼をそっくりそのまま受け継いだような青年。緋色に染められたコットの上から白いマントを羽織っている。鼻筋が通って優美な彼の表情は決して晴れやかなものではなく、どうにも何か承服しかねる様子だった。その心のわだかまりをすぐにでも吐き出したかったのだろうが、父帝の傍にいた一つの純白がそれを押し留めた。


「ジギスムント様。お早いですな。初陣前の夜は、よく眠れましたか」


 青藍のローブを纏って、落ち着いた声音で語りかけるのは〈純白の賢者〉レイナード。先ほどまでエルンストと話し込んでいた様子だ。

 そして「それはおぬしの方もだろう」と応えるのはグリューネヴルム帝室の第一皇子、すなわち皇太子たる青年。〈ジギスムントSigismundフォンvonグリューネヴルムGrunewurm〉だ。

 皇帝とは別の天幕で目を覚ましたジギスムントだが、皇族の天幕はすぐ近辺同士であるから着くまではさほど時間を要しない。しかしレイナード率いるルードリンゲン魔導伯軍の野営地は本陣の西端。馬を脚にするにしても、天幕の間を駆けて三十分ほどは掛かる。朝早くから老体に鞭を打ってと続けて言いたくもなるが、ローブの上からも分かる老爺の筋肉質な体つきが青年の突き出そうになる口を閉ざす。

 代わりに、ジギスムントは自分に言い聞かせるように喉を鳴らした。


「初陣だからこそ、皇太子として十分な用意をするのが責務であろう」


 今年で二十一歳となる彼は、普段は帝都大学にて法学を専修する学生でもある。帝国法の整備を積極的に行い、国内の安寧を保っている偉大なる父帝に追いつくため、日夜努力を欠かさない好青年である。とはいえ線の細い学者肌というわけでは無い。

その努力は武術の研鑽にも向けられ、剣術・槍術・弓術・馬術などあらゆる戦闘技術に秀でている。そうは言っても戦陣は初めて、しかも父帝に帯同しての戦であるから、実際に敵と戦うことはないだろう。それでも彼の皇太子としての気高い意志は、ただ漠然と本陣で皇帝・副将の采配を見守ることを許さない。戦場の後方・安全地帯にあってなお何かを学び取ろうとする姿勢。その為に何でもやろうという覚悟。

 だからこそ彼は早朝から皇帝の天幕へと足を踏み入れたのだろう。その心意気を察してか、レイナードは皇太子のいる方、天幕の帳へと足を向ける。皇帝に何か話があるのなら自分が傍で聞いていては邪魔になるという計らいだ。


「立派なことです。……では、私はこれで」


「待て。おぬしにも聞いてほしい話なのだ、レイナード」

 

 しかし、今度は皇太子の方が〈純白の賢者〉を押し留める。レイナードは足を止め、その翡翠色の瞳を青年へとまっすぐ向けた。ジギスムントの碧眼との交錯が数秒間続いただろうか。すると老爺は「良いでしょう」と言って、再び皇帝の傍に戻った。天幕の中に差し込む陽が少し弱まったのを感じながら、青年は話を始める。


「昨日の夕刻、父上が宮廷伯爵バルドゥル殿と話しているのを見ました。聖王国軍の兵力が二万五千に満たないというのは真でしょうか? 回廊に到着する前までは、三万以上の軍勢が攻めて込んでくると誰もが噂し合っていたではありませぬか」


 ジギスムントは父帝を心配するかのような口調で言った。なるほどそういうことかと、皇帝と老爺は皇太子が言わんとすることを同時に悟る。すなわち。

 帝国軍の大将たるエルンスト帝と副将バルドゥルが聖王国軍の兵力を見誤っているかもしれない、その可能性についてだ。もっと言うなら、敵の兵力を見誤ることで帝国軍が敗北するかもしれないと危惧しているのだ。

 それも致し方なきこと。エルンスト率いる帝国騎士団、ルードリンゲン魔導伯軍、傭兵軍と共に青年が帝都を出立したのが五日前、四月十七日だ。その時に共有されていた聖王国軍の想定兵力は三万余り。それからザリエルン大公軍と合流した二日後の十九日には三万三千、ヴェストアール諸侯軍と合流した二十日には三万五千という風に、耳に入って来る聖王国軍の数はどんどん増えていった。ところが、回廊に到着した二十二日。つまり昨日、実際に前線部隊が偵察して判明した敵軍の数は二万三千余り。それでも帝国軍の二倍近くの兵力ではあるが、予想より遥かに少ない兵力であることは事実だ。偵察部隊による情報の方が欺瞞だと疑いたくなるのにも無理はない。


「……端的に申せば、回廊までの道中で帝国軍にもたらされた数々の情報は全て、エリアーノ商人が我々を欺く為に仕組んだなのです」


「なに……?」


 皇帝と少し目配せをした後にレイナードが放った一言は、ジギスムントを当惑させる。純白の老爺はそれに構わず、続けて言った。


「我ら帝国と都市同盟が長らく協調関係にあるのはご存じでしょう」


「……ああ。アルザーク=エリアーノ枢軸のことだな。だが、その都市同盟商人たちが我らを欺く為に謀略を……? どうにも信じられぬ」


 〈アルザークArsargエリアーノEriano枢軸すうじく〉。

 大陸北・中部の帝国と南部の都市同盟、この両輪を南北に貫く協調体制のことだ。そう、ルミエルド大陸という一つの荷車を動かす両輪。軍事的覇権を握るアルザーク帝国と経済的に大陸を支配するエリアーノ都市同盟。この二勢力である。

 レイナードは都市同盟という勢力の特徴に関連付けながら説明した。


「表向き協力しているように見せても、商人は己の利益の為に動くものです。聖王国側の交易商人から仕入れた兵力情報をかさ増しして特使が伝えれば、帝国軍は兵力を増強せざるを得ない。むろんり用なのは兵の頭数だけではありませぬ。武器に防具、馬匹ばひつ、水、兵糧、天幕、松明……。これらを帝国軍が買い入れることで最終的に得をするのは、半島北部の諸都市において物流を支配する商人達というわけです」


 レイナードの整然とした説明に、青年はいったん納得の色を見せる。しかしそれでもなお釈然としないことがあるように、彼は一つの疑問を父帝に投げかけた。引っかかっているのは、最初からエリアーノの兵力情報が嘘だと悟っていたかのような老爺の口ぶり。極めつけは、老爺の話を聞いている際の沈着とした父帝の様子だった。


「その企みが分かっていたのなら、何故父上はそれに乗せられるような真似を……」


 だが、そこまで口を動かしたところでジギスムントはあることに気が付く。あ、とエルンストからの返答を待つことも無しに自ら答えに辿り着いたのである。

 何故父帝はエリアーノ商人の謀略にまんまと乗せられ……否。

 彼らの謀略に乗っかり、レイナードやヴェストアール諸侯など回廊から遠く離れた地方の貴族をも招集して一万以上の軍勢をつくり上げたのか。

 青年に目線を合わせる皇帝の眼は、我が子を受け止める父性に満ちたものだった。

 皇太子ジギスムントはその瞳に応えるように言った。


「商人が情報を流しているのは帝国だけではない……。我が軍の数を見誤り、兵力を増強して会戦に臨む。そのことを見越した上での判断というわけですか」


 その答えが正解だと言うように、エルンストはその表情を緩めた。

 己の利益の為に動く商人にとっては、帝国も聖王国も変わりない商売相手。

 迎え撃つ帝国軍の兵力情報が明らかに誇張されて伝わっても、攻め手である聖王国軍の方は戦略目標を達成しなくてはならないという使命感から、それらを簡単には無視できない。そうなれば出兵に伴う物資調達は増え、商人たちは更に利を得る。

 帝国とは密接な関係を保ちながらも、聖王国との争いに際しては両勢力の間に立って、漁夫の利を得ようとする。商業主義を第一とする都市同盟らしいやり口だ。

 今回で三回目となる回廊での決戦だ。過去の会戦を振り返れば、今回もエリアーノが同じような手を打ってくるという確信が皇帝や老爺にはあったのだろう。

 レイナードは自力で真実を導き出した青年を称えながら言った。


「流石は皇太子殿下です。南下するにつれて肥大化した聖王国軍に対抗する為には、少なくとも一万以上の軍勢が必要。皇帝陛下やバルドゥル殿は都市同盟からの情報を耳に入れる前から既にそのことを悟り、此度こたびの出兵を起こしたのです。しかし三万五千と伝えられていた軍勢が、蓋を開けてみればまさか二万三千とは思いもしなかったようで、流石のバルドゥル殿も狼狽えておりましたなぁ」


 老爺は昨夜のことを思い出したのか「はっはっは」と笑いだした。対するジギスムントは一つ謎が解けて安堵こそすれ、老爺と共に笑うことはしなかった。神妙な面持ちを崩しておらず、まだ何か得心が行かないことがある様子だ。

 そのことを察してか、エルンストは我が子に声を掛ける。


「まだ開戦まで時間がある。聞き足りないことがあるのなら幾らでも申せ」


「……では、もう一つ。私はこの南の回廊に在ってさえ、山脈の向こう……帝国北方の守備が心配でなりませぬ。我らがこの回廊に兵力を集中させている間に、東方から騎士団が攻め入るのではないかと」


 青年は北の方……すなわち大陸一の大山脈〈ジュリアスGiulies山脈さんみゃく〉を超えた向こうを見据える。やや慎重が過ぎるような彼の指摘は、必ずしも未熟者による杞憂だと吐いて捨てられるようなものでは無かった。

 現在、このルミエルド大陸では二つの異なる協調体制が拮抗している。

 一つはアルザーク=エリアーノ枢軸。もう一つは大陸西部・ヴェルランド聖王国と東部・リッセルスバッハ騎士団国による〈聖十字連合せいじゅうじれんごう〉。ルミエルド聖教を熱狂的に信奉する両勢力の君主同士によって結ばれた精神的紐帯ちゅうたいである。

 聖王国軍が出兵し、帝国と都市同盟の関心がヴァリダーナ回廊に集中している隙に、連合の片割れである騎士団国が東方から侵攻するかもしれない。ただでさえ帝国は西部・南部の諸侯軍、更に北方の雄たるルードリンゲン魔導伯軍すら招集したことで帝国北部の護りが薄くなっている。その可能性はけして軽んじることのできないものだ。しかしエルンストはきっぱりと言い放った。確固たる理由と共に。


「今、騎士団が兵を動かす恐れは無い。……その余裕も無いだろう。奴らは南のマジャルサーグ人と対峙している真っ最中なのだからな」


 大陸東部の過半を支配している騎士団国だが、南東部の盆地一帯では未だにルミエルド聖教を受容しない人々……いわゆる〈蛮族〉が抵抗を続けていた。

 それが〈マジャルサーグMagyarsag蛮族ばんぞく〉と呼ばれる騎馬遊牧民である。


「聖王国軍が出兵するとのしらせがあった直後、騎士団の第一軍団がオルデンスマールを発って南路を進んでいるという情報も耳に入った。恐らく今頃は蛮族と睨み合っているか……衝突にまで至っているか。どちらにせよ、帝国侵攻はあり得ぬ」


 リッセルスバッハ騎士団は聖都におわす教皇の命によって創設された騎士修道会だが、その会員は殆どがアルザーク人である。大陸東部において圧倒的少数派である彼らは割拠する蛮族を改宗させ、かつ支配する為に多数の植民都市を築いた。

 その一つが〈植民しょくみん聖都せいとオルデンスマールOrdensmar。大陸北東の河畔に位置する騎士団の本拠地で、堅牢な城塞都市だ。精強な五千の騎士修道会士が常駐する、まさに軍都。

 自信に満ちた皇帝の一言一言が、皇太子の心を覆う不安を少しずつ溶かしていく。

それは、言い方が落ち着いたものであるからだけではない。願望でも思い込みでも無い、十分な根拠を持った推測だからこそ青年も安心できるのだ。

 

「そう、ですか。……そのようなことは知らず、とんだ取り越し苦労だったようですね。時間を取らせて申し訳ありません、父上。それにレイナードも」


「良い。おぬしが不安を抱いたのは、我らが判断材料となる情報を伏せていたからでもある。遠く離れた騎士団の動きなど常に宮廷にいる人間しか知り得ぬこと、普段は

学業に励むおぬしの耳に入らないのはごく自然なことよ」


 頭を下げる我が子に、綻んだ笑みを見せるエルンスト。しかしすぐに表情を戻すと、またまっすぐとジギスムントを見つめる。ただの子ではない、皇太子としてのジギスムントを見ている。ただの父ではない、皇太子に対する皇帝としての視線。


「だが、おぬしがその情報を一番に手に入れる立場になった時……。つまりこの帝冠を受け継ぐ時が来た時、情報を生かすも殺すもおぬし次第。それだけは覚えておけ」


 皇帝は頭に戴く冠に軽く触れながら言った。

 アルザーク帝位継承のレガリア〈帝冠ていかん〉。四百年以上の歴史を持つ帝国を治めてきた十二人の皇帝が代々冠してきたものだ。しかしジギスムントがその冠に対して向ける視線は、格調高さへの畏敬だけを表しているのではない。単に形式的に継承される象徴としての冠ではない。豪奢な金箔と宝玉の飾りの中で、大いなる力がうごめく。


「はっ。肝に銘じておきます、父上」


 ジギスムントは溌溂はつらつとした声で応える。すると話が終わったことを感じ取って、レイナードが天幕の帳の方に何度も目線を送る。どうもそわそわとしている様子だ。


「では、私はこのあたりで。……は、私だけで対処いたしましょう」


「うむ。宜しく頼む」


 あの件? 天幕に訪れる前に、皇帝と老爺が話していたことだろうか。青年は首を傾げながらも、これ以上は二人の時間を奪えないと思って口をつぐむ。ジギスムントにできることは、帳を開けて出ていく老爺の背中を見送ることだけだった。




 およそ四時間後。

 昨夜の間に降った大雨による水溜まりも目立ったものは消え、太陽は雲一つない青空に昇り続けている。嵐の前触れのような静けさが、平原を覆っていた。

 そして、帝国軍本陣。そこには数十名の騎士や従者が険しい顔をして立っている。彼らの少し後方で佇んでいる男が三人。一人はジギスムント皇太子その人である。表情こそ周囲の者たちと同じく強張っていたが、心中はとても落ち着いていた。今まで胸騒ぎとなっていた懸案が消え去ったからである。敵軍の兵力が二万三千、対して味方は一万二千以下だというのに、皇太子は帝国軍の勝利を確信していた。

 青年は二人の男の背中を見つめている。すると、やけに背格好が大きく手足もひょろひょろと長い茶髪の男がもう一人に声を掛ける。

 

「グレンツェ魔導伯軍、シルヴィーツ辺境伯魔導軍。両魔導軍が配置につきました。いつでも攻撃を開始できます、皇帝陛下」


 その声の主は副将バルドゥル。甲冑を纏って、赤いマントを身に着けている。

 同様に戦支度を済ませた皇帝エルンストは「うむ」と首肯する。そして自らが被る帝冠をゆっくりと頭から離すと、デウスに捧げるかのように天高く掲げた。

 しばらく間を置いて、彼は静かに命令を下すのだ。


「—―――攻撃を、開始せよ」





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