第8話 第三次ヴァリダーナ会戦〈上〉


 ルミエルド聖暦六百四十五年。四月上旬のことである。

 大陸西部を治めるヴェルランド聖王国の都〈トリニティアTrinitia〉に、激震が走った。

 当代のヴェルランド聖王アルフォンスが正戦せいせんの開始を宣言したのである。

 正戦、すなわちルミエルド聖教にとっての敵を討ち滅ぼす、正義の戦いである。

 聖王国にとっての敵とは、東に接するアルザーク帝国。の聖王は直属軍を率いてトリニティアを発つと共に南部諸侯へ参戦を促し、南方からの帝国侵攻を目論んだ。

 開戦事由は、帝国内における聖職せいしょく叙任権じょにんけん闘争とうそうの武力による解決。

 その闘争が、一体どのようなものかは後々語られるとして。

 口実はともかく、宗教的情熱に駆られた数万の聖王国軍が帝国を目指して出兵したことは事実である。……彼らの進む先は〈ヴァリダーナWallidana回廊かいろう〉。

 大陸中央のアルザーク帝国。大陸西部のヴェルランド聖王国。

 そして、大陸南部の半島一帯に広がる諸都市の連合体〈エリアーノEriano都市とし同盟どうめい〉。

 この三勢力の境界地帯にあたるヴァリダーナ回廊は戦略的要衝であり、沿岸部に平原が広がっていることもあって、過去二度に渡り大規模な会戦の舞台になってきた。

 そして今。聖王国軍の進出を阻止する為に皇帝エルンスト直参の帝国軍が出兵したことで、再びこの回廊における両軍の衝突が不可避となったのである。

 後に、この戦いは〈第三次ヴァリダーナ会戦〉と呼ばれることとなる――――。




 ルミエルド聖暦六百四十五年四月二十二日 午後四時頃

 ヴァリダーナ回廊 帝国軍野営地後方


「なに……聖王国軍は二万五千にも満たないだと!?」


 ヴァリダーナ回廊。東西に長い平原地帯の中央には多くの天幕が張られ、帝国軍の野営地が設置されていた。その最奥で、一人の男が驚愕を露わにしている。

 後退した茶髪の生え際に玉の汗を浮かべている、青白く醜悪な顔つきの男。

 しかしその服装は上流貴族そのものであり、ひょろ長い体躯にゆったりとした赤色のチュニックを纏っている。しかしその雰囲気は鷹揚とは程遠いものだ。


「その報は確かか? 都市同盟の特使は三万を超えると豪語していたであろう!」


「グレンツェ魔導伯殿の偵察部隊による報告とのことです。誤報とはとても」


 声を荒げる彼の目の前で膝まづいているのは、甲冑を身に付けた伝令兵。

 犬面兜フンドスカルを脱いで左腕に抱えながら、頭を垂れている。中年の男の服装とは打って変わって、伝令兵は完全武装の状態だ。白銀の板金鎧で身を固め、左腰に長剣を提げている。更に長槍パイクを携帯すれば、一般的な帝国歩兵の恰好と言えよう。


「クッ、やはりエリアーノの商人共など信に足らぬか。……まあ良い、何にしても戦は明朝からだ。野営地前線での警戒はけして怠らぬよう、魔導伯殿へ伝えよ」


 不細工な顔を更に歪ませながらも、その男は冷静に伝令兵へ指示を出す。兵士は「はっ」と短く応え、天幕の間を縫いながら西の方へ消えていく。男は傾く陽の光がまさにその西から突き刺すように照るのを、右手を顔の前にやって遮った。そして回廊地帯が南に臨む大洋から漂ってくる微かな潮の匂いに、鼻を大きく鳴らした。


「西方からの聖なる光も、南方からの自由の風も、忌々しいことこの上ないな」


 それから、男は毒付くのだ。帝国には碌な隣人がいないと。

 そして改めて気付かされるのだ。

 やはり、自らが心から信ずることのできる主は一人しかいないのだと。


「……バルドゥル。何か話しておったが、大勢たいせいに関わりあることか?」


 背中の方から聞こえる落ち着いた声。その声に、男は少し身震いしながら振り返る。そこにいたのは、冠を戴く金髪碧眼の男。〈帝冠を戴く双頭の翠鷲グリューン=ドッペルアドラー〉の紋章があしらわれた赤地のダルマティカを堂々と着こなし、少し頼りない初老らしい線の細い風貌を物ともしない程の威風を全身から放っている。


「皇帝陛下。御心を曇らせるようなことはありませぬ。ただ、此度こたびの戦は想定していたよりも早く決着が付きそうですぞ。……勿論、我が軍の勝利で!」


 アルザーク帝国軍副将ふくしょうバルドゥルBaldurフォンvonレーヴLöw〉はそう言って、その双眸を細めた。自信満々とばかりに言い放ったバルドゥルに、この帝国軍の全権を握る皇帝エルンストは驚かない。出過ぎた口を咎めることも、口車に乗せられて浮かれることもしない。ただただ微笑んで「そうか。それは楽しみなことだ」と応える。

 そしてそれ以上は何も言うことなく、野営地の最奥に設置された皇帝の陣幕へと引き返していく。バルドゥルは嬉しそうに下卑た笑みを浮かべて、東へと向かう皇帝の背中を見送った。……そんな二人の様子を、少し遠方から眺めている青年が一人。

 ある天幕の前に設置された調理場代わりの焚火台の近くで、悠然と立っている。

 エルンスト帝と同じ金髪碧眼を持つ、若々しく容姿端麗な男である。

 時折、野営地の北方にそびえる山々の連なり、その向こうに目線を遣りながら。

 青年の才気に満ち溢れたような鋭い眼は、それでも年相応のものに見えた。

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