帝国下級騎士ミニステリアーレのフェルザーという家名を、ディアークは知らない。帝都には何百何千といった帝国下級騎士が暮らしており、無論だがその全ての家名など知っているはずがない。ダミアンとゲオルクにも勿論、家名はあったが忘れてしまった。知らないし、知ったとてすぐ忘れてしまうにしても、自分の従士がどこからやって来るのかぐらいは把握しておくべきだろう。朝の六時にやって来るぐらいだ。そう遠くない街区に住んでいるのだろうが……。しかし、ラインハルトの答えは全くの予想外だった。


「フェルザーというのは、から私自身に与えられた姓。嫁もめとっておりませんから、私に戻るべき家は無いのですよ。荷物も身に着けている物で全てです」


「な……。ということはおぬし、この屋敷に住み込もうというのか?」


「ええ、そのつもりで参上した次第」


 そのつもりで……って。ディアークは驚愕する。

 今までの従士は職務上、日中はディアークの屋敷にいることはあったが、夕餐が終わればすぐさま各々の住まいに戻っていた。この屋敷は一階に広間と礼拝室、二階にディアークとユリアの寝室。とても従士を泊めるような余りの部屋など無い。ユリアが広間で寝て、従士をユリアの寝室に泊めるということも考えたが、少年は小間使いにそのような仕打ちをするほどの薄情者ではなかった。それならばむしろ自分が広間で寝るべきだとも考えたが、それはユリアが許さないだろう。結局のところ、従士を新たに泊める場所などこの屋敷には残されていないのだ。


「そうは言ってもな……。見ての通りこの屋敷は狭い。おぬしを泊める部屋は……」


 頭を掻きながら、ディアークはラインハルトの方に向き直る。ところがラインハルトは少年の方ではなく、礼拝室がある方を覗き込んでいた。

 まさか、という直感をそのまま口に出す。


「……まさか、あの小部屋に住みたいと言うのではあるまいな?」


「いけませぬか?」


 振り返って、ラインハルトはきょとんとした顔でのたまう。呆れたようにディアークは礼拝室の方へ歩みを進める。ラインハルト、続いてユリアも礼拝室の中に入った。三人入るだけでも互いに圧迫感を感じるほど狭い部屋だ。大人一人が寝転んだだけで、満足に物も置けないような部屋。寝る為の部屋と言っても限度があるだろう。


「こんな狭い部屋では、ベッドを置くこともかなわん。雑魚寝をする気か? それに十字架が置かれたままでは、おぬしも落ち着いて寝れないだろう」


 十字架に関しては撤去すれば良いだけなのだが、とにかくこの部屋で寝泊まりするなどやめておけという気持ちが先行し、ディアークは近くの青年に捲し立てた。

 しかしそんな少年の忠告もむなしく、ラインハルトは飄々と言ってのける。


「それでも構いません。十字架も、そのままで」


 無表情でとんでもないことを言う男だ。奇妙きみょう奇天烈きてれつという言葉はこの男の為に存在するのかもしれない。更に、ラインハルトは続ける。


「それと、ディアーク様に一つお願いが」


「な、何だ。何でも言ってみよ」


 もはや何を言われたとて驚くまい。そう思っていたのだが。


「主君に頼むことではありませぬが……。毎朝、起こしてください」


「……は?」


 冗談、ではないようだ。表情は一切変わらない。仏頂面というわけではないが、眉をピクリとも動かさず、成年らしい低い声音で言った。……何故?

 狭い礼拝室の中。ディアークの脳内は、疑問符に満ちていた。



 

 それから、時間はしばらく経って。

 帝都グラーフェンヴェルグは昼下がりを迎えていた。太陽はそろそろ南中しようかというところ。ディアークの屋敷がある街区の入り口に、二人の男が立っていた。

 一人は小柄な茶髪の少年。もう一人は、長身で赤毛の青年。

 少年の方は背中に槍を背負って、両腰に二丁のダガーを提げている。

 青年は鞘の付いた大剣ツヴァイヘンダーを肩に担ぎながら、にやりと笑う。

 二人はどちらも帝国の市民というよりは農民のような恰好をしている。一見すれば貧相で粗野な服装だったが、彼らの眼光はまるで餓狼の如き雰囲気を纏っていた。

 すると赤毛の男が舌なめずりをしながら、短く呟いた。


「ここか……」


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