第7話


「――赤兎は儂に言うたよ。村で見かけた人形が怪しいと。山への通り道じゃし、儂も村には何度も訪れた事があったんで、赤兎の言うとる少年の人形には勿論心当たりがあった。しかし、じゃ。儂にはあの人形にそんな力があるとは思えなんだ」

 狸は大きな溜息を吐くと、眉を下げ、とても悲しそうな表情を浮かべた。

「赤兎の精神は病んでおった。彼女はよく【演じる】という言葉を口にしておったが……儂にはとてもじゃないが演じているレベルには見えんかった。ここでも、書物を読んでいたかと思うと、突然発狂し、暴れたりしよる事も度々あった。しかし……あん娘はいつもその事を覚えとりゃあせんかったから、儂はあん娘に何も伝えようとはしなかった。双子達にも赤兎の狂気を相談をされておったから、隠れて様子を伺ったりもしたが……命あるものを残虐に殺しているあん娘の姿は、もはや正気の沙汰ではなかったわい。あれが演技だというならば……何故、誰の目も触れていない場でも演じる必要がある?」

「お爺さん……」

「赤兎は病気だったんじゃ。あん娘は額に当たった石に人形の呪いが施されており、おかしくなったと思い込んでおったが……呪いなんてもんはかけられとりゃあせんかった。きっと、生き物を殺さなければ傷が痛み、殺せば痛みが治まるというのも思い込みから生まれたもので……あの殺戮衝動は全て、あん娘自身が望んだ行為だったんじゃよ。それを受け入れられない、認めたくない赤兎が、恐ろしさのあまり、真実に向き合おうともせず記憶を切り離す事で本能的に己を守った。しかし、それが恒常化し……次第に【表】の自分とは別の、記憶や感情、意志を持った【裏】の自分を生み出してしもうた。……儂は、今でもそう思っとる」

 ――解離性同一性障害。

 確か……本人にとって堪えられない状況を【それは自分の事ではない】と感じたり、その時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくする事で心のダメジを回避しようとする。その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものが……解離性同一性障害だ。

 母親の言いつけを通り、真実を告げぬまま……双子を懸命に守ってきた赤兎。

 彼女だってまだ幼かったのに、しっかりしなきゃと自分を奮い立たせ、感情を表に出さないようにした。……それが強い精神的ストレスを生んだのだろう。

 安心していられる場所の喪失は、どれ程彼女の心を蝕んだのか。

「……でも! あの人形は確かに私の前でも会話をしていたわ! 彼女のただの思い込みだったとは思えない。それに、島で赤兎が双子達に焼かれた時、あの人形が赤兎を連れて逃げたのを双子達はちゃんと見てる!」

「それなんじゃよ。けど儂には全く何の気配も感じんかった。そのような強力な力を持つ者が、たとえその力を隠そうとしても、多少は漏れ出すもんじゃ。だから、最初はただの人形だったものを、赤兎が何らかの方法で力を分け与えたのではないかと儂ゃ睨んでいるんじゃが……」

 狸は後ろ頭をボリボリと掻き、お手上げだと言わんばかりに顔を渋くさせた。

 すると、ずっと黙って話を聞いていた仙人が『もしや……』と、口を開いた。

「その人形は、はなから人形では非ず……神の類なのかもしれん。しかし神とは神々しきもの。気配がわからん筈はない。そこで考えられるのはただ一つ。もしかしてそやつは、既に死んでおる者かもしれんぞい。――死は無。幾ら力が強力であろうが、プラスのものは感知出来ても、マイナスのものを感知する事は困難じゃ。狸の精進が甘かったのかもしれんのう。まぁ、真実がどうなのかはわからんが……」

「な……爺さん! 儂が見誤ったとでも言いたいんかい⁉ ……そんな筈はない! あの人形は、確かにただの人形じゃった! 間違いない!」

「――狸。目に視えるもの、直接感じ取れるものだけを信用するではないぞ。お主のそれはおごりじゃよ。思い上がりもいいところじゃ。目に視えなくとも、感じる事が出来なくとも、存在する【真実】は確かにある。世界は広いんじゃ。……自分の物差しで測るではない」

 仙人の言葉に、狸の老人は口を噤む。仙人は、そんな狸に構う事なく話を続けた。瓶の中の酒は既に空になっていたし、仙人の顔は真っ赤だったけれど……酔いが回っているわけではないという事は、その真剣な表情から読み取れた。

「赤兎はお主を頼った。赤兎が信じられるのはお主だけじゃったからのう。……しかし、お主は赤兎の言う事を【心の病】だからと真摯に受け止めず、全てが思い込みからくるまやかしだと決めつけた。……厳しい事を言うようじゃがのう。今回の事はお主が招いた結果じゃ。……勿論、赤兎は悪い。同様に黒兎と白兎も悪かった。しかし、狸。やはりお主が一番悪い」

 今日の仙人は、少し厳しいような気がした。確かに人形が喋っていた事から……あれがただの人形じゃないという事に間違いはない。けれど、狸は狸なりに赤兎を想いやっていた事は、言葉の端々から伝わってくるのに……

 不気味な静けさが周囲を包み込む。やがて、狸は俯いていた顔を上げ、小さく口を開いた。

「……だな。そん通りだよ、爺さん。何故もっと親身になって聞いてやらんかったのか、今になって悔やむわい」

「その狂気に気付いておりながら、赤兎を双子達の傍に置いておったのが最大の罪じゃな。あやつらは早急に離すべきだったんじゃ。お主を慕っておったんじゃろうが? 赤兎が悩みを打ち明けた時に、無理にでもここに連れてきてやれば良かったんじゃ! 赤兎は逃げ場を……居場所を求めておった。狸、それはお主にしか作れんかったもんじゃ。それをお主は見捨てたも同然じゃ」

「仙人! そこまで言わなくても……!」

「……いいんじゃよ、娘さん。爺さんの言う通りじゃわ。儂が悪かったんよ。儂の罪は充分理解した。ちゃんと責任を取ろう。……爺さんっ、頼む。不甲斐ないこの儂に……力を貸してやってくれ!」

 狸の老人は頭を机に擦り付ける。その姿を見た仙人は『ふぅ』と溜息を吐きながら言った。

「……狸には【この酒】の借りもあるからのう。顔を上げんかい、この馬鹿たれが」

 仙人は、狸の背中を容赦なくバシバシと叩く。『痛い、痛い!』と笑いながらも、狸の目尻に涙が浮かんでいるのがよくわかった。

「とにかく、これからどうするかじゃ。夜宴の島にかけられとる結界が強力過ぎて、儂らには手も足も出んわい。……ところで娘さんや? 話は逸れてしもうたが、先程の儂の発言に何か思い当たる節があるように見えたのじゃが……どうじゃ?」

「あっ!」

 私は仙人の言葉に反応する。……そうだった。二人のイザコザからつい失念してしまっていたが、確かに気になっている点があるのだ。

 ――【神の類】、そして、それは【既に死んでいる者】。

 その言葉は、私が魔女の所で気付いた事を決定付けているもののような気がした。……私は、恐る恐る口を開く。

「その……さっき仙人が言っていた事で、少し……気になる事が」

「何じゃい? 話してみぃ」

 私は、ゆっくりと呼吸を整えてから……コクリと頷いた。

「……シロくんがクロちゃんに、【赤兎は死の神の加護を受けている】と話しているのを偶然聞いちゃったの。それに赤兎も、自分の事を【死を司る神の後継者】と言っていたわ。だから私は、赤兎と人形の背後には死神の存在がある。――そう思っていた」

「ほう。……それで?」

「でもね魔女の隠れ家で、遥か昔に人間が書いたという書物を見せてもらったんだけれど……魔女は、呪いや黒魔術の類から……恐らく、その死の神はブードゥー系の神なんじゃないかと推測したの。そこには、ブードゥーの死神の風貌が書かれてあったのと……その神は、葉巻やお酒を好むと書いてあった。その二つの単語を……私は、確かに船の中で聞いたの」


『エ〜! ツマンナイ、ツマンナイ! ツマンナイッタラツマンナイ!』

『……葉巻とお酒を用意させるから我慢おし』


「そして赤兎は、人形の名をゲーデと呼んだ。ちなみに、その死神の名も……」

「……ゲーデ、というわけじゃな?」

「えぇ。その風貌は全く異なるけれど……ヒトが書いたものだもの。誤りがあってもおかしくない。【死神ゲーデ】とは、正真正銘あの人形の事だったんだわ」

 私が二人にそう伝えると……仙人は方杖をつき、狸は腕を組みながら考える素振りを見せた。

 仙人はどうかわからないけれど、狸の老人はゲーデという存在に全く心当たりがなさそうに見えた。宙に無数のクエスチョンマークが浮かんでいる。

「――ふむ。確かにそう断定するべきかもしれんな。偶然にしては、ちと出来過ぎてるしのう。……しかし、あの人形自身が死神というならば、敵が一体少なくなったという事じゃ。儂らにとってはある意味ラッキーじゃわい!」

 仙人はそう言うと、ケタケタと笑った。その横では狸の老人が『真面目に考えんしゃい!』と注意を促した。

 私は仙人に【ゲーデ】という存在に聞き覚えがあるかと尋ねてみると、仙人は黒目を右上に寄せながら『うむぅ』と記憶を巡らせた。

「……聞いた事があるくらいじゃなぁ。別名、【バロン・サムディ】。確か……【十字架男爵】や【墓地男爵】とも呼ばれておったかのう? とにかく、生と死の間の仲介者とも言われとる存在じゃよ」

 仙人の言葉に返事を返そうとしたその時、狸の老人が私を見ながら、驚いたように素っ頓狂な声を上げた。

「お、おおぉい! む、娘さん! その手……!」

 狸の言葉に反応し、私は急いで手のひらを見つめる。すると、その指先はキラキラと光り、薄っすらと透けて見え始めていた。

「うむ。そろそろ、時間のようじゃな」

「……え? って、えぇーっ⁉ もうそんなに時間が経ってしまっていたの⁉ 仙人! お爺さん! ……どうしよう⁉ 私、島に戻っちゃうみたい!」

 これからの作戦なんて、まだ何一つとして決まっていないのに! 

 私の左右の指先はキラキラと光り輝き、徐々に第二関節まで通過した。きっとこの光が全身を包み込んだ時、私は島に強制送還させられる。……タイムオーバーだ。

 私が不安気に二人を見つめると、仙人は穏やかな顔を見せながらニコリと笑った。

「……娘さん、よう来てくれたな。安心せい、儂に任せるんじゃ。娘さんがここに来てくれた事で突破口が開けたわい! ――狸ッ! 儂が今からお主を奴らに感知出来んくらい小さな生物に変えてやる。その妖力もサイズに比例し、簡単にはばれん筈じゃ。娘さんと一緒に先に行け! 儂は別の方法を探すとしよう!」

「ち、小さな生物⁉ 蚊か⁉ それとも蟻か⁉」

「もっとじゃ! もっと小さいものに変えねばあの結界を掻い潜る事は出来ぬ!」

「けどよ、爺さん……小さけりゃ小さい程、膨大な妖力が必要となるぞ⁉ 大丈夫なんかい?」

「はっ、抜かせ! 儂もまだそこまで衰えとりゃあせんわ! このたわけもんが! ……確か、世界で一番小さいとされているアザミウマタマゴバチという寄生蜂がおったのう。――それでいこう!」

 仙人は壁に立てかけておいた杖を手に取り、呪文のような言葉を唱えた。狸の身体はみるみる縮んでいく。

 仙人の呼吸は荒くなり、額から大量の汗が流れ始める。やはりきついのだろう。

 杖を持つ手もプルプルと震えていたが、仙人は休む事なく呪文を唱え続けた。

 狸はどんどん小さくなり、途中で昆虫の姿へと変化する。私の身体は、もう殆ど光に覆われ始めていた。

「あ、あれ? 狸のお爺さんが消えた……」

「消えとりゃせんわい。小さ過ぎて、肉眼では確認出来んだけじゃよ。……狸、聞こえておるじゃろう? 出来るだけ娘さんの内部にいるが良い。くっついているだけじゃ結界や砂時計の効果に弾かれてしまうかもしれんからのう。中におるんが一番じゃ」

「内部⁉ 内部って何⁉ どういう事⁉」

「口の中や鼻の穴の中、耳の穴……幾らでもあるじゃろうて」

「……嫌だ! 何かそれすごく嫌だ! 絶対に嫌だ! 気分的にも嫌だ!」

「ガタガタ抜かすな! 少しは我慢せんかい! はぁ~……儂はちぃと疲れたわい。ここで少し休んでからどうにかしてそっちに行く手立てを考えてみるでのう。……では、達者でな」



 まるで異次元に迷い込んだような感覚だった。凄いスピードで背景が変わっていく。

 今、私は真っ暗な世界の中心にいた。周りには、星のような粒子が沢山浮かんで見える。それは赤だったり、黄色だったり、緑だったり……

 ――そう、あれだ。目を閉じたらカラフルな幾何学模様が蓋の裏に見えたりするような……それと、とてもよく似た感じ。

 その光の粒は花柄に見えたり、唐草柄に見えたりで……まるで宇宙の中を彷徨っているかのようにも思えた。

「お爺さん……傍にいるよね?」

 返事がないのはわかっていた事だが、何らかのアクションでもとって、その存在を知らせて欲しいと思ってしまう。……まぁ、鼻の穴からひょっこり顔でも出された暁には、きっと泣きそうになると思うが。

 結局、何のアクションもないまま……私の問いかけは虚しくも、闇の中へと消えていってしまった。


 ――ふと、ソウくんの顔が頭をよぎる。彼と知り合ってから、実はまだひと月も経ってはいない。

 それなのに……こんなに短期間で、これ程までに大きくなっていた。彼の存在が、私の人生を大きく変えてくれた。

 ……ずっと、一人でいいって思っていた。つまんない人生を、この先何年も、何十年も過ごして……そうやって全てを終えていくんだって、そう思っていた。

 なのに――


『あの……どうも。面接にきました』


『……でもね、橘さん。この世界には美しいものなんて一つもありませんよ。……だから人は美しいもので溢れている絵画や彫刻、映画に小説など……人の手により作られた偽物の美しさに魅了されてしまうのです』


『俺の事はソウでいいよ、ミズホ』


『永遠に続く夜の宴。それは、不思議で奇妙で恐ろしく……そして何より美しい。悪魔や魔女の宴とも呼ばれるものだ。不気味な島で開かれる夜の晩餐。夜の間はその島で過ごす事になり、朝日が昇れば元の世界に戻れる。……その島の事を、住人達は【夜宴の島】と呼んだ』


『……それは教えられない。答えたくないんだ。自分の素性ほど、愚かで惨めなものはないからね。けど、協力してもらうんだし、一つだけ……ミズホから見て俺という人間が掴めないと思うのなら、それは全て本当の俺ではないからだよ。でも君が見てきた俺は全て、正真正銘本物の俺自身に違いない。……その矛盾、君にはわかるかな?』


『……ミズホが見つけてみてよ。本当の俺自身を。その謎が君の中で、また新たな一つの物語を生み出すんだ』


 彼の言葉が、頭の中を駆け巡る。


『ミズホ』


 ソウくん、ソウくん……貴方に逢いたい。

 目を閉じると、【夜宴の島】が視える。黒兎や白兎はいつものように楽しい遊びを考えたり、悪戯をする。皆、最初の方こそ怒ってはいるものの……最終的には『やれやれ』と、呆れたような声を出して笑っている。なんだかんだ言っても……きっと皆は、双子達の事が大好きなんだろう。

 飲兵衛の老人達は浴びるほど酒を呑み、顔を赤くしながら盛り上がっている。中には悪酔いし吐く者や眠りこけている者もいるが、とても楽しそうだ。

 ――そうだ! たまには私もパーカッションを叩いてみたり、オレンジの炎を纏うトーチを大きく回してみたり、獣達と一緒に踊ってみようか? 

 それとも童子達と一緒に、誰が一番大きなシャボン玉を作れるかを競ってみようかな? 

 身体に害のない一過性の魔法のドリンクならば、また飲んでみてもいい。レッドナイトムーンはお断りだが、それを飲んだ自分がどう変わるかには少しだけ興味がある。……こんな事を言うとまた、ソウくんに怒られちゃうかな? 

 あの麗しき歌姫と一緒に歌を歌ってみたい。実は歌うのが好きだ。上手いか下手かは別として……鎌鼬は私の歌でも華麗に舞ってくれるだろうか? 

 笛の音が聞こえ、お祭りのように賑わいを見せる夜宴の島……

 あの広い海のどこかには、色褪せぬ美しさを持つ人魚が……今宵も水飛沫を上げて、優雅に泳ぎ回っている事だろう。

 私と彼は人魚に向かって手を振ると、互いに顔を見合わせて笑う。

 そして、きっと……こう言うんだ。

「夜宴の島に来れて……本当に良かった!」


 夜宴の島……あの夜を、もう一度――


 私がゆっくり目を開くと、周りは光で満ち満ちていた。私の身体は、まるで光の中に飛び込んだように同じ輝きを見せる。

「――ソウくん、今から行くね。どうしたらいいかなんてわからない。どうすればうまくいくかなんてわからない……けど、行くよ。だから……待っていて!」

 私が出来る事なんて限られてる。……けれど、やれる事はやってみせる。とにかく、赤兎と人形をどうにかして離さなければ。そうすれば、きっと突破口が生まれる筈。

 あの奇妙で不思議な夜宴の島に、皆で帰ろう。

 恐ろしい中に存在する、あの美しさを……私達は既に知ってるのだから。

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夜宴の島 中編 【赤兎編】 夢空詩 @mukuushi

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