第6話


 寂しい……寂しい……

 いつからこんな感情が生まれたのだろう?

 私は、黒兎と白兎のお姉さん。二人よりも早くこの世界に生まれ落ちた。

 だから、【親】の存在も……勿論知っている。

 偉大な神に見初められた、小さな村の娘が私達の母。母は最初、生贄として村人達から差し出された憐れな娘だった。

 兎神という名前だけを見れば、大層可愛らしい神のように感じるかもしれないけれど……父は昔、とても恐ろしい神だったのだと聞く。

 何故はっきり言えないかと言うと、父の存在を知ってはいても、覚えてはいないからだ。

 父は私が物心つく前に、既に息絶えていた。母の腹に、双子達を残して……

 神と交わり、子を宿した母を村人達はよく思っていなかった。自分達が生贄に差し出した癖に、母の事を化け物だと罵り……その挙句、村に災いが起きぬようにと殺害を企てたのだ。

 父は、それを庇うようにして人の手によって殺された。

 兎神の加護を失った村は……その後、飢饉に陥り寂れ廃れ、次第に滅びていったと聞く。

 母は身重の体を引きずり、ある山の奥深くまで逃げた。そして、そこで双子を産み落としたのだ。

 母はよく私に言っていた。父は、愛する者の為に命を懸けられる……とても愛情深く、優しい人だったと。

 程無くして、母は身体を悪くし……死んだ。

 しっかりしなきゃいけない。これからは、私がこの子達を守らなくてはいけないのだ。

 それが、母の最後の言葉だったから……


「……賢く優しい赤兎。貴女に負担をかけてしまう事になると思うけれど……どうか、幼いこの双子を守ってあげて。半分人である貴女達に課せらた試練は、辛くて険しいものかもしれない。けれど、お母さんは信じているわ。貴女達三人が、ずっと幸せに……笑って暮らしていける事を」

 母は目に涙を浮かべながら、私の髪を優しく撫でた。

「愛しているわ、赤兎。黒兎と白兎も。貴女達はあの人の大切な忘れ形見。そして、私にとっても。双子達はまだとても小さい。きっと、私の事も覚えてはいないでしょう。だから、父と母の事を教えてはいけない。何も知らないふりをするの。父が人間の手によって殺された事。そして、三人には人の血が混じっている事。この事は絶対に、誰にも言ってはいけないからね。――約束よ? 貴女達は無より生まれた有なるもの。……それで良い」

 私は、母の亡骸を一人で山頂に埋めた。


 双子達はすぐに大きくなった。そして私に問いかけてくる。

 自分達はどうやって生まれてきたの? 

 私は、答える。

 気が付けば既にここにいた。どうやって生まれてきたのかは、私にもわからない……と。

 嘘がとても上手くなった。隠さなきゃいけなかったから。

 泣かないようになった。私がしっかりしないと二人を守れないから。

 次第に演じる事に慣れてしまった私は、本当の自分がどんなものだったのかさえわからないまま……ずっと、ずっと……舞台の上に立つ役者のように、自分という存在を演じ続けてきたのだ。

 白兎は、人間の血を強く引き継いだのか……人と神、両方の器を持つ事に拒絶反応を起こし、身体がとても弱かった。

 あの子はもう覚えていないだろうが、一度……本当に死にかけた事がある。その時の私は、必死で白兎を救う術を探した。

 母の忘れ形見である白兎の生命を、こんなところで散らせるわけにはいかない。

 ……何があっても、白兎を助けなければ。


 この山の近くにある古道に、父の古くからの友人で、病に非常によく効く薬を作る事が出来る狸の神様がいると……生前、母から聞いた事があった。

 その神様に会って貰えるかどうかもわからなかったけれど……とにかく私はその古道に向かう為、里に下りた。

 私が里に下りたのは初めての事だった。……里の子供達は私を見てひそひそと話す。とても嫌な感じだ。その目から、【よそ者】に対する好奇と敵意の感情が見て取れた。

 私は、里に住む子供達に石を投げられた。額から血が流れた。何度も、何度も、何度も、何度も……

 けれど、そんな事に構う事なく、私は先を急いだ。心がとても痛み、涙が出そうになったけれど……今は白兎の事が最優先だ。傍に置いてきた黒兎の事も気にかかる。

 一刻も早く、狸の神様の元へ。

 そんな時……ふと目に入ったのが、一人の子供が持っていた少年の人形だった。

 ……私は何故か、その人形が生きているような気がした。


 狸の神が住むと聞く山道の入り口に辿り着くと、微弱ながら、人とは違う気を持った私の存在に気付いたのか……すぐに見知らぬ老人が私の目の前に現れた。

「ほぉ……! 珍しい事もあるもんじゃ! この気は【あれ】の! お嬢ちゃん、あれの子供かい? まぁ、肩の力を抜きんしゃい。何か、儂に用があってきたんじゃろ?」

 私が弟の状態を伝えると、老人は……『それはいかん、すぐに支度をしよう!』と言い、重い腰を上げる。

 私は狸の神様に、くれぐれも双子達の前では父と母の話はしないようにとお願いすると……事情を汲んでくれたのか、笑って了承してくれた。


 行きとは違い、帰りはとても楽だった。 

 狸の神の力はとても強く、黒兎と白兎の小さな気を辿ってみせると……私を連れ、一瞬で小屋の入り口まで瞬間移動をしたのだから。

 本来はのんびりと歩いて行くのが好きなようだったが、流石に緊急を要すると思ったのか、とにかく急いでくれた。私は初めて目の当たりにした【偉大な神の力】に、感動を覚えていた。

 老人のお陰で、白兎は一命を取り留めた。

 私も、狸のお爺さんのように……親切で、優れた神になりたいと、心の底からそう思った。


 それからの私は、一人でこっそりと狸の古道に遊びに行く事が多くなっていった。

 白兎はあの薬を飲むようになってから、みるみる元気になっていったし、黒兎は女性らしさには欠けるが、思わず目を見張るくらいに強くなっていった。

 少し、肩の荷が下りたような気がした。

 ここでは、父の存在も母の存在も隠す必要がない。父の昔話や母との話を、狸のお爺さんから教えてもらったり、話したり……そうやってお喋りする時間が、何よりも楽しくて幸せだった。

「ここでは気を張らんでええ。楽にしんしゃい。おまんはよう頑張っとるでな。ええ子じゃ、ええ子じゃ」

 そう言って頭を撫でてくれる、優しくて温かい狸神が……私は本当に大好きだった。


 ――そんなある日の事だった。

 私は、小さな虫を踏み潰してしまった。知らぬ間に踏んで殺生をしてしまった事など……きっと、今までに何度もあっただろう。

 けれど、【私が踏んでしまった事により、死なせてしまった】と自覚したのは……これが初めてだった。

 私は胸の奥で、謎の高揚感に包まれていた。

「い、たい……!」

 突然、額に鈍い痛みが走る。あの……里の子供達に石を投げられた付近だ。もう随分と日が経つので、怪我なんて既に治っていたし、傷痕すら見つからない。

 けれど、何故だかズキズキと痛む。……何だこれは? 

 私は、どうしてなのかはわからないけれど……あの少年の人形が、私に【痛み】を与えているのだと思った。

 ……どうすれば良いの? 生き物を殺している間だけ額の痛みが治まる。本当はこんな事をしたくない。……けれど、しないと頭が壊れそうになるくらいに痛むのだ。

 直感的に、これは呪いの力なのではないかと思った。

 あの日、投げられた石により出来た傷口から……何らかの呪いをこの身に受けたのではないかという見解だ。

 しかし、たとえそうだとしても……大切な妹と弟に心配をかけるわけにはいかない。

 それならば、一層の事……


 私は、頭のオカシイ姉を演じる事にした。虫や動物、生き物を無慈悲に殺生する悪魔のような姉。

 そんな私を双子達は嫌悪し、不気味に思い……次第に傍から離れていった。

 ……それで良いの。貴女達を巻き込みたくない。

 今日も私は蝶の羽をもぎ取り、生あるものの生命を残忍に摘み取っていた。


 嫌だ、本当はこんな事はしたくない。

 ――でも、身体がそれを求めている。

 違うの、これは私の本心じゃない。

 ――でも、どうしてもやめられない。


 最初は、ただ痛みから逃げる為にした事だった。

 けれど……それはいつしか私の快楽となり、なくてはならないものになっていった。


 ああ……楽しい。

 もっと……もっと……! 


「――赤兎! 何をしておるんじゃ⁉」

 突然、背後から聞こえてきた声に身体がびくりと反応する。……振り返らずともわかる。

 優しくて、大好きなその声……

「……お爺ちゃん! 私……私!」

 私は狸の老人の胸に飛び込む。老人は私を落ち着かせる為に……トントンと優しく、心地良いリズムで背を叩いた。

 私は狸神に全てを話した。額の痛みの事、生き物を殺すとその痛みが和らぐ事、少年の人形が怪しいという事。呪いをかけられているかもしれない事。双子達にまで危険が及ばないように距離を置いている事。

 老人は顎に手を当てながら、『う〜ん』と唸った。

「呪いの類いは儂には感じられんが、おまんの様子がおかしいのは一目瞭然じゃ。双子達もほんに怯えておる」

「お爺ちゃん……私、もう一度里に下りて、あの人形のところに行ってみようと思うの。このままじゃ私、本当に気が狂ってしまうわ」

「いかん! もしおまんの言う通り、その人形に力があったとしたら……今度こそおまんの心は闇に取り込まれてしまう。儂が何とか調べてみるでな、おまんはここでじっとしときんさい」

「でも! もしお爺ちゃんに何かあったら……!」

「赤兎! 言う事を聞くんじゃ! おまんに心配される程、儂ゃ落ちぶれとりゃせんわ! ……安心しんしゃい。儂に任しといたらええ」

「うん……わかった」

 老人は私の返答を聞くと、安心したかのように微笑み……一度、古道へと帰って行った。

「お爺ちゃん……ごめんね」

 私はもう決意を固めていた。

 今夜、再び里へ――


 一先ず小屋に戻った私を、黒兎は……まるで穢らわしいものを見るかのように、白兎は……心底怯えているかのように、じっと見つめてきた。

 いつもの事だ。話しかけても来ない。

 ……けれど、この日は少し違った。

 双子達は言った。『もう、こんな事はやめて。全ての生物には生きる権利がある。それを姉様が面白半分に終わらせる権限はない』と。

 本当は『違う!』って言いたかった。……壊さないと、私の頭が壊れそうなの。 

 本当はこんな事したくない。……お願い、わかって。私を……助けて。

 本当に、そう言おうとしたのよ……? もう、演じるのは疲れたから。

 けれど私の口から出た言葉は、全くの正反対だったんだ……


「――次は人間を壊してみたい」


 それは、私の本心なのか? 

 それが、私の本心なのか? 


 わからない。……私はただ、この痛みから解放されたいだけ。


 ――本当に? 


 もう一人の【私】が、【私】に問いかける。


 ――本当は皆、死んでしまえばいいと思っているのでしょう? 父を殺した人間達も……母だって、双子達を産んで身体を悪くして死んだんだよね? ……ならば、あの子達の存在も【罪】だ。何故、私だけが我慢をしなければいけないの? どうして私だけ……自由に生きてはいけないの? そんなの納得がいかない。許せない。


 それは、私が姉だから。……当たり前じゃない。


 ――貴女は誰? 


 私は……優しく賢い赤兎。母がそう言ったもの。 


 ――いいえ。それは違うわ。貴女は血塗られた悪魔よ、赤兎。だって……沢山の血を見てきたじゃない? ……さぁ、次は人間の番だ。


 ……いいえ! 私は【貴女】なんかに屈したりしない。今夜、あの人形の正体を暴いてみせるから!



***

 

「な、なに……これ?」

 皆が寝静まった夜更けに、こっそりと山小屋を抜け出し、里に下りた私の目に映ったものは……悪魔の所業と言っても何らおかしくはない。

 赤、赤、赤、赤……一面に広がる、真紅の世界。

 里の者達は皆、既に全滅しているかのように見えた。

 ――誰がこんな事を? そんな事を考えていると、奥の方から微かに物音が聞こえた。私はその音に誘われるように、奥へと進む。

 奥には大きな樹があった。その樹に、もたれかかるようにして置かれてる少年の人形……

 私は【それ】を持ち上げた。項垂れるような形で下を向いていた人形が、突然顔を上げて、ケラケラと笑いながら私に言った。

「コンバンハ、美シキ妖精。待ッテイタヨ、君ガ来ルノヲ! グヒヒ!」

 その余りの不気味さに、私は思わず人形を地面に向かって強く投げ付けた。

「あ、貴方……誰⁉ これは全て貴方がやった事なの? 酷い、こんな事……許される筈がない!」

「ア~……待ッテ待ッテ。僕ガ欲シイノハ【君】ジャナインダヨネ~。君ノ中ニ存在スル、モウ一人ノ君ナンダヨ。ゴミハイラナイ。ゴミハ、ゴミ箱ノ中ヘ」

 倒れた人形から激しい突風が繰り出される。私は容赦なく背後にあった壁に叩きつけられた。

「うっ……ぐ……っ……」

「ゴッメ〜ン、痛カッタ? ネェ、痛カッタ? アハハハハ、愉快、痛快、コレ何ダッケ~? ウヒヒ!」

 ……これはまずい。私は本能的に察知した。この人形には勝てない。このままだと私は、確実に殺されてしまう。

 私は、生まれて初めて【恐怖】と対面した。

 この人形……やはり、ただの人形などではない。

「僕ハ君ノ事ヲヨク知ッテイルヨ? 生マレナガラニ呪ワレタ、憐レデ可哀想ナ、汚ラシイ娘ノ赤兎。……人ノ穢レシ血ガ混ザッテイナガラ、神ニ近イソノチカラ。……素晴ラシイ。評価ニ値スルヨ」

 人形は、布で出来た手をパンパンと叩く。

「サァ、モウ一人ノ赤兎。出テ来テ御覧? 僕ト一緒ニ遊戯ヲシヨウ。僕ナラ君ニ相応シイ舞台ヲ用意シテアゲラレルヨ! 健気ナ姉ヲ演ジルノニハ、モウ飽キタダロウ? 爺サンニ懐ク甘エン坊サンナンテ退屈ダロウ? 村ノ子供ニ意地悪サレテ、悲劇ノヒロインブルナンテ……プフ! 笑ッチャウ! ……生キ物ヲ痛ブル時、君ハ興奮シタノダロウ? ソンナ君ニプレゼントガアルンダ! ソコノ中ヲ開ケテ御覧」

 人形が示す方向に、小さな木箱があった。私は木箱に恐る恐る近付いてみる。木箱からは微かに呼吸音が聞こえ、小さく揺れているのがわかった。……嫌な予感がする。

 私は生唾をゴクリと飲み込むと木箱の蓋を開けた。

 中には、無理矢理木箱に入れられた一人の少女の姿があった。口は手拭いで塞がれ、両手は縄で縛られている。

 少女は私を見るや否や、目を大きく見開いた。血走ったその目は、私を見て怯えているような気がする。

 ――何故だ? 普通なら、助かったと思い……安心した表情を見せたりする筈。どうしてこの子は、そんな目で私を見るの……? 

「赤兎、トテモ嬉シソウダネ! ソンナニ喜ンデモラエテ僕モ嬉シイヨ! ……サァ、君ノ望ミヲ叶エテアゲル! 人間ヲ壊シテミタカッタノダロウ? イッソヒト思イニヤッチャイナヨ! ソシテキミハ新タナ自分ニ生マレ変ワルンダ」

 人形の言葉を聞き、私は頬に手をやる。そして気付いたのだ。異常なまでに吊り上がった口角に……

 ……少女から見た私は、悪魔だったに違いない。

「サァサ、呪ワレタ赤キ兎! コノ俺ニ、最高ノショウヲ見セテクレヨ? ソノ憐レナ少女ヲ、柵カラ解放サレル為の儀式ニ使ウトイイ! 退屈ナ毎日ヨリ……刺激的ニ生キヨウヨ? オ前ハコンナトコロニイルベキ存在デハナイ。モット崇高ナル尊イ存在ダ! ――サァ! コロセ!」

 人形の言葉が私の心を狂わせる。もう……自我を保っているのが難しい。私の思いとは裏腹に高く上げられていく腕。大きな目を更に大きく見開いていく人間の娘。

 ああ、狂おしいほどに美しいその表情……


 壊シテミタイ



 美しく積もった白い雪が赤く染まり……その上に転がる、バラバラになった沢山の死体の山。

 その中の一つは、私が自ら手を下したもの。

 私の右腕は、少女の身体を深く貫いていた。顔に飛び散った鮮血はとても温かく、【生】を感じさせた。血液中の赤血球の中に存在するヘモグロビンが、周囲に鉄の匂いを充満させる。……気分が悪い、吐き気がする。

 けれど、【彼女】は悦んでいた。今までに見た事のないような笑顔で、幸せそうに……

「あは、あははは! うははははは!」

 ……何がおかしいの? 人を殺して、どうしてそんなに笑っていられるの⁉ 

「は〜! おっかしい! ……そうよ、私は生まれながらにして自由でなければいけない! 誰も私を咎める事など出来ないわ! ずっと【この女】の後ろに隠れてきた……そんなのはもう嫌。やっと表に出られたの! これからは私の好きなように生きてやるわ!」

 そんな筈ない! この世に生まれてきたのだから耐え忍ばなければならない事もあるわ! 全てのものが我慢を忘れ、好き勝手に生きたら……この世界はいずれ滅ぶ。順応しなくては駄目なの! たとえそれが、どれだけ理不尽であっても。

「私がしたい事は、何だって許される世界に変えてやるわ。全てが私にひれ伏せば良いんだ! 怯え、恐怖に慄け! 逆らう者は皆、惨たらしく死んでしまえ!」

 駄目よ、そんな事をしてはいけない! 貴女は私なんでしょう⁉ 私はそんな事を望んではいない! お願いよ……聞いて、届いて、私の声……

 小さな悪魔は、いつの間にかお喋りを止め、ただの人形のように静止していた。 

 ……本当にさっきまでこの人形は動き、私に話しかけてきたのだろうか? もしかして、私の脳で都合良く作り出されただけの【幻覚】だったのでは……? 

 いいや、そんな筈はない。確かに……

 とにかく……もうお終いだ。【私】は取り返しのつかない事をしてしまった。

 ついに【私】は、虫や動物だけではなく、人間にまで手を下してしまった。……死んでしまった少女の亡骸は、血に濡れて真っ赤だ。

 そしてその目は、目の前にいる赤兎ではなく……この【私】を責めているかのように思えた。


 ……随分と時間が経過したようだ。朝日が昇り、白に混ざった赤が鮮明に映し出される

 あれから【彼女】は、村中を徘徊し、動かなくなった【玩具】の中身をいじくりまわしては、キャッキャとはしゃいでいた。……が、次第に飽きてきたのだろう。『つまんない』と言って、人形の鼻をツンツンと突いたり、両腕を持って一緒に雪の上でダンスを披露していた。

 動かない観客達の前で軽やかにステップを踏み、華麗にクルクルと回る彼女に……人形はただ身を任せ、乱暴に振り回されているだけ。

 第三者から見れば、異常な光景である事は間違いない。けれど私にとっては、ようやく地獄から解放された瞬間だった。

 ――もう嫌だよ。こんな事……したくないよ。

 そんな事を考えていると、彼女は突然立ち止まり、分かりやすく大きな溜息を吐きながらそっと呟いた。

「……物足りない。張り合いがない。人間の内部はもう調べ尽くした。そもそも私に何の関係もない人間が幾ら死のうが何の感情も湧かない。……それならば」

 彼女の思考が、私の頭に流れ込んでくる。

 あの邪魔な双子をこの手で殺してしまおう! ムカつくけれど……一応肉親。私より格段力は劣るだろうが、向こうは二人だ。きっと簡単にはいかないだろう。うふ、とても面白そう。

 それに、たとえ半分人だとしても……神の血を引いている事には違いない。神殺しかぁ……あは! ――やってあげようじゃない。もうあんなお荷物達は必要ない。あんな子達に私の人生を台無しにされるなんて耐えられないもの。私が私の為だけに生きていく為には……あの子達は不要だわ!

 ――駄目! 絶対にそんな事はさせない。あの子達には指一本触れさせはしない。けれど……今の私は無力だ。彼女の意思に完全に取り込まれ、支配されている。一体、……どうすれば良いの?


 お爺ちゃん……助けて。


「ね、姉様……」

 突然聞こえてきた声に、彼女は振り返る。視線の先には、青白い顔をした双子達がいた。

「あら、黒兎に白兎! 迎えに来てくれたの? あまりに美しい光景に見惚れてしまって、ついそのまま朝を迎えてしまったわ! ほら、見て? この人形! ……素敵でしょう? あの家に住んでた娘が持っていたの! 凄く気に入ったから奪ってきちゃった! 今日からこの子はうちの子! 名前は何にしようかしら?」

 ――違う! これは私じゃない! 騙されないで二人共! 【彼女】は悪魔よ。そしてその人形はもっとタチが悪い! 

 人形を燃やして! 早く、その人形を……! 

「……ふぁああ~! 私、何だか眠くなってきちゃったわ! そろそろおうちに帰りましょ?」

【私】は大きく口を開き、欠伸をすると……近くに【落ちていた】死体をぐしゃりと踏みながら帰路へと向かう。双子達は、黙って私に付いてくる。私は笑いながら双子達に話しかけた。

「……人間を殺すのも虫を殺すのと一緒で、何だか簡単だったわ、面白くない。……そうだ!」

 ――それ以上は、口にしては駄目! 

「同族を殺したら……一体、どんな感じなのかしらぁ? ……きっと今まで以上に興奮するでしょうね、ふふふ」

 その言葉は……双子達に疑心と恐怖心を植え付け、警戒させるには充分だった。


 山小屋に戻って、数日が経った。彼女は双子達にまだ何もしていない。……否、何もさせてはいない。

 以前、彼女が私の中で話しかけてきたように……今では私も、彼女と意思疎通が出来るようになり、その行動までも制御する事が出来るようになった。……だから、絶対に邪魔してみせる。貴女の思い通りにはさせないから。

 ……やはり、表には出る事は出来ないけれど。

「本当にしつこいわね。あんたが邪魔するから何も出来ないじゃない⁉ あ〜! さっさと双子達を八つ裂きにしてやりたいのにぃ!」

 ――馬鹿な事を言わないで。私が貴女の中にいる限り、絶対にそんな事はさせないから。

「はぁ。……まぁいいわ。また少しお喋りしましょうよ? あんたは私。そこまで邪険に扱ったりしないわ」

 ……彼女は悪魔。けど、驚いた事に……私に対してはそうでもなかった。彼女は、まるで友人と話すかのように私に話しかけてくる。その時の彼女は、至って【普通】の女の子だった。

「あの人形、私を妖精と呼んだわねぇ。それで思い出したのだけど……あんた覚えてる? ジジイの家ってさぁ、人間が書いた本が沢山あったでしょう? 【真夏の夜の夢】、そして、その中に出てくるティターニアというキャラクター。……あんた、どう思う?」

 ――ああ、妖精王オベロンが王妃ティターニアと【とりかえ子】を巡って喧嘩をし、機嫌を損ねたオベロンがパックを使い、眠っているティターニアのまぶたに花の汁から作った媚薬を塗るって話でしょう? 勿論、覚えているわ。キュピッドの矢の魔法から生まれたその媚薬は、目を覚まして最初に見たものに恋してしまう作用があるのよね? ……で、パックは森に来ていた職人のボトムの頭をロバに変えてしまう。目を覚ましたティターニアは、この奇妙な者に惚れてしまった。……要するに【ロバ】に恋を。

 ……私はあまり好きではないわ。この話もティターニアも。

「あ〜ら、私は好きよ? 面白いし楽しいじゃない! 正に喜劇だわ! あの本をあんたの中で初めて読んだ時、私ね思ったの。美しき妖精ティターニアに私もなってみたいって! ……あのお人形さん、どうやらその事も知っていたみたいねぇ」

 ――どういう事? あの人形は一体……何者なの? 

「そんなの知らない。けど、あの子といるとゾクゾクするの。まるで、私……媚薬を塗られてロバに夢中になった妖精と同じ。今の私はあの子に夢中なの。あれから一度も話したりはしないけれど」

 ――駄目よ、あの人形は危険。貴女の手に負えるようなものではない。

「……うるっさいなぁ~。あんたはこの世界に夢を見過ぎなのよ。あんたが思う程、この世界もそこに住む者達も皆、優しくないの。綺麗でも何でもない。……汚くて醜いもの達ばかりだわ! だから、誰も信じてはいけない。信じられるのは自分だけ。どんなに信じていても簡単に裏切るものよ? あんただって本当はわかっているんでしょ? 誰だって自分が一番可愛いもの! あんたが信じ、可愛がっている双子達も……いつあんたを裏切るかわからないわよぉ? 飼い犬に手を噛まれる……はたまた、窮鼠猫を噛むってね。きゃははは!」

 ――あの子達は、私を裏切ったりなんてしないわ。あの子達は……私の家族なんだから。

「ど〜だか? 今のあんた、どう見たって異常者だからねぇ。双子達のあの目、……あんた気付いてるんでしょ? あれが家族に向ける目?」

 ――それは! 一体、誰の所為で……! 

「ていうかさぁ~【家族】なんだったら、助けを乞うべきだったんじゃないの? 迷惑かけたくないからって、自ら頭のおかしな姉を演じるだなんて……ほんと浅はかで可哀想なオンナ。その甘さ、いつか身を滅ぼすわよぉ?」

 ……確かに、彼女の言う事は一理あるのかもしれない。私はきっと、愚かだった。双子達に全てを話し、相談するべきだったのだ。そうすれば、今と違う未来が……きっと存在した筈。

 ――って、私は何でこんな悪魔に諭されているのだろう? おかしいではないか……

「ねぇ……私の事は信じて良いのよ、赤兎? だって私はあんたなんだから。本能のまま……もっと自由に生きてみなさいよ? あんたに出来ないんだったら私に全てを委ねると良い。私があんたの代わりに、好きな事を思うがまま自由に堪能してあげる! 忘れないで頂戴? この殺戮欲求は、間違いなくあんたの中に存在するものなのよ? これは全て、あんたの望んだ事。私はあんたの代わりにソレを遂行しているのだから、寧ろ感謝して欲しいくらいだわ!」

 ――そんな筈ない。私はそんな事を望んだりしないわ! 貴女の言葉なんて信用しない、何があってもね。……それに、感謝ですって? ふざけないで! 私は貴女とわかり合うつもりなんてないわ。

「そっ。それは残念! じゃ、私は小屋に戻るわね。少し疲れちゃった」

 ――ちょっと待ってよ! まだ話は!

「じゃ~ね~! ばいば~い♪」

 こうなると、私がどれだけ語りかけてもひたすら無視だ。……仕方がない。諦めよう。

 暫く様子を見る事にするか……


 彼女が山小屋に戻ると、珍しく黒兎が話しかけてきた。白兎は黒兎の後ろに隠れ、相も変わらずビクビクしている。

「姉様、この山頂に虹色の花が一輪だけ咲いているのを見つけたんだ! あれってさ、もしかして狸の爺さんが前に言っていた……この世界のどこかにあると言われる、どんな願いでも叶えてくれる花なんじゃねぇかって、白兎と話してたとこなんだよ!」

「え~? 山頂にそんなもの、あったかしら?」

「それがさ、際どい場所に咲いてやがんだよ! 崖壁のわかんにくいとこに! 今から白兎と見に行くんだけどよぉ、姉様も一緒に行こうぜ!」

 ――黒兎に何かを誘われるのは久し振りだ。

 今の身体の持ち主は私ではないけれど……とても嬉しい。白兎はまだ怯えた目で私を見ているけれど、黒兎は違う。昔のように私に向かって笑いかけてくれている。まるで昔に戻ったようだ。胸がドキドキする。

「あんまり乗り気じゃないけど……まぁいいわ。【この子】も嬉しそうだし」

「この子? 姉様、一体誰の事を言ってるんだ?」

「別にぃ~? こっちの話よ。ね、ね! 行くなら早くしましょうよぉ? 陽が暮れてしまうわ!」

「そうこなくちゃ! ……おい、白兎。行くぞ」

「う、うん……」

 黒兎が私の手を引く。たったこれだけの事に幸せを感じられた。


 私達は小屋を出た。空は優しい橙色が広がり、昔三人で仲良く食べたオレンジの味を思い出させた。またあの頃みたいに、笑顔溢れる時間を貴女達と過ごしたい。ただ……そう思っていた。

 見晴らしの良い場所に辿り着くと、黒兎が『そこに虹色の花があるぜ!』と指を差した。

 ……ここからじゃ、よく見えない。

 黒兎が『そこだよ、そこ!』と急かすように言ってくるので、【私】は膝をついて崖壁を覗き込んだ。

「……ちょっとぉ? どこにもないじゃない! 本当にここなのぉ?」

 私は覗き込んだまま、背後にいる二人に声をかけてみるが……返事はない。

 ……何だろう? 何だか様子がおかしい。

「――ちょっと貴女達、聞いてるのぉ?」

 そう言って私が後ろに振り返ろうとした時、ドンという鈍い音と背中にかかる圧力が……私を奈落の底に突き落とした。

 私は、まるでスロモションのように……ゆっくりと宙を舞った。



 …………痛い。

 痛いよ……血が止まらない……

 ――どうして? ねぇ、どうしてなの……? 

 黒兎……白兎……そんなにも、貴女達は私の事が嫌いだった……? 

 私は、貴女達の事をとても愛していたわ。とても、大切に思っていた。

 なのに、どうして……? 


 あの子達の最後の言葉。私の耳が最後に拾った言葉。その言葉を思い出しただけで、私の胸は締め付けられ……涙が込み上げてきた。

「死ね」

 ――という、黒兎の冷酷な言葉と……

「お願いだから……僕達の前から消えてよ、姉様……」

 ――という、恐怖から生まれた白兎の言葉……


 ああ、そうか。

 二人は私の死を望んでいたんだ。

 私は二人に……愛されてはいなかったんだね。


 私は、うまく力の入らない手をキュッと握ってみた。

 ――動く。……間違いない。

 今、この身体の持ち主は紛れもなく【私】だ。 

 こんな時に入れ替わるなんて……本当に、皮肉な話だ。

 口から大量の血が溢れ出す。落ちていく途中に私の腹は無残にも貫かれ……今、こうして意識を保っていられるのが奇跡のようだ。目も霞んできた……私はきっと、ここで死ぬのね。

 自虐にも似た悲観的な笑みが零れる。

「あ~……あ……」

 私って、何の為に生まれてきたんだろう。……ほんと馬鹿みたいだ。

 まさか、妹と弟に殺されてしまうだなんてね。


 ――ねぇ? もう一人の私。


 そう言って、【彼女】は私の頭の中で話しかけてきた。

 ……ふふ、おかしいの。まさか最期の話し相手が私を今まで苦しめ続けた憎き悪魔だなんて。

 けれど……何だか安心した。それはきっと、彼女の声がとても優しく感じられたから。


 ――あんた、もうすぐ死ぬわね。けれどお生憎様。【私】は死なないわよ? あんたが死んだ後この身体は私のものになるの。


 ……そう。そんな気がしていたわ。何故だかよくわからないけれど。


 ――ねぇ、双子達が憎い? 


 ……いいえ。憎くなんてないわ。


 ――今すぐ殺してやりたい? 


 まさか……! そんな筈がないでしょう? あの子達は私の大切な家族なのだから。


 ――その家族に、殺されたというのに?


 ……それも運命でしょう。私はあの子達を恨まない。


 ――本当は、はらわたが煮えくり返りそうなくらい怒っている癖に。


 貴女の言葉は耳に入れない。私は……あの子達を許しましょう。


 ――偽善者ね。まるで聖母様だわ! あんたを見ていると、ほんっと虫唾が走る。


 お生憎様ね。……それはこっちの台詞よ。


 ――さっさと眠りなさいよ、この死に損ない。


 そうね……そろそろそうさせて貰うわ。ここから先は……【貴女】の自由にするといい。


 ――えぇ、好きにするわ。まず手始めにあの双子達を血祭りにあげてやる! よくも私を騙してくれたわねぇ? ……これは復讐よ。苦しめてから惨たらしく殺す。


 先にリタイヤした私には、もうどうする事も出来ない。けれど……もう一人の【私】。可哀想な分身。貴女のしたいようにするがいいわ。もう誰も貴女を止めたりはしない。貴女の手により双子達が生命を落とすとしても……それもまた、運命でしょう。

 貴女の思うがままに……生きて頂戴。私が出来なかった分まで……自由に……



「……馬鹿ねぇ、赤兎。あんたは本当に良い奴だったわ。良い奴過ぎて反吐が出るくらい。私はあんたのようには生きられない。今だってあんたの命を奪ったあのガキ共を、どうしてくれようかと怒りに打ち震えているもの。……ハッ、おっかし~。私、あんたに同情しているのかしら? ……最期まで憐れだった赤兎。あんたにとって、あいつらは肉親だったかもしれない。けれど……私にとっての肉親はあんただけだった。絶対に許してやるものか。簡単には殺してやらない。私が必ず……あんたの仇を取ってやる」

 ――赤兎、安らかに眠ると良い。あんたといて結構楽しかったわよ。……サヨナラ。

「黒兎、白兎……赤兎の命の重さは、お前らの命が束になっても足りやしない。必ず地獄を見せてあげるわ。 ――死をもって償え」



***



「ふぁああ~。……あら? わたくしいつの間に眠っていたのかしらぁ?」

 まるでどこかの貴族が眠るような、ふんわりとした天蓋付きのベッドの上でティターニアは目を覚ました。……妙に嫌な気分だ。

「……目覚めが悪いですわね。何だか嫌な夢でも見ていたような……ま、いいですわ。誰か! 誰かいないんですのぉ?」

 ティターニアがそう呼びかけると、扉の向こうから不気味な悪魔の面を被った輩達のかしこまった返答が返ってきた。

 悪魔達はノックをしてからドアを開け、ティターニアに一礼する。

「ティターニア様、何か御用でしょうか?」

「あ〜ら、アナタ達! 御機嫌よう。わたくし、すっかり眠ってしまっていたみたいですわ。眠気覚ましに甘いドリップコーヒーを淹れて頂戴。あ、そういえば! アナタ達……白兎はちゃんと牢に入れてきたんですの?」

「はい! 仰せの通り、弟君は牢にて拘束させて頂いております」

「そ。御苦労様。――で、黒兎は島に戻ってきているんですの?」

「……申し訳ございません。それが、恐らくまだ……全く気配を感じられないので」

「――ふぅん、そう。じゃあ、あの人間の小娘は見つかったのかしらぁ?」

「それが、そちらもまだ……」

「……ほんっとぉに使えませんのねぇ。このグズ共が」

 ティターニアはあからさまに不機嫌な表情を見せる。気分次第で同志達をいとも簡単に消してしまうティターニアに、仮面達は怯えていた。

 次は自分の番かと恐怖に震えながら暴君に従う。現に悪魔の数は、この一年で半分にまで減らされていたのだから。

「ソウ! ソウはどこに居るんですの⁉ まさかアナタ達……ソウまで逃したんじゃないでしょうねぇ⁉」

 赤兎は、部屋中に響き渡るくらいの大声で喚き散らす。こうなると手がつけられない。……悪魔達はまた、死を覚悟した。

「――俺ならここだよ」

 少女は気付いていなかったが、部屋の奥にあるバルコニーへと続く窓は開け放たれていて……カーテンが風によって、ヒラヒラと室内で揺れ動いている。

 ティターニアは悪魔達を外に出すと、ゆっくりと窓の外に足を運んだ。


「こんなところで何をしていたんですの?」

「……お前が寝たから月を見てた」

「あらぁ? 逃げる事も出来たでしょうに?」

「無理だろ。扉の前には門番みたいに仮面達が大勢いるっていうのに」

「ふふ、とても冷静な判断だこと♪」

 ティターニアは賢く冷静な【人形】を気にいってはいたが、些か情熱にかけると思っていた。美しいだけで面白味のないオトコ。……ああつまらない。

 退屈を嫌う飽き性な【妖精】は……やはりソウはただの代用品でしかないなと思っていた。

 ――早く【本物】が欲しい。

 不要になったこの人形は、ミズホの前で美しく殺してあげましょう。……ふふ、楽しみですわ。

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