第5話


「――やっぱり、いないよね」

 あれから森の中を行ったり来たり、隈無く捜しているつもりなのだけれど……誰とも遭遇しない。


『……ティターニアが言うには、全員強制退場させたらしいよ』


 彼の言葉を思い出す。やはりこの島にはもう、私達以外誰も存在しないのだろうか? ……しかし、あの強力な力を持つ仙人や老人達を無理矢理この島から追い出せる程の力が、本当にティターニアにあるのだろうか?

 それじゃあ、もう……世界最強じゃない。

「『私は死を司る神の後継者』……か」

 死を司る神……それってやっぱり、【死神】の事だよね?

 その死神がティターニアと、あのゲーデと呼ばれていた不気味な人形に力を分け与えたという事なのだろうか?

 けど……それじゃあ死神は、いつから彼女に目を付けていたのだろう?

 それとも……やはりティターニアと一緒にいた事により、ただの人形に悪の魂が宿ったのか? そして夜宴の島の継承の夜、魂を宿したあの人形は……燃え盛る炎の中、彼女を助けて島から逃げた後、【偶然】死神に助けられたとか?

 またはティターニアが復讐の為に、死神の在り処を探り当て……後継者になったのか。

 ――いくら考えてもキリがない。誰も、【正しい答え】を提示する事だなんて、出来ないのだから。

 私は倒れた大木を背に、そっと座り込んだ。

「……どうすれば、あの人に会えるんだろう」


 私はポケットに手を突っ込み、白兎から貰った夜宴の島の結晶を取り出す。

 結晶はキラキラと輝いていて、中では海が静かに波を打ち、上の方では、大きくて真ん丸なお月様が浮かんでいた。

 ふと石から目を離し、【現実】の夜宴の島を見てみると……余りの違いに、悲しくて涙が出そうになる。

「……お願いです。あの美しい宴を……もう一度。皆が楽しそうに笑っていて、賑やかで、騒がしくて……そんな、不思議で奇妙な夜を……もう一度皆と一緒に過ごしたいんだ」

 ――諦めない。……絶対に。


 その時、いきなり脚に何か触れた。

 フサフサしていて、体温が高く、比較的に小さいもの……

 私は、恐る恐る目を下に向ける。すると……鼠が私の足にぴったりと寄り添っていた。びっくりして、思わず飛び跳ねる。

「ななななななに⁉ ね、鼠⁉ 何で鼠がくっついてくるの?」

 突然の出来事に、心臓が飛び出しそうなくらい驚きながらも……ゆっくりと鼠から離れる。

 ……やはり、鼠にぴったりとくっつかれていると少し気持ち悪い。長くてくねくねと動いてる尾から昆虫を想像してしまい、思わず身震いする。

「お願いぃ……どっか行って……ほら、早く……」

 すると、鼠はこちらに向き直り、暗く淀んだ目付きでジッと私を見つめてきた。

 ……あれ? この鼠、誰かに似ているような……


 鼠は背を向けて走る……が、少し進むと、再び振り返って私を見つめた。

「……もしかして、ついて来いって事?」

 何故だかわからないが、そう感じた私は……恐る恐る、鼠が走った方向に足を進める。鼠は私がついて来ているのを確認すると、また少し走っては、止まって、振り返り……と、私が来るのをじっと待っているように思えた。

 ――間違いない。ただの鼠ではない。

 私が走って追いかけると、鼠は振り返る事なく、一直線に走り続けた。

 この鼠はどこに行くのだろう……? 

 これではまるで、鼠という獲物を捕らえる為に必死に走る猫にでもなったような気分だ。

 鼠と私は、追いかけっこをしながら、深い森の中を駆け抜けていく。

 走って、走って、走って……

 その先に何があるのかは私にはわからないが、きっと……何かが変わる。

 そんな事を考えながら、私は懸命に走り続けたのだった。


 かなりの距離を走った。鼠はあんなに小さな体で、この距離をずっと走り続けて……疲れたりはしないのだろうか?

 こちらはそろそろ限界だ。脚は疲れていう事をきいてはくれないし、動悸は激しく、喉はヒューヒューと不快な呼吸音を鳴らした。

「ちょっと待って……もう限界……」

 そう言って私は膝に手を置き、呼吸を整える。

 鼠は止まり、じっと私を見つめるが……再びぷいっと顔を逸らすと、目の前にある空洞の中に素早く入っていった。

 ……洞穴だ。

 私は膝に置いた両手にグッと力を込め、ピンッと立ち上がった。

「こんな所に……この先には一体、何があるのかしら……?」

 けど、きっと何らかの【情報】がある筈だ……私はそう確信していた。

 私の予想が正しければ……きっと、あの鼠の正体は――

 私の捜していた人物ではないけれど、私をここまで誘導したぐらいだ。……何か話くらいは聞けるかもしれない。

 私はゆっくりと洞穴に近付き、中に進入する。

 人一人くらいは簡単に通れてしまう大きな穴をひたすら突き進んで行くと……奥には、洞穴の中だというのに……奇妙なまじないのような言葉や模様が描かれた不気味な扉があった。

 ドアの下の方には小さな小窓のようなものがある。……どうやら、さっきの【鼠】はここから出入りしているようだ。

 その禍々しい扉に手を伸ばし、ゆっくりとノブを捻るとギィッという耳障りな音が鳴る。少し開いたドアの隙間から、もわっとした甘い香りが漂い、私の鼻先をくすぐった。

「……よく来たねぇ。さぁ、さっさとお入り」

「やっぱりさっきの鼠は貴女だったのね。――魔女のお婆さん」

「おや、気付いていたのかい? ひっひっひ。そうじゃよ。ちょいと鼠に化けて、島の様子を見に行ってみたらあんたがいたもんでね。ここまで連れてきたというわけさ。この中でなら、元の姿でいてもあやつらに見つかる恐れはないが……外では力を持つ者は全て、その気配によって居場所がバレてしまう。だから外に出るには、動物などに化けていくしかないんじゃよ。他の者達は皆、あの娘に島から追い出されてしもうたからのう。事前に分かっていれば、奴らにも簡単に防げただろうに」

 ――やはり、彼の言っていた通りだ。

 今、この島に滞在する事を許されているのは双子の兎と、ティターニアに招かれた私達だけ。

【この中でなら】……それは多分、あの扉に描かれていたまじないのようなもののお陰だろう。アレには封印や結界のような効果でもあるのだろうか? 

 とにかく、老婆がこの島に残っている事をティターニアは知らない。……これはチャンスだ。

 魔女の事は正直信用ならないけど、あの数々の魔法のドリンクを作ってきた人物なのだ。能力的には申し分ない。

「ねぇ、お婆さん! 外に出された仙人達をこの島に呼び戻す方法はないの⁉」

「ひっひ、無理じゃよ。宴なんぞにうつつを抜かしとるから悪いんじゃ。あやつらも油断さえしていなければ、島から弾き出されないように手を打つ事は出来ただろうにねぇ。一度外に出されたら、再び島に入る事は難しいのさ。何故なら……島から出したのがあの娘でも、島に呪いをかけているのは【死の神】じゃからな。その強力な力をもつ死神の前では、仙人や他の神々でも、簡単には手が出せんじゃろう」

「死の神……」

「……儂も会った事はないから詳しくは知らんが、死神にも色んな種類がいてのう。恐らく、ブードゥー系の神と見ておる。あの娘が皆を外に出した時に言っておった言葉が、ブードゥーのものと酷似しとったからのう」

「ブードゥー……?」

 ブードゥーと言われて、最初に頭に思い浮かんだのは【呪い】や【黒魔術】……

 ティターニアが長い間白兎の薬にかけていたのも、黒魔術の書に書かれていた呪いだって言っていたっけ……

 それじゃあ、きっと間違いはない筈だ。でも……

 ――あれ? 

 おかしい。何故かとても違和感を感じる。

 私、何か重要な事を……見落としている? 

「――お婆さん! 何か、他にも気付いた事はない⁉」

 その【答え】を……私は知りたい。

「まぁ、慌てなさんな。ちょっとそこの棚の、一番上の左端に置いとる書物をとってくれんか? ほれ……その紺色のやつじゃ。さっさとせぇ」

「……え? あ、はい!」

 私は、老婆が指差した方向にある年季の入った本棚から一冊の本を手に取り、それを渡した。

「これは……神様が書いた本なの? やけに古い物のようだけど……」

「いいや、これは人間が書いたものさ。非常に興味深いものばかりじゃよ。力を持ってはいても、儂らは世界中に散らばる神々の全てを知っておるわけではないのでな。人間の視点、または想像により生まれた【神】という存在が……今の時代にどのように伝承され、受け継がれてきたのか。当たるも八卦当たらぬも八卦。……しかし、中々馬鹿にも出来ぬぞ? ――人間もな」

 老婆はそう言いながら、近くに置いてあった眼鏡をかけ、ロッキングチェアーに腰を下ろすと、パラパラとページを捲り始めた。

「――この書物によると、ブードゥーの死神は死とセックスのロアとされており、その風貌は、古く擦り切れ、破れた黒い山高帽を被り、燕尾服を着た【男】の姿をしておるとの事じゃが……何か心当たりはあるかのう?」

「……ううん。そんな人、あの子の傍にはいなかった」

「そうかい。伝承では……死者は皆【ギーネ】と呼ばれる神々の住処に向かうらしいのじゃが、その途中にある【永遠の交差点】と呼ばれる場所に、そやつは立っているらしい。生きてきた全ての人間を知っている為、非常に賢明。その一方で酷く下品な態度や言葉遣いをし、非常に陽気で葉巻と酒が大好物である。――と書かれてはいるが、恐らくアテにはなるまい。まぁ、信じるのも信じないのもあんたの自由さ」


 葉巻と……酒? 

 下品な態度や言葉遣い……? 


 それには心当たりがある。……けど、その姿が【全く】当てはまらない。

 やはり人が書いたものには、多少の誤りがあってもおかしくないという事なのだろうか? 

 百パーセント、真実のみが書かれていると断言する事は……書いた本人以外、誰にも出来ない。

 それに、もしこの情報が概ね正しいものだとしたら、【順序】がおかしすぎるのだ。

 ――そうか。さっき感じた矛盾はこれだ。

 最初から、全て間違っていたのかもしれない。双子達は、きっと思い違いをしている。

 この物語には、誰も知らない……隠されたエピソードが存在しているのだ。

 自分のみの視点からでは、決して発見する事の出来ない……他の者からの視点。

 だからと言って、それで何かが変わるわけではないけれど……この【事実】には、何か重要な事が隠されている筈なのだ。


 最初に始めたのは、――誰だ?


「お婆さん、その死神の名前って……わかる?」

「名前かい? 確か……名前は――」


 ***


「――ほう、そんな事があったんかい」

 私は魔女に、私の知っている事の全てを話す事にした。

 勿論、信用などはしていない。けれど、起きた出来事を話さない事には何も進まないし……今の私には、これ以上打つ手がない。――何とか魔女に協力してもらわないと。

「……どうじゃ? また、魔法の薬でも飲んでみるかい?」

 黙り込んでいた私を横目に、老婆は椅子を揺らしながら、『ひっひ』といやらしく笑った。

「……飲むわけないでしょ。あんな目に合うのは二度とごめんだわ」

「おや、それは残念じゃ。またいいデータが取れると踏んでおったのになぁ」

「お婆さん……ちっとも懲りていないのね」

 私は深い溜息を吐きながらも、話を続けた。

「とにかく、私は夜宴の島を元の姿に戻したいの! ねぇ、お婆さん……これからどうすればいいと思う? 私には、頼りになるのは貴女しかいないの。クロちゃんも、今は島にいないみたいだし……」

「……ふん。そんな事、儂は知らん。お主の好きにすりゃあええじゃろうが。――と言いたい所じゃが、儂はその人形に興味がある。……本物か? はたまた単なる依り代か? ……欲しい。喉から手が出るくらい欲しいぞ!」

「! じゃあ、お婆さん!」

「仕方があるまい……協力はしてやろう。しかし勘違いをするな? 儂はお主の仲間になるわけではない。直接動く事はないし、何もしたりせん。死神なんぞに目を付けられ、儂の得になる事は何一つとしてないからのう。迂闊に近付き、命を吸いとられてしもうては元も子もない。儂はあくまでお主のサポートしかせんぞ? それでも、文句はないな?」

「それでもいい! ……大丈夫、私が動くから!」

「いいじゃろう。上手くいく可能性など万に一つもないと思うが、もしも奴等を上手く捕らえる事が出来たその時は、人形は儂の物じゃ。……ええのう?」

「私は……夜宴の島が元に戻ればそれでいい」

「よし、交渉成立じゃ」

 老婆はロッキングチェアーから立ち上がると、古びた机の上に、何も書かれていない黄ばんだ大きな紙をドサッと広げた。

「さぁて、どうする? 何か策はあるんかい?」

「策は……まだないけど、取り敢えず会いたい人がいるの。けど、この島に皆を呼び戻す事は出来ないって……さっきお婆さん言ってたよね? なら、どうすれば……」

「では、お主の方から出向けばよい」

「えっ……? そんな事が出来るの⁉」

「出来るさ。恐らく……【普通に出る事】は出来ないだろうけどねぇ。まぁ、黒兎やお前さんはこの島での滞在を許可されておる。一度外に出たとしても、きっとこの地に戻ってこられるじゃろう。――ただし、それが【ずっと】とは、限らんがのう」

「普通に出る事は出来ないって……それはどうして?」

「……馬鹿だねぇ。あの赤兎が、お主はともかく黒兎をそう簡単に逃がすと思うのかい? 他の者達はこの島には入れぬ。それならば逆も然り……黒兎やお主は、この島から【出れぬ】と考えるのが普通ではないか? しかし、その黒兎は今島にはいない。きっと何らかの方法を得て、外に出たのじゃろう。……血塗られた小娘め、それは大層慌てた事じゃろうな。ひっひっひ!」

 老婆はケラケラと笑いながら、壁の側まで歩き壺の中に手を突っ込んだ。

 じゃらじゃらと金属同士がぶつかり合う音と共に、チェーンに繋がった、青のような……紫のような……どちらとも取れるくらい際どい色をした円球の物が取り出された。

 その中には、薄っすらと砂時計のようなものが見える。

「それは……何?」

「……これは【{Hourglass of moments}(ひとときの砂時計)】と呼ばれる代物じゃ。この砂時計を逆さに向けた瞬間、お前は望む場所に行けるだろう。しかし、その名の通り【ひととき】の間だけじゃ。肉体だけはこちらに残り、魂だけがその場に向かう。肉体を置いていくわけだから、島にかけられとる呪いの対象にはならない筈じゃ。――だが、この砂時計が全て下に流れ落ちてしまった瞬間、強制的にこの場まで戻されてしまうぞ。急がねばならん」

「ひとときってどのくらい……?」

「昔の時間の単位で言えば、今の……約二時間と言ったところか」

「そんなにあるの⁉ 充分だわ! あ……! でも……」

「? ……何じゃ?」

「それをつけたら、身体に何かの変化があるとか……? たとえば、また化け物になったり……そ、それに、二時間も身体が無防備なままだと、その……人体実験なんてしたりしないでしょうね?」

 疑いの眼差しを向ける私に老婆は顔を赤くし、近くに置いてあった杖を手に取ると、カンカンと上から下へ、繰り返し地面を強く叩いた。

「阿保か、お主は! 全く……失敬な奴じゃのう。お前はその砂時計を口から飲むのか? 流し込むのか⁉ 変化などあるわけがなかろう!」

「つけてるだけで危険な場合もあるでしょ⁉ ほら、電磁波とか! 放射線とか!」

「はっ! 馬鹿馬鹿しい! 心配せんでもそれを首にかけてある間は、お主の肉体は何者からの干渉を受けない。近付く事すら出来ぬわ! 今風に言えばバリアってやつじゃ! バリア!」

「バリアねぇ。……本当かしら」

 魔女に何度も騙された立場からすると、簡単に信用出来なくて当然なのだが……老婆は疑われている事に大層ご立腹な様子で、『ふんっ!』とそっぽを向きながら、嗄れた声でこう言った。

「嫌ならせんでもええぞ。儂は別にどちらでも構わんからのう」

「……やるわよ。それ以外、他に方法はないんだから」

「じゃあ、グダグダと文句を抜かすでないわ! このたわけが!」

 老婆はブツブツと小言を言いながら、私にその砂時計を押し付けてきた。

「……さっさと付けて、はよう横になれ」

 私は言われるがまま、渡された首飾りを頭から被り、老婆が指を指した場所に腰を下ろした。

 金色の糸を使い、美しい刺繍が施されている真っ赤な布が、祭壇上から左右に垂れている。

「この上に、寝るの……?」

「そうじゃ。さっさとせぇ」

 これじゃあまるで、生贄の儀式のようだ。私は思わず、この上で胸にナイフを突き立てられている自分の姿を連想してしまう。

 ……何だか怖いなぁ。けど……

 私はゴクリと唾を飲み込むと、祭壇の上でゆっくりと横になった。

「言っておくが、その砂時計は一度しか使えん。戻ってきたと同時に、粉々になって砕け散ってしまうからのう。……さぁて、お主が会いたい相手は誰ぞや?」

「私が会いたい人物は……狸の、お爺さん」

「……ほう、狸じゃな。ならば奴の事を考え、目を閉じ、強く念じるがよい」

「あ……けど私、狸のお爺さんの顔とか知らないんだけど……大丈夫かな?」

「案ずるな。あの狸の面は、この世界でたった一つしか存在しない。だから何も気にせず、しっかりとあの面の事だけを頭に思い浮かべておればよい。儂がお前さんの代わりに、その砂時計を逆に立ててやろう」

 私はこくりと頷くと、覚悟を決めて目を閉じた。

「……決して他の者の事を考えるではないぞ? 同時に何人もの事を思い浮かべてしもうたら、行き場に迷うたお主の魂はどこにも行けず……ただ、その辺りで時間が過ぎるまで、馬鹿のようにうろちょろしているだけになるじゃろう。……所謂、時間の無駄じゃ。何度も言うが、これはたった一度しか使えぬ。万が一失敗したら、また別の策を立てるしかないじゃろうな」

 これはかなりのプレッシャーだ。『考えるな』と言われた途端に、色んな人の姿が脳裏に浮かび上がる。


 仙人……

 クロちゃん……

 シロくん……

 ――そして、ソウくん。


 私は寝転んだまま顔を左右にブンブンと振ると、ただひたすら、狸のお爺さんの姿を思い浮かべていた。



***

 

「……あ、あれ?」

 気付けば私は……美しい山道の中に、ぽつんと立ち尽くしていた。

 ……ここは、どこだろう? この場所のどこかに、狸のお爺さんがいるのだろうか?

 私は、周囲を満遍なく見渡してみた。……つい先程、夜が明けたばかりなのであろう。そこにはひんやりとした空気が漂っていて……木々の風にしなう音が、静けさの中にこだまする。

「……何だか、落ち着くなぁ」

 空気は澄み切っていて、とても綺麗だし、鳥のさえずりが妙に心地良く感じる。気持ちの良い爽やかな微風は、木々だけではなく、私の髪までも優しく揺らしていった。

 朝の光が葉の色を鮮やかに変えていく。……けれど、目の前に続く山道はほんのり暗い。

 その静かで美しい神秘的な古道を、私は一人、ゆっくりと歩き始めた。勿論、行き先などわからない。

 けれど、私の足が……まるでその場所に案内するかのように意思を持ち、歩を進める。

 胸に付けていた筈の首飾りは見当たらない。きっと、【本体】の方にあるのだろう。

 魔女が何もしてないといいんだけど……

「あ……」

  大きな切り株の上で休憩していたであろう老人が、突然驚いたような声で私に問いかけてきた。

「娘さん、あんた……どうやってここまで?」

 目尻は優しそうに垂れ下がっていて、人柄の良さそうな顔をしている。つぶらで愛らしい目をした老人。

 ――ああ、狸のお爺さんだ。

 狸の面をつけていなくても、その優しい話し方や声で、はっきりとわかる。

「お爺さん、私……話を聞きたくて」

「……あぁ、聞きたい話っちゅーのは【アレ】だねぇ。よぉわかっとるよ。しかし、ここではなんじゃ……ちょっと儂についてきんしゃい」

『よっこらしょ』と腰を上げ、老人は手招きをする。私はそれに続いた。


 私達は、無言で神聖な古道を歩く。

 腰が少し曲がり、私より少しだけ背の低い老人の背中は、何だかすごく寂しそうで……とても小さく見えた。

 穏やかな向かい風を一身を受け、つい足取りも軽くなる。狸の老人の肩に小鳥が止まった。老人が気付いているのか、気付いていないのかはわからないが、歩くスピードがほんの少しだけ遅くなった。暫く小鳥が老人の肩の上で羽を休めていると、同種の小鳥がもう一羽、肩の上の小鳥に近付いてきた。……小鳥達も会話などをするのだろうか? チチチ、と可愛らしい声で囁き合うと、二匹の青い小鳥は仲良く飛び立っていった。

「ここじゃよ」

 私は、飛んで行ってしまった小鳥に夢中になっていて……いつの間にか目的地に辿り着いていた事にすら、気付いていなかった。

 老人が目配せしたその先には、かまくらのような形をした、石で出来た白い建物がある。その中央にはしっかりとした木の扉があり、建物自体は小さく見えるが、中は意外と広そうに思えた。

「狭いけんのう。……さぁ、入りんしゃい」

 狸がゆっくりとノブを回し、扉を開ける。キィィと言う音が、妙に懐かしさを誘った。

 すると、その心地良く、優しい音をかき消すかのように、中から陽気な声が聞こえてきた。

「おぉ! 狸、勝手に邪魔しておるぞ」

 右手には、ラベルに大きく文字が書かれている縦長の瓶。そして左手には、透明な液体がなみなみと注がれたおちょこ。どう見ても、中身は酒だろう。

 顔を真っ赤にした見覚えのある老人は、『おっとっと〜』とおちょこを揺らし、口元に寄せると、グビッと喉を鳴らした。

「あぁ! わ、儂の秘伝の酒がぁ! 爺さん! あんた、何してくれとるんね⁉」

「机の上に置きっぱなしにしとるんが悪いんじゃろうが? 全く、ケチケチするでない! 酒は皆で楽しむもんじゃぞ。……ういっく」

 あからさまに落胆の表情を浮かべる狸の老人に、少し同情をしてしまう。きっと、外から戻ってきたら呑もうと楽しみにしていたに違いない。何て不憫な……

 私が再び【仙人】の方に視線を向けると、偶然にも同じタイミングで、ばっちりと目が合ってしまった。

 仙人は、優しく私に話しかけた。

「娘さんも、久し振りじゃなぁ。元気にやっておったか?」

「あ、あの……! 兎狩りの時は大変お世話になりました! お礼を言おうと思ってたんですけど中々会えずに、こんなに遅くなってしまって……あ、狸のお爺さんも……! 本当にありがとうございました!」

 仙人が、『いいんじゃよ、いいんじゃよ』と言っている傍らで、狸の老人は項垂れながら右手をひょいっとあげた。

「ところで……仙人はどうしてここに?」

「狸の古道に、儂の妖力と魔女の妖力を感じてのう。それで、すぐに来てみたというわけじゃ」

 仙人は『ほれっ』と、私の頭に被さっているおかめ面を指差した。

 成る程。このお面って、結構便利なのね。

「夜宴の島に入れなくなってから、注意深く観察しておったんじゃよ。 ――で、何があったんじゃ? 話してみぃ?」

「実は……」


 私は、双子達の手により、島から元の世界に戻された私達が……再び、どのようにして夜宴の島に戻って来れたのか、そして……星降る丘での姉弟達のやりとりや、船室で聞いた白兎の話。五十嵐想は現在、ティターニア達に囚われてしまっているという事。黒兎が、突然島から消えた事。

 それらを全て、仙人と狸の老人に話した。

「……成る程な。死神の存在と、紅き妖精悪魔……そして、呪われたキラードールの存在は、儂も知っておったが……相当の手練れだと聞いておるわい。あの青年も双子らも、このまま無事でおれる保障はどこにもない。――のう、狸や? 儂はお主が、以前から双子らと交流がある事は知っておったが……奴らに【姉】がおったという事は知らんかった。何故、今まで言わなんだ? 何か、深い事情でもあったんかのう?」

 仙人の問いに……俯き、静かに話を聞いていた狸はゆっくりと顔を上げる。……しかし、膝に置かれていた握り拳は、せわしなく小刻みに震えていた。

 怒りを堪えているのか? それとも、悲しみを堪えているのか? 私には狸の心情はわからない。だからこそ……知っている事は全て、隠さずに話してもらいたいのだ。

 そして、魔女から話を聞いた事で、私が行き着いた【一つの可能性】が間違いではないという確信を手に入れたい。

 やがて、狸は口を開いた。

「赤兎の事は……勿論、よう知っちょるよ。あの三人は、ほんに儂の事を好いてくれとった。儂も、あん子らを孫のように思っとったよ。しかしなぁ、儂は【約束】したんじゃ。その誓いは、今でも儂の中に存在している。だから儂は、今まで誰にも言わんかった。誰にも……な」

「約束とは……一体、誰と交わしたんじゃ?」

 狸は沈黙する。苦しんでいるのだろうか? 口を横一文字にしっかりと閉じ、目を瞑る狸の姿から……何があっても【約束】を守ろうとする、その誠意がうかがい知れた。

「狸、お主は全てを……真実を知っておるのじゃな?」

 狸は……もう隠しておく事は出来ないと悟ったのだろう。覚悟を決めたような表情を見せた。

「あぁ、儂は真実を知っとるよ。とても可哀想な話じゃ」

 狸はゆっくり椅子から立ち上がると、視線を窓の外に向けた。

「……誤解をしてるんよ、皆。誤解なんよ。全てを知っておるからこそ、あん子の気持ちを考えたら……胸が痛うなって仕方ないわ」

「あの子って……」

「……赤兎じゃよ。とは言っても、もう儂の知っとる赤兎はこの世にはいない。あん子は……ほんに優しい子じゃった。否、優し過ぎたんじゃな。それ故、生き方を間違った。まだ幼い双子を守る為、いつも必死じゃった。身体の弱い白兎を助けようと、儂を訪ねてこの古道までやってきたんもあん子やったんよ。赤兎は……なんも悪くないんじゃ」

「赤兎は悪くない……? お爺さん、それってどういう事……?」

「……いや、【以前の赤兎は悪くない】と言うのが正解じゃろうな。今の赤兎は……もう戻れないところまで来てしもうた。裁かれにゃならん。今のあん娘は、悪魔の申し子じゃ。助けてやりたいが、儂にはもう……どうする事も出来ん」

 狸は大きく溜息を吐くと、こちらに振り返った。その顔には疲れが見て取れる。優しい印象を与えていた穏やかな表情には、いつしか深い縦皺が刻まれていた。

「あん娘は、大好きな母親の言葉を忠実に守ろうとした。その結果がこれじゃ。ある意味、母親から……頼みという名の【呪い】をかけられてしもうたのかもしれん。

まだ幼い赤兎に、重たすぎる荷物を背負わせ、無理をさせるなど、あん娘の自我が崩壊していくのも目に見えておっただろうに。何と愚かな事を……」

「母親……? あの子達に親がいたの⁉ 黒兎や白兎は記憶にないみたいだったけど……」

「勿論じゃ。父親の方は儂と昔からの馴染みでなぁ。ほんに無粋で厳つい男じゃったわ。何かあると、とにかくすぐに手が出よる。兎なんて名称を持っておっても、実物は百獣の王のように危険で獰猛。……けど、兎神は不器用なだけで、ほんに優しいええ奴じゃった。しかしな、奴は殺されたんじゃよ。……それも非道で醜悪な人間達の手によってな」

 狸から発せられた言葉に、私は思わず手を口にあてがう。


 ――兎達の父親は殺された。それも、【人間】の手によって。


 まさか、そんな事って……

「その話は儂も聞いた事があるぞ。確か、兎神は人間の娘を庇い、命を落としたと……」

「そうじゃ。それが……その人間こそが、あん娘らの母親っちゅうわけじゃよ。まぁ、その母親も……身体を悪うして死んでしもうたがな」

「母親が人間? それじゃあ、あの子達は……」

「……神と人間の間に生まれし者。故に、神通力は非常に弱く、白兎に至っては……身体が神の血にうまく適合せず、拒絶反応を起こし、器となる資格さえ持ち合わせていなかった」

 狸の説明に、私は言葉を失った。まさか、あの子達に人間の血が流れているだなんて……思いもしなかったから。

 この事を知っているのは、狸に全ての事情を話した赤兎だけで……双子達は何も知らない。

 父親の死、母親の正体、これらの事実を……まだ幼かった少女はずっと一人で背負い込み、隠し続けていたというのか……? 

 それが母親の言いつけだったとしたら……それは正に【呪い】だ。


「うぬぅ……まさか奴らに人の血がのう。この儂が気付かぬとは……」

「爺さん、気にする事はない。双子達は夜宴の島を継承した時に、強い力を授かり……限りなく神に近い存在になれたようじゃったからなぁ。双子達は……な」

 ――そうだ。夜宴の島を継承したのは、黒兎と白兎だけ。赤兎は選ばれなかったのだ。

 そして、その夜に争いが起き……炎に包まれた赤兎を【ゲーデ】が連れて逃げた。

 その後の事は……誰も知らない。

「今から全てを話すが……儂が赤兎から聞いた言葉のまま、話をさせてもらう事にしよう。……彼女の名誉の為にも」

 そう言うと狸の老人は、赤兎の言葉を思い返しながら……ゆっくりと、言葉を紡ぎ始めた。

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