過去に消えゆく

三角海域

過去に消えゆく

 今日もこの街には雨が降っている。

 強くない、さらさらとした霧のような雨。そういう意味では、雨が降るというより、雨が覆うと表現したほうがいいのかもしれない。

 ごちゃごちゃとした街並みと、霧雨のスクリーンに反射するネオンの光。そこからさらに視線を上に向けると、空を行きかう飛行船が見える。

 高性能コンピュータで管理されたその飛行船は、巨大な広告だ。短い感覚でひっきりなしに企業のCМを垂れ流す。

 それと同時に、この飛行船は環境管理システムでもある。

 前時代に汚染されたこの世界を再生するために導入された。

 そう。この雨もまた、飛行船が発生させた疑似的な雨だ。

 かつては天からの恵みであった雨は、今は機械に管理され、効率的に地上に降り注ぐ。

 環境は作る物でも、守るものでもなくなった。

 環境とは、機械が管理するものになったのだ。

 この世界は、すべてが作られたもので存在している。それはクリエイティブな作るではなく、もっと冷たく、徹底的に効率化された「作る」だ。

 それが、この世界である。

 彼は、そんな雨のなかを傘もささずに歩いている。

 少し長い髪。青みがかったスーツ。うっすらと髭の生えた顔。

 雨が額を濡らし、明滅するネオンの光がその顔に光のヴェールを垂らす。

 人気はない。この時間に出歩くことは、本来禁止されているからだ。

 彼は「観測者」であるため、この時間に出歩くことを特別に許可されている。

 彼の仕事は、時間の観測だ。

 時間を越えることが技術的に可能になったこの世界ではあるが、時間渡航は特例を除き許可されていない。

 未来から過去へアプローチすれば、それがたとえ些細な変化であれ、時間という大きな目で見れば甚大な影響を与える可能性がでてくる。それを危惧してのことだった。

 彼ら観測者は、そうした違法な時間渡航を取り締まるのが仕事だ。

 この時代では、かつて人々が用いた「今より遠い先の時間」を指す未来という概念は存在しない。

 明日でも百年後でも、それはコンピュータが示した単なる予定であり、百年とは、確定した明日を単に百重ねただけにすぎないからだ。

 そんな現在を、よく思わない者がいる。

 時間犯罪を企てる人間は、そういう輩だ。

 観測者は、コンピュータの指示で、そんな人間を追い、捕らえ、時には処理する。

 雨の中を行く彼は、まさにその仕事の最中であった。

 大きな時空の歪が観測されたのだ。

 雨の中を歩き続け、彼は目的地にたどり着いた。

 なんてことのない平凡なビル。赤茶の外壁をした、古い建築物。

 彼はそのビルに足を踏み入れる。

 平凡な外観と違い、ビルの内部は美しかった。

 磨き上げられたタイル。滑らかで、透き通るような白色をした柱と、鈍色の鉄で出来た装飾入りの手すり。その階段は、本物の大理石を用いられている。

 吹き抜けになっており、上を見上げると、天蓋のアトリウムから飛行船の光が降り注ぐ。

 まるで、過去の世界へ迷い込んだかのような錯覚をおぼえる。

 剥き出しの古いエレベーターに乗り込み、彼は二階へ上る。

 長い廊下を歩くと、静かで暗いビル内に靴がこつこつとタイルを叩く音が反響した。

 彼は廊下の最も奥にある壁の前に立つ。

 壁の端から端へ、丁寧に手を当てて、叩き、撫でる。

 そうして、彼は扉の仕掛けを見つける。

 壁が展開し、そのギミックのわりに簡素な扉に手をかけ、ひらいた。



「早かったな」

 扉を抜けると、そこは壁一面がモニターと端末に囲まれた大きな部屋だった。

「気付かれるとは思ったが、まさかここまで早いとはな」

 その中心に、椅子に腰掛けた老人がいた。白いスーツをしっかりと着こなし、穏やかな表情で彼に言う。

「なぜだ」

 彼は無表情のまま、老人に問う。

「いきなり問われても困るよ」

「あなたは違法な時間渡航仲介人として世界トップクラスの人間だ。存在だけが噂として飛び交ってた。伝説の中の人間。ヒッコリー・ティッコリー・ドック」

「大袈裟だよ。君たちがマザーグースから引用してそんな大仰な名前を付けるから、勝手にすごい人間だと思いこまれてしまう。人々は君たちが定義したヒッコリー・ティッコリー・ドックという疑似的な私を見ているにすぎない」

「それでも、あなたの技術は本物だ」

「引用がうまいだけだよ。素晴らしい詩人がそうであるようにね。私もまた先人たちが積み上げてきた技術を引用しているにすぎない」

 彼は壁一面のモニターを見つめる。無数の数式のようなものが、画面上を走っていた。

「なぜ足が付くようなことをしたんだ」

「必要だと思ったからさ」

「なぜ?」

「さっきから「なぜ」ばかりだな」

 老人は面白そうに微笑を浮かべる。

「そうだな。私は可能性が好きなんだ」

 彼は意味を飲み込めず、眉間に皺を寄せる。

「難しく考えなくてもいい。「かもしれない」という考えが好きだと言い換えてもいい。この世界は、曖昧さがなくなってしまった。ありとあらゆることが情報として飛び交ってる。ニュース感覚で百年後の天気を知ることができるし、健康診断で正確な寿命もわかる。それはとても効率的だが、曖昧さのない世界は面白みがないと私は思うのだよ」

 老人はじっと彼を見つめる。その目は深く、だが澄んだ奥ゆきを感じられた。

「かつて、ある哲学者は現存在という考え方で人間の存在を定義した。自分たちがここでこうして生きていると了解している存在だという風に考えてくれればいい。私たちは物や人を通して自分の存在を認識する。君のように犯罪者を追う人間も、私のようにこの狭い部屋に閉じこもって生きている人間もそれは変わらない。直接的に。もしくは間接的に。他者という存在とかかわりあって生きている。私たちは世界をシェアして生きているのさ。それが共同世界であり、共同現存在としての我々だ」

「俺には理解できそうにない」

「する必要はない。これはあくまでも人間と社会という形式の言語化だ。世界との向き合いかたそのものを指すわけじゃない。君は人間である以前に個人だろう? それに、私だってこの哲学を理解しているとは言い難い。誤っている部分もあるだろう。これだけ発達した巨大科学文明社会でも、一人の人間の思考を完全に解明できない。私はそこのロマンにこそ惹かれてる」

「ロマン」

「ああ。君にもあるかい?」

「考えたことがない」

 老人は「そうか」と小さく言った。

「もう少しだけ付き合ってもらえるかい?」

 彼は無言だ。だが、拒否はしていない。何もしようとしないことが、その証明だった。

「我々は共同体の中で、その世間が示す正しさに従って生きている。従うというのは、自己選択した「未来」とは呼べないと思わないか?」

 老人は未来という言葉を強調して言った。

「それが人の在り方。哲学者がそう論じた時から現在に至るまで、それはこの世界の真理であり続けている。むしろ、この世界はそれを是としているだろう? すべてが管理され、保証され、従う。それにより与えられる絶対的な安心こそが素晴らしき世界なのだと」

 老人が大きく息を吸い、吐き出す。

「だが、我々の行き着く先が死であることは変わらない。それだけは、まさしく絶対だ。いずれ死ぬ。けれど先がまだある。いずれ死ぬ。けれどそれは後ろ向きだから考えない。それもいい。だが、生きることは死へ向かうことだ。死を意識しなくても、必ずそれはやってくる。後ろ向きではないんだよ。死を忘れるなかれというのは、だから生きよということを訴えている。いずれ死ぬ。だからこそ、生きる理由を探すんだ。なんでもいいからね」

 老人は目を細める。

「私はそれを、一人の少女のおかげで思い出すことができたんだ」

「それが、あんたが一般人の少女を過去に送った理由か」

 老人は頷く。

「彼女はかつて監視機構の実験の被験者となり、一度時間を越えた。とはいえ、かれらのタイムトラベル理論は、超速度変換によって過去に無理やり存在を押し込むことだ。だから、彼らはタイムトラベルを飛ぶではなく置くと表現する。割り込みには限界がある。彼女はその期間を終え、こちらに帰還した。そうして、決めたのさ。自分は過去で生きるとね。彼女を過去と結びつけたのは、学習プログラムの一環として組まれた、過去との通信対話がきっかけだった。彼女はそれを通じ出会った人々に深い友愛を抱くにいたった。だが、彼女の痕跡は彼女がその存在を過去の中から消すと同時に消滅する。彼女も最初はそれを受け入れていた。しかし、その後、彼女は自力で私の事を調べあげ、ここへやってきた」

「それが原因で足が付いた」

「その通り」

「その段階で姿をくらませることができたはずだ」

「それもその通り。だが、しなかった。不思議かい?」

「ああ」

「彼女は選択していたから」

「どういうことだ」

「彼女はこの世界において、死を了解している。生の先に死がある。だから生を享受することに喜びがあることを理解している。世間の中の自分ではない。世間から切り離された確固たる自分という現存在。シニカルと言う人間もいるかもしれない。だが、むしろピュアだと私は思う。彼女は過去の人々との繋がりを選んだ。百年後まで明瞭なこの世界ではなく、自分が正しいと信じた可能性を生きる道を選んだ。私は、そんな彼女に、なにかをしてやりたくなったんだ。そして、私にできることは、ひとつしかない。だろう?」

 老人はそこで言葉を切る。黙って彼を見つめていた。

 彼は何かを悟ったように、懐のホルスターから銃を抜いた。

「ハクスリー社製ブラスター。監視者のための銃か。シンプルだが美しいデザインだ」

「連行する。抵抗は無意味だ」

「わかってる。それに、君もわかってくれているはずだ。優秀な監視者なのだから」

 彼は答えない。

「私はどのみち死刑だ。あれこれと聞きだされてその後に殺される。それなら、私は今ここで死にたい」

「あなたほどの技術があるなら、引き抜きがあるかもしれない」

「それも死と変わらない。自分の人生はこのためにあったんだという出会いがあった。それが、私にこう思わせた。私は己の命を生き切ったんだと。後悔はない。頼む」

 老人は目を伏せた。彼は銃口を老人に向ける。

「ありがとう」

 彼は引き金を引いた。

 発射された螺旋弾頭が老人の心臓を貫く。傷口が大きくならないよう威力を調整した。

 小さな赤いシミが、白いスーツに滲んでいる。

 彼は部屋を後にしようとするが、立ち止まり、振り返る。老人は、とてもおだやかな顔で息絶えていた。

 彼はしばらく老人の亡骸を見つめた後、壁一面のモニターと端末へ向け発砲した。

 螺旋弾頭は銃の調整機能により、その威力を変化させる。彼は最高出力で弾丸を発射し、すべての弾丸を撃ち尽くした。

 崩れはてたモニターや端末を背に、彼は歩き出す。

 貴重な機材ばかりだろう。回収するのが正しいはずだ。

 だが、壊すべきだと彼は思った。

 選択。自分で選ぶこと。

 老人の言葉を頭に思い浮かべながら、彼はビルを後にする。

 街には、変わらず人工の雨が降っていた。

 彼はゆっくりと歩き出し、その姿はすぐに霧雨の中で見えなくなった。

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