エピローグ

「結菜ちゃんがやられた……」


 医務室のドアを開けるなりそう、悲壮感たっぷりに言い放った今園さんは患者用のベッドに腰を下ろすと頭を抱えた。

 デスクに座って仕事を片付けていた俺は突然やってきた今園さんにもその発言、行動にも驚いてしばし固まった。


「やられたとは?」

「綾崎さんに結菜ちゃんが骨抜きにされた!」


 その後にスラングでも続きそうな口調で吐き捨てて今園さんはベッドを叩く。いつも冷静な今園さんらしからぬ反応に俺は驚いて、続いて言葉の内容を飲み込んでさらに驚いた。


「坂本さんが!? だ、だが、綾崎さんの好みって嘘つきですよね!?」


 正確に説明するとなると難しいのだが、簡単にまとめるならば嘘つき。内に秘めた本音と口に出す建前が乖離していればいるほど、その本音を引きずり出すことに興奮を覚えるという少々……いや、かなり変わった性質を持っているのが綾崎さんだ。

 しかしその趣向は恋心とは結びついていないらしく翅の落ちる気配はない。性欲と恋は別物だと体現するような存在だ。


 彼は自分の好みの人間を見つける感覚が優れていて、同性愛者であることを隠していた奥山さんや要観察患者である天野さん、今園さんにすら本音を隠し続けている新田さんなど、本音を隠す人間を的確に見つけている。

 原理に関しては全くわからない。本人もなんとなくと言っているらしいが、なんとなくにしては精度が恐ろしく高いことは今までの経験でわかっている。だからこそ俺は眉間にシワを寄せた。


「坂本さんが嘘つきなんて信じられない……」


 いつも明るく気遣いができる女性というのが坂本さんの印象だ。本音を隠して嘘をつく人間にはまるで見えなかった。

 そんな俺を見て今園さんは呆れた顔をした。


「男って……いえ、今の時代この表現は不適切ね。颯介くんは鈍いわね」

「言い直された方がショックなんですけど」

「事実だから謝らないわよ。坂本さん、かなりの猫かぶりなのに、コロッと騙されて」


 猫かぶりという言葉を頭の中で反芻するがいくら考えても坂本さんと結びつかない。そんな俺の様子を見て今園さんは額に手を当てると大きなため息を吐き出した。


「颯介くんといい郁人くんといい、変な女に騙されないようにね」


 変な女と言われても実感がわかずに困っていると今園さんは腕と足を組む。それから医者としての真剣な顔をして俺を睨むように見つめた。


「坂本結菜さんは強い劣等感を隠すために強固な仮面を作り上げている。綾崎くん好みの大嘘つきよ」

「劣等感……」


 これまた坂本さんには結びつかない言葉に俺は馬鹿みたいに聞いた言葉を繰り返した。俺から見た坂本さんは抜群のスタイルと整った容姿を鼻にかけない清楚な雰囲気の女性で異性はもちろん同性の患者にも羨望の視線を向けられていた。彼女のどこに劣等感を抱く要素があるのだろうと俺は首を傾げる。


「コンプレックスを分かりやすく表に出す人間なんていないわ。坂本さんの場合は人に知られなくないという感情が人より強くて、器用に隠せるだけの技量があった。私も最初の頃は騙されていたから、綾崎くんのその手の嗅覚はほんとにすごいわね」

「プロよりも分かるって何者なんだ綾崎さんは……」

「所詮私は他人事だからね」


 頭を抱える俺の耳に今園さんの言葉はやけに寂しげに響いた。

 患者想いの今園さんが他人事なんて突き放した言い方をしたことが気になって顔を見る。今園さんは悲しそうな顔をして膝の上で両手を組んでいた。


「知識としては知っている。症例としては知っている。いろんな人から話を聞いてきた。けれど私は聞いているだけ。体験したことはないの。知識として知っていると体験したことがあるは全く違う。私は話を聞くことは出来ても患者の気持ちを理解することも共感することもできないのよ」


 その言葉には重みがあった。

 俺は蝶乃宮病院で多くの患者を見てきた。翅の平均的な大きさや色、どの程度翅が傷つけば危険なのかも分かっている。患者が生活するうえで気をつけなければいけないこともわかっている。けれど俺は背中に蝶の翅が生えたことはない。翅が傷ついたときの痛みも翅が落ちないまま月日を重ねる不安も、一生ここから出られないのだろうとある種の覚悟を決める心境も、何一つわからない。

 俺は医者であり患者ではない。クピド症候群に一度もかかったことがない、ただ知識だけ豊富な他人。同じ病気と戦う仲間にはなりえない。


「カウンセリングによると綾崎さんは本音を隠す人間、嘘を付く人間に強い興味を抱いている。そういう人間に関しては私よりも詳しいわ。そしてそういった人間の本音を聞き、依存させることに快感を覚える」

「快感……」


 綾崎さんの爽やかな外見を思い出し、それとはまるで結びつかない歪な性癖に表情が強張る。人の性癖は様々。良い、悪いなんて評価できるものではない。そう頭ではわかっているが、理解出来るかと言われれば話は別だ。


「坂本さんと引き離した方がいいんですか?」

「依存状態が健全とはいえないけど、引き離せばいいとも言えない。二人の精神状態は不安定。だからこそ結菜ちゃんは自分を肯定してくれる綾崎さんに依存してしまうし、綾崎さんは依存してくれる結菜ちゃんを見て安心感を覚える」

「……無理やり引き離すのは二人にストレスを与える可能性があると?」

「ストレスですまないかもしれない」


 頭を抑えて今園さんは深く長い息を吐いた。


「人の心に決まった治療法なんてない。ある人には効いたことがある人には効かない。それどころか毒になることだってある」

「慎重な対応が求められるってことですね」

 今園さんは苦々しく頷いた。


「依存なんて、お互いにとって良いこととは思えないんですが……」


 人によりかからなければ生きられないのも、人によりかかられて二人分の重みを背負うのも、どちらもしんどいことではないのだろうか。理解できないと眉を寄せていると今園さんが「健全ね」と呟いた。


「颯介くんは強い子だし、あなたは愛されて育ったから地盤がしっかりしてるのよ」

「地盤?」

「愛されて育たなかった子はね、地盤がガタガタなの。そこに立派な家を建てたって、柱を立てた場所がガタガタなんだもの。ちょっとした衝撃ですぐに壊れちゃうわ」


 立派な家という言葉で完璧な笑顔を浮かべる坂本さんが浮かんだ。猫かぶりという言葉がやっとつながる。たしかにあの笑みは完璧すぎて、気づいてしまえば自然なものとは思えない。


「地盤がガタガタな子はね、安定させるために足りないもの、愛を求めるの。足りなかった分、人よりも貪欲に、人よりもたくさんの。だけど、普通の人間には彼らの求める愛は大きすぎるし重すぎる」

「つまり、誰もが与えられるわけではないと」

「そう。結菜ちゃんが求める愛は普通の人からすれば重たい。けど、綾埼さんは与えられる。だって彼は依存されればされるだけ嬉しくなる性質だから。需要と供給が一致してるのよ」


 その話だけを聞くと良い事に思えるのだが、今園さんの表情は浮かない。


「何が問題なんですか?」

「たった一人の人間に執着する状態が健全といえる?」


 今園さんはそういいながら鋭い視線を俺に向けた。射貫かれるような圧に俺は息を飲み込む。


「今はいいわよ。お互いにバランスがとれている。でもバランスが崩れたら? 綾埼さんは一人に執着する子じゃない。今は結菜ちゃんがお気に入りだとしてもいつまでもお気に入りのままとは限らない。唯一自分の乾きを埋めてくれると思った依存対象が自分から興味を失ったと知った時、あの子がどういう反応をするか私は予想できないわ」


 その問いに俺は答えられなかった。俺は精神科医でもないしカウンセラーでもない。それでも自分にとって唯一だと思っている相手から突き放されたら、強いショックを受けることは想像が出来る。


「だからといって現状は様子を見るしかできない。結菜ちゃんは私が嫌いだから、私が言っても無駄だろうし」

 今園さんはそういってため息をつくと足を組み直した。


「精神科医、カウンセラーなんて大層な名称をつけられたって、出来ることなんてほとんどないのよ。最終的には本人の心持ち次第。人は幸せになる自由もあれば……」

 そこで今園さんは言葉を句切ると、肺に溜まった空気を全て出し切るような重たい言葉を口にした。


「不幸になる自由もある」

「坂本さんが綾埼さんと共にいるのは不幸だと?」

「現状はなんとも言えないけどね、少なくとも幸せになりたいと望まない人間は幸せになれない」


 俺には坂本さんが不幸を願っているとは思えない。坂本さんはモデルとして活躍することを目標としていた。いくら本音を隠していたとしても、努力を重ねてきたことは嘘ではないと思う。

 だが、綾埼さんはどうだろう。綾埼さんは虫籠から出る気がない。出たいとも思っていない。飛び込んでくる獲物を作り上げた巣で待ち構える蜘蛛のように、すっかりこの病院を我がものとしている。そんな綾崎さんが捕まえた獲物がここから出ることを許すだろうか。逃げられないように糸でグルグル巻きにして、最終的にはぱくりと食べてしまう姿を想像し俺は身震いした。


「綾埼さんは翡翠とは違った方向で人をダメにする才能があると思う」

「同感だわ」


 今園さんが苦々しく同意する。頭の痛いことである。

 だが、どんなに悩もうと結局俺に出来る事と言えば、患者の健康を守ることであり、クピド症候群の研究を続けること、患者がよりよい形で退院できるようにと祈ることくらい。

 古くから恋は不治の病と言われている。人によって様々に変化し、一つの形に定まらない恋という病に対して、医者はあまりにも無力だ。

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