5-6 沼の底
私の姉は完璧だった。美しくて優しくて頭もよくて、スポーツだって得意だった。そのうえ社交的だったから、いつだって人の中心にいた。だから両親は姉をとても可愛がって、人見知りで勉強も運動もいまいちだった私には冷たかった。「お姉ちゃんに比べてあなたはダメな子」が両親の口癖で、その言葉を聞くたびに私の体は鎖でがんじがらめにされるように重たくなった。
それでも昔は姉が好きだった。姉は私に優しかった。あからさまな差をつける両親に怒り、私をかばってくれていた。私にとって姉はヒーローだった。姉に庇ってもらえる優越感と、姉に守られてばかりの自分は両親がいうとおりにダメな子なのだという劣等感で心はぐちゃぐちゃだったけれど姉を誇りに思う気持ちの方が強かったのだ。
それが変わったのは中学生の頃。初めて彼氏が出来てからだった。
相手は年上の先輩で、格好いいと評判の人だった。姉に比べて大人しくて地味だった私が何で先輩に好かれたのかは分からなかったけど、その時の私は深く考えなかった。格好いい先輩と付き合い始めたことで自分も姉と同じように特別になれる気がした。
けれどすぐに特別なんかじゃないと思い知らされた。先輩が本当に好きだったのは姉であり、私は姉と親しくなる切っ掛けに利用されただけだった。
学校帰りに家の前で、姉の手を取り、私には見せたことがない真っ赤な顔で姉に好きだと告げる彼氏だと思っていた先輩。その後に続いた「私なんかどうでもいい。あっちが勝手に付き合ってると勘違いしてまとわりついてくるだけだ」という言葉。
その言葉で私の中で何かが壊れた。誰も何も信用できなくなった。私のために怒ってくれる姉ですら憎悪の対象に変わった。私を騙して裏切った先輩が憎いのに、その先輩をふった姉も憎かった。私が欲しいものを手に入れることが出来るのに、あっさりいらないと手放させる姿が妬ましかった。
姉は全部持っている。愛される容姿も人に好かれる性格も両親の愛も。それに比べて私には何もない。いつだって周囲は私を通り越して姉を見ていた。私は姉の影だった。
それから見た目に気を遣うようになり、必死に勉強もした。苦手だった運動だってするようになった。それでも私は姉にかなわない。いくら努力しても、姉に比べるとパッとしないと陰口をたたかれて、そのたびに私の中の憎悪は増していった。
大学生の頃、モデルにスカウトされたのは本当に嬉しかった。これで姉に勝てると思った。いくら姉が美人でも、弁護士という私にはつけない職についたとしても、私がモデルとして有名になれば私の方が知名度はあがる。私は姉の影ではなく、姉こそが私の影になる。これでやっと私は姉の呪縛から解放される。そう私は喜んで努力した。
しかし、現実はどこまでも残酷だった。私が芽が出ずに燻っている間に姉はテレビに一度出ただけで、美人すぎる弁護士としてあっという間に人気者になった。そして私はモデルの坂本結菜ではなく、坂本弁護士の妹さんと呼ばれるようになった。芸能界でも私は姉の影だった。
特別になりたかった。誰かに愛されたかった。姉ではなく私を一番に見て欲しかった。美しい蝶乃宮が嫌い。自信にあふれる今園が嫌い。若さと綺麗な翅を持つ患者が嫌い。
でも一番嫌いなのは妬むことしか出来ない自分だ。
「本当は分かってる……」
話している間に涙がこぼれて私は唇を噛みしめた。血が出たら撮影に影響が出るという妙なプロ意識に笑いそうになる。いくら美容に気をくばったって、体型を維持したって、私にはそれを披露する場所がない。全部無駄な努力なのだ。
「私みたいな人間が好かれるはずない」
好かれるのは姉のような存在だ。中学生のあの日から私の態度が一転しても、姉は変わらず私を気にかけてくれる。美しさは造形だけじゃない。内面から出るものだと私はとっくの昔に気づいていた。ただ認めたくなかったのだ。
美しさが外見に表れるのだとしたら私が美しくなれるはずがない。姉よりも愛されるはずがない。私の心は醜くて、ドロドロで、腐って濁った沼のよう。どれだけ外見を取り繕って猫を被ったって分かる人には分かる。私の醜さに皆気づいている。私は両親が言うとおり、いくら頑張っても姉より出来ないダメな子なのだ。
それでも私は愛されたかった。姉ではなく私を見てほしかった。誰か一人でいいから、こんな醜い私を丸ごと愛して欲しかった。
でもそんなの無理だとわかっている。こんな人間、私は愛せない。自分が愛せないものを他人が愛せるはずもない。
ボロボロと涙がこぼれ落ちる。深夜に自動販売機に寄りかかって、子供の前でみっともなく泣く大人はなんて滑稽だろう。笑いたければ笑うがいい。言いたければ言えばいい。外したくてたまらなかったのに外し方が分からなくなった仮面をもう一度拾ってはめる気にはなれなかった。もう全部投げ捨ててしまいたいのに、必死に拾い集めたものを捨てる勇気も持てなくて、私は周囲を呪うことしか出来なくなっている。
「俺は坂本さんみたいな人間、大好きだけど」
信じられない言葉に私は驚いて顔をあげた。涙でぼやけた視界に綾埼くんの顔がうつりこむ。醜い心を散々さらけ出したのだ。両親のように私を冷たい目で見下ろすと思っていたのに、綾埼くんが私に向ける熱量は少しも変わっていなかった。むしろ、先ほどよりも熱いような気がする。
意味がわからなくて私は綾崎くんを見つめることしか出来なかった。
「言ったでしょ。俺は秘密を抱えた嘘つきが本音をさらけ出す瞬間がたまらなく好きなんだ。坂本さんみたいにドロドロした感情が特に好き。俺だけに本音を語ってくれる姿が好き。俺しかいないって依存する姿が好き」
十代の子供とは思えない、なかなかに歪んだ告白に私は引くのが正解なのだろう。そんなのはおかしいと諭すのが正しい大人の姿だ。そう分かっているのに、私は私を見下ろす綾埼くんから目を離せなかった。
ドロドロに溶けてしまいそうなほどの熱量のこもった瞳が私にそそがれる。その瞳には私しか映っていない。姉の姿はない。私をダメな子だという両親の影が入る隙間もない。心底安心して、どうしようもなく嬉しくなる。私は気づけば綾埼くんの頬に手を伸ばしていた。
距離が近づく。吐息が肌にかかる。いつのまにか私の頬を包みこんでいた綾埼くんの両手が熱をおびていた。これは私の熱なのか、綾埼くんの熱なのかもう分からない。
綾埼くんが受け入れられる理由が分かった。彼を受け入れている人間はみんな私と一緒。抱えきれない感情を吐き出したいのに吐き出せない人。そういう人間は吐き出しても許してくれる人間をずっと探している。こんなに醜くてダメな人間でもいいと言ってくれる人を欲している。
だからこそ、そういう人に出会ってしまったらもうダメなのだ。一度でも満たされる感覚を味わってしまったら知らなかった頃には戻れない。目の前にいる少年が本気で私を案じているわけでも、私を愛してるわけでもなく、ただ己の欲に忠実なだけなのだと分かっていても、そのままの君が好きだと受け入れてくれる人を手放せるわけがない。
これは救いではない。ただ濁った沼の奥底へ、二人一緒に沈んでいくだけ。それでも一人で落ちるよりはマシだと思ってしまう私はもう手遅れだった。
衝動的に重ねた唇は冷たくて、歳のわりに慣れてて腹が立ったけど、私を少しも拒絶しない。それだけのことが泣きたくなるほど嬉しかった。
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