5-5 崩壊の誘惑

「なんのことだか分からないのですが……」

「ってことは俺の勘違いですね。では、こんな酷いことをしたのが誰か探さないと。鈴木くんは友達の多い子だったので、みんな協力してくれると思いますよ」


 私が握りつぶして捨てたメモをわざとらしく見せびらかしながら綾崎くんは笑う。コイツに騙されるの患者やスタッフの気がしれない。どう見ても関わり合いになってはいけない人間だ。

 みんな私のように何らかの弱みを握られているのだろうか。それにしては綾崎くんと関わっている人間は綾崎くんをかばう。弱みを握られているにしても不自然だと違和感を持つが、今の私はそんなことを考えている場合ではない。


 この状況からどうやって逃げよう。いい面しか見せていない患者たちはともかく、今園さんにこのことが知れれば注意されることは間違いない。蝶乃宮まで話がいき、やんわり諭される未来を想像して腸が煮えくり返る。あの女にどうこう言われるのは我慢ならない。


 私は綾崎くんを睨みつけた。作り上げたイメージなんてもうどうでもよい。今園、長谷川、蝶乃宮。みんな私をバカにする。私はこんなに頑張っているのに、私を悪者にする。なら、本当に悪者になってやろう。


 腕を組んだ私は仮面を削ぎ落とし挑発的に笑った。それだけで気分が高揚してくる。海の底、少ない酸素で必死に息をするような生活を送っていた私にとって、胸いっぱいに広がる酸素は心地の良いものだった。


「連絡先を捨てたからって何? そもそもあんなガキ、私が本気で相手にするわけないでしょ。大人は皆分かってるわよ。私が仕事で優しくしてあげたって。わかんないのはあんたたちみたいなお子様だけ」


 口に出したら自信がわいた。私は間違っていない。病院側、保護者が私に期待しているのは出来るだけ早く翅を落とさせること。子供相手に本気になることなんて期待してないどころか、あっさり手のひらを返して犯罪者扱いされる。大人は子供に夢みたいなきれいな恋を求めてる。肉欲の伴ったぐちゃぐちゃした醜く汚いものなんて求めてない。だから私はきれいな夢を見せてあげたのだ。いつか夢だと彼らは気づいて現実に目を向けるようになる。だから私がやったことは一つも間違ってない。


「そもそも、あなたは私にどうこういえる立場? あなたの方がよっぽどじゃない。今まで何人に手出したのよ」


 四年間で私が知ってるだけでも十人。こちら側が把握できなかった相手もいるだろうし、入院前からこういう性質だったのかもしれない。綾崎くんが入院したのは十五の時。早い子は小学生で恋人が出来るのだから、節操なしの綾崎くんなら十分な年齢だ。

 嫌悪を顕に綾崎くんを睨みつける。黙り込んでいるのは図星をさされて言い返せないからか、私の変貌っぷりに戸惑っているからか。どちらにせよ鼻をあかせたようでスッキリする。


「驚いた……」


 綾埼くんが呟いた。見開かれた目は言葉通り驚愕を表している。私はその姿を鼻で笑った。驚いてくれなきゃ困る。こちらがどれだけ神経を尖らせて猫を被っていると思っているのか。こんな姿誰にも見せられないし見せるつもりもなかった。家族だって知らない私の本性。それをこんなところで晒してしまったことに対しての危機感はある。だが、それ以上の開放感を感じた。

 私はずっと内に秘めた本性を表に出したがっていたのだと今気がついた。


「幻滅した? 大人なんてこんなものよ」


 猫を被っているのは私だけじゃない。皆人に好かれたい。自分の醜い部分なんて見せたくない。人によく思われたい。だから自分の理想の姿を作り上げる。皆やっていることだ。それなのに世の中では猫を被るのが悪いことだと言われる。誰だって少なからず他人によく見えるよう自分を取り繕っているというのにだ。

 目の前の少年がどんな反応をするのだろうと私は様子をうかがった。幻滅されようが、罵られようが、鼻で笑ってやる。そういう意気込みで余裕の表情を意識的に作っていたが、その顔はすぐに崩れた。

 綾埼くんが浮かべていたのは怒りでも嫌悪でもなく、うっとりという言葉が似合う心底陶酔した顔だった。


「まさか、こんな理想的な人に出会えるなんて」


 吐息混じりの言葉には確かな熱がはらんでいた。高揚した頬やとろけた瞳に緩んだ口元。全てが私に対する好意を告げていることに混乱した。私は綾埼くんに好かれるような態度を一つもとっていない。性格ブスと吐き捨てられ、性悪女と罵られると覚悟していた。


 意味が分からずに固まる私に綾埼くんは近づいてくる。私は怖くなって後ずさったが、背中には固い感触。自動販売機の明かりが視界の端にうつる。逃げられないと思ったと同時、綾埼くんが距離を詰めてきた。壁ドンならぬ自動販売機ドンというこの場にそぐわない単語が頭に浮かんだのは現実逃避だ。


「俺は、嘘つきが大好きなんです」


 うっとりとした顔で綾埼くんはそういうと私の頬に触れる。長いこと病院内を歩いていたのかその手は冷たい。それとは対称的に私に注がれる彼の瞳はひどく熱い。これほどまでに熱のこもった視線を向けられたのは初めてだった。私を好きだと言った人も、今まで付き合ってきた彼氏たちも、愛してる。好きだという言葉を口にしながら、ここまで苛烈な熱を与えてはくれなかった。先ほどは確かに恐怖を覚えたはずなのに、体の奥が歓声をあげている。この熱が欲しかったのだと、乾ききった私の心が言っている。

 危険だ。逃げなければいけない。この熱に身を委ねてはダメだと頭では分かっているのに、体に力が入らない。綾埼くんの視線で体の芯がグズグズに溶けて崩れてしまったようだ。


「己の本性を隠して生きている人間が、本性をむき出しにする瞬間を見るのが好きなんです」


 そう語る綾埼くんの表情はなにかに恋するものだった。これが恋じゃないならば、誰も恋なんて知らない。そう思えるほど熱く、一途で、とろけていた。それなのに綾埼くんの背に生えた翅はピクリとも動かない。意味が分からなくて私はただ綾埼くんを見上げることしか出来なかった。


「坂本さん、あなたは本音は? 本当はどんな人間なんですか?」


 綾崎くんの吐く息を感じる。それは火傷しそうなほどに熱い。興奮しきった男が目の前にいるというのに私の危機感は全く仕事をしてくれず、逃げるどころか私の口は勝手に動き出す。誰かに操られているみたいに、ずっと口に出さなかった、誰にも言えなかった本音がこぼれ落ちる。


「私、お姉ちゃんが大好きで、大嫌い」


 綾埼くんは私の一言に嬉しそうに微笑んだ。それだけで全て受け止めてくれるのだと分かってしまった。私の醜い心も、隠したい本音も、それでいて誰かに伝えたくて仕方がなかった本性も。全て余すことなく彼なら受け止めてくれるんじゃないかと封をした感情が期待する。


 気づけば私は震える声で話し始めていた。大好きだった姉が大嫌いになったあの日のことを。

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