5-4 蛇の目

 泊まり込みのアルバイト用に用意された社員寮の一室で私はベッドに横になり、ぼんやりと天井を眺めていた。明日のことや美容のことを考えれば眠ったほうがいいのに、どうにも眠気がやってこない。気づけば長谷川くんの言葉が頭に浮かんで苦々しい気持ちになる。


 無理やり寝ようとしても無理だと悟った私は体を起こす。電気を消した部屋は暗いが眠れない間ずっと天井を眺めていたので目は慣れている。

 私が使っている部屋は短期バイト用の狭い部屋なのでビジネスホテルのように素っ気ない。長期や社員が使っている部屋はもっと広く、キッチンもしっかりついているらしい。ここでのバイトも長くなってきたので長期用の部屋を用意しようかと聞かれたが私は断った。

 ここはバイト先であって居場所ではない。私の家はここではない。そう思わないと先の見えない芸能生活から逃げてしまいそうな自分がいた。


 だから私は物を最低限しか持ち込まない。今回持ってきたのも大きめのスーツケース一つ。長谷川くんは私と同じくアルバイト用の部屋に泊まっているが荷物は置きっぱなしだ。スタッフの人数に対して部屋が多いから出来ることだが、本当に図々しい性格をしている。


 スーツケースの中からストールを取り出して部屋着の上に羽織る。わざわざ着替えるのは面倒だが、寝間着のまま出歩くのも嫌というせめてもの抵抗だ。

 ドアを開けるとひんやりとした空気が部屋に忍び込んできた。秋の気配が近づいてきたことを実感すると、ストールを持ってきたのは正解だったと少し気分があがる。


 社員寮は病院と渡り廊下でつながっている。出入りには社員証が必要なため患者は出入りできないが、スタッフは自由。これは深夜に何かあった時、迅速に対応するためだと聞いたが、今のところ緊急事態に遭遇したことはない。

 緊急事態が起こっていても私には連絡が来ていないという可能性もあると思い出して、私の気持ちはますます沈む。


 ほとんどの患者は知らないことだが、蝶乃宮病院には一般病棟の他に療養病棟が存在する。そこに入院しているのは心や体に大きな傷を負った患者。スタッフの中でもごく一部しか出入りが許されておらず、そこに何人の患者がいるのかも私にはわからない。四谷さんと今園さんの許可が下りれば療養病棟とから一般病棟に移されると聞くが、療養病棟から移った子は始めてきた患者のように扱われるから誰かは分からない。


 徳川さんは療養病棟にも出入りを許される。患者の秘密を漏らさない、危害を加えないと信用されているという証明だが、信頼と同時にのしかかる責任や重圧を考えれば私は関わり合いになりたくない。


 療養病棟に入院している患者はなんらかの事件に巻き込まれた子が多い。誘拐、暴行、転落。そういった痛々しい経験をした子供たちが心と体を癒やすために秘密裏に入院する場所が療養病棟。徳本さんは顔と態度がわかりにくいだけで根っこは誠実で優しい性格をしている。私のように表面だけ取り繕った偽物とは違う。


 深夜にスタッフが動かなければいけないような状況になったとき、私は呼ばれないだろう。医療の専門家として四谷さん、心の専門医として今園さん、施設長として蝶乃宮さん、手伝いとして徳本さん。彼らが深夜にたたき起こされたとしても私には何の連絡もなく、何も知らぬまま朝を迎え、次の日に疲弊した四人を見て何かが起こったのだと知る。

 私は戦力に数えられていない。私はここでも必要とされていない。その事実が胸に突き刺さる。


 誰もいない廊下を歩くとスリッパの音が響いた。スタッフが寝泊まりする区域を抜けて一般病棟に入ると天窓から月明かりが差し込んで、真っ白な壁や床を淡く輝かせる。患者の心を癒やすために並べられた絵画やインテリアが月明かりに照らされる光景は鮮麗された美術館を思わせ、私のささくれた心を多少癒やしてくれた。


 静かな空間をただ歩く。そうしていると私以外の人間が消えてしまったようで寂しさ以上に嬉しくなる。世界に誰もいないのなら、誰も私を否定しない。誰も姉と私を比べない。それはとても素晴らしい世界のように思えた。


 踊り出したい気持ちになったが我慢する。今日の見回りは四谷さんだ。彼なら眠れなかったといえば心配してくれることはあっても怒らないと思うが、深夜に一人で踊るなんて奇行を目にしたら心配のあまり今園さんに相談しかねない。四谷さんの真面目さは美徳だが、真面目すぎて頭が固すぎるのが問題だ。


 だから私は踊る代わりに軽くステップを踏みながら温室へと向かった。温室からは星空がよく見える。途中にある自動販売機で温かい飲み物でも買って、のんびり星を眺めていたら気持ちも落ち着くはずだ。

 自動販売機の前まで来て、お金を持ってきていないことに気づく。ルームウェアのポケットを探ってみるが小銭は入っていなかった。衝動的に部屋を出てきて、思いつくままに行動していたことに気づき私は肩を落とす。ずり落ちそうになったストールを直しながらどうしようか考える。一旦部屋に戻るか、それともそのまま温室に行くか。

 しばし悩んでいる間にスリッパの音が近づいてきた。見回りのスタッフは靴を履いているのでスリッパで移動しているとなれば患者だ。


 深夜の患者との密会は推奨されていない。人目のないところでこっそり会っていたと思われると周囲にいらぬ誤解をされるからだ。私が未成年を勘違いさせるような言動をとっても注意ですんでいるのは一切手を出していないからである。これが深夜に密会していたとなったら話は大きく変わる。何もなかったと言ったところで今園さんや周囲、保護者が信じてくれるかは分からない。

 私は逃げるべきかと一瞬迷ったが、何も悪いことをしていないのに逃げるは後ろめたいことがあると言っているようなものだ。ここは挨拶だけしてさっさと自室に戻った方がいいと私は足音が近づいてくる方向へと顔を向けた。


 人影がこちらの方へ歩いてくる。この時間出歩いている人間はだいたい緩い部屋着を着ているが、人影は昼間と変わらぬスキニーパンツに七分袖Tシャツを着ている。ちょうど月を雲が覆ったらしく影になって顔がよく見えないが、いかにも部屋着という格好で出てきてしまった私は居心地が悪くなる。最後の砦とばかりにストールを握りしめ、人影をじっと見つめる。

 雲が流れ月の光が降り注ぐ。ハッキリと見えたその顔を見て、私はまずいと思った。


「こんばんは。こんな夜更けに坂本さんに会うとは思いませんでした」


 丁寧な口調と爽やかな笑顔。中性的で無害そうな顔立ち。好青年に見える外見に騙された奴は患者どころかスタッフにも多い要注意人物。綾埼密美がそこに立っている。

 引きつりそうになる顔をなんとか抑えつけて、私は普段通りの自分を作り上げる。ストールを握りしめる手に力が入ってしまったことが相手にバレませんように心の中で願いながら、何も知らない風を装って驚いた顔をした。


「綾埼さん、こんな時間まで起きているなんて驚きました。私はなんだか寝付けなくて、ちょっと夜の散策を」

「坂本さん、面白いことを言いますね。スタッフの方々は俺が深夜に何をしているか、知っているじゃないですか」


 爽やかに笑う綾埼くんの姿についに表情が引きつった。私の変化に綾埼くんは目を細める。それが獲物を狙う蛇みたいに見えてゾッとし、私は少し体を引いてしまった。


 クピド症候群の患者の入院期間の平均は三年。それ以上となると長期入院患者という扱いになる。綾埼くんの入院期間は四年。今園さんによれば今後退院する見込みのない患者だ。

 綾崎くんは恋愛感情を持たない人間だ。性的マイノリティーといわれる彼らの存在が最近ではいろんな分野で目につくようになった。芸能界にもマイノリティー側に属する人間はいるため存在自体は知っている。といっても、蝶乃宮病院に勤めるまでは自分に直接的な関わりのない他人の話だった。


 しかし今はそういった患者をサポートするのも仕事である。そして、特殊な恋愛感をもつ患者から身を守ることも。

 綾崎くんの性質が悪いのは他人を愛する心は持っていないくせに、性行為に対して嫌悪感がないことだ。そのうえ相手の年齢、性別を問わず、今園さんによれば興味を持った人間を知る手段として利用している。


 入院してからの四年で様々な人間、おそらくスタッフ側が認識していない相手とも関係を持っているが、今日も綾埼くんの背中には爛れた関係とは無縁そうな透き通った水色の翅が揺れている。

 その翅がむしってしまいたくなるほど私は嫌いだ。私が必死になって美しさを手に入れようとしているのに、彼は純潔さとは無縁の行動を繰り返しているのにもかかわらず綺麗なままなのである。これを不公平と言わずに何と言う。


 内心の苛立ちが顔に出そうになり私は慌てて表情を取り繕った。そんな私を見て綾埼くんは嬉しそうに笑う。それは日頃見ている彼の笑みとは種類が違って、少しの興味と強い警戒心が湧き上がった。早くここを離れないと不味いことになる。そう私の直感が告げている。


「ごめんなさい。私、朝から仕事があって……」

「坂本さんに渡したいものがあるんですよ」


 逃げようとする私の言葉を遮って綾埼くんは無害そうな笑みを浮かべた。実際は全く無害じゃない。言葉自体は少ないのに話を聞かないと不味いことになりますよと空気が告げている。恐怖から私は動けず、綾埼くんがポケットから取り出したそれを見ることしか出来なかった。

 見てから早く逃げれば良かったと後悔した。


「これ、鈴木くんの連絡先ですよね? ゴミ箱に落ちてたんですけど」


 綾埼くんは目を細めるとわざとらしくそれを掲げて首をかしげる。きれいな黒髪が動きに合わせてさらりと揺れる。姿だけ見ればまさに好青年なのにやっていることが欠片も可愛くない。


「まさか、美人で優しいって評判の坂本さんが、いたいけな子供から貰った連絡先を握りつぶしてゴミ箱に捨てたなんてこと、ありませんよね?」


 綾埼くんはそこで言葉を止めると私の様子をじっとうかがった。表情は笑みの形を作っているが瞳は私から一切そらされない。その目が言っていた。逃げたら全部バラすぞと。

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