5-3 姉の影

 業務を片付けている間にあっという間に時間は過ぎ、鈴木くんの保護者が来訪する時間になった。約束の時間より五分ほど早く訪れた鈴木夫妻を徳本さんと共に招き入れると「お世話になりました」と奥さんに深々と頭を下げられる。その隣りに並ぶ旦那さんも奥さんに習うように頭を下げた。

 夫婦の表情は晴れやかだ。鈴木くんは一人息子という話なので、入院が短期ですんで安心したようだ。


 徳本さんが奥さんに退院手続の説明をしている間、私は旦那さんの相手をする。初対面だというのに親しげに、機嫌よく話しかけてくるおっさんの話は全く面白くないがこれも仕事。後々、受付の愛想が悪かったなんてクレームが入ったらたまらない。


 そうこうしている間に荷物をまとめた鈴木くんが友達を伴って玄関に現れた。その後ろに主治医である四谷さん、カウンセラーの今園さん、医院長である蝶乃宮が続く。蝶乃宮が現れた途端、私に機嫌よく話しかけていたおっさんの視線が奴に吸い込まれたのが分かった。気分が悪い。男というのは何歳になってもバカだ。いい年して純情ぶった女の何がいいんだと心の中で吐き捨てる。


 四谷さんと今園さんが奥さんに鈴木くんの健康状態を説明している間、蝶乃宮さんはおっさんに「退院おめでとうございます」と笑いかけた。それだけで年甲斐もなく照れるおっさんに冷めた視線を送りそうになるのを堪え、私は不快なものから目をそらすべく鈴木くんの様子をうかがった。


 鈴木くんとその友人たとは別れの挨拶をかわしていた。また会おうという約束が本当に果たされるかはわからない。友情なんてあっさり壊れる。環境が変われば過去の交流関係なんて忘れられる。そんなものだ。


 だけど、そんなことを口に出すわけにはいかないから私は子どもたちの友情を微笑ましく見守る大人の女性の顔をした。奥さんへの説明を終えた途端、隅の方で置物のように気配を消している徳本さんに比べればしっかり役目を果たしている。


 友達との挨拶が終わると鈴木くんは四谷さんたちに挨拶し、最後に私の前に立つ。友達の囃し立てるような声と本人の緊張した様子から何が行われるかは察しがついたが、私は何もわからないという顔をして首を傾げた。


「坂本さん、これ、俺の連絡先です……」


 最後の方はだいぶ声が小さい。奥さんが目を丸くし、おっさんの方はなぜか腕組みをして頷いている。

 私は周囲の視線に気づかないふりをして笑顔を浮かべると、鈴木くんが震える手で差し出してきたメモを受け取った。


「ありがとう。それに退院おめでとう。元気でね」


 連絡先を受け取ったことで鈴木くんは表情を明るくした。私は連絡するなんて一言も言っていないのだが、この様子だと気づいていない。気づいたところでその時には接点は切れているし、成人した女が高校生を相手にするはずがないとすぐに気づくだろう。

 鈴木くんの両親だって微笑ましそうに私達のやり取りを眺めている。本気で私が高校生を相手にするなんて考えてはいない。たまに、私が誑かしたと騒ぐバカ親がいるので、鈴木夫妻に常識があってよかった。


 鈴木くんの友人たちは大人の思考に気づかず、「よかったな」と鈴木くんの背や肩を叩く。無邪気な様子に微笑ましさと哀れさを覚えた。

 これを機会に彼らは大人は子供を恋愛対象としてみないのだと学ぶ。そうして大人に近づいていくのだ。彼らの成長の後押しをしたのだと私は誇らしげな気持ちになった。


 鈴木くん一家は明るい表情で病院の玄関を出て行った。お見送りをする四谷さんと蝶乃宮が外に出るのを見送ると徳本さんはいつもよりはスッキリした顔で受付室に戻っていく。鈴木くんの友人たちも話しながら玄関を後にした。

 鈴木くんは一ヶ月という短期入院だったので、すぐに学校に復帰できるだろう。私のおかげだと感謝してほしい。


 仕事に戻ろうと玄関に背を向ける。日用品の補充や在庫チェック、花の手入れなど細々とした仕事はたくさんある。達成感を得た今のうちに済ませてしまいたいと思ったのだが、今園さんに呼び止められた。


 なんだろうと思いながら体ごと顔を向けると今園さんは珍しく眉を寄せている。患者に美魔女と呼ばれるだけある年齢を感じさせない美貌は私の苦手とするものだ。それに加えていかにもデキる女というオーラが嫌いだ。姉を思い出して心の奥がざわつく。

 だが、そんなことを態度に出すわけもなく私は「なにか御用ですか?」と問いかける。今園さんは少しの間をおいてから口を開いた。


「子供の心を弄ぶような真似は感心しないわ」

 鋭い物言いに私は一瞬ひるんだが、すぐさま困った顔を作る。


「えっと……なんのことなのか……」

「鈴木くんが自分に恋するように仕向けたでしょ。ごまかそうとしても駄目よ。伊達にあなたより生きてないわ」


 舌打ちが漏れそうになったがなんとか堪えた。さすがカウンセラーというところか。前々から私の本性に気づいている様子はあったので驚かないが、バレているとわかっても素をさらすのはプライドが許さない。笑みを浮かべて黙っていると今園さんはため息を付く。その姿すら様になっていて腹が立った。


「子どもたちは純粋にあなたを好いているの。それを利用して自分の欲求を満たすような真似やめなさい。あなたはそんなことしなくても十分輝いてる」


 私と二周りも違うというのに若々しさを保つ魔女が何を言うのか。私が今園さんと同じ年齢になった時、同じように美しさを保っているとは思えない。結婚して、子供もいて、仕事も順調。女としての幸せも社会人としての地位も両方手に入れた人間が私の何が分かるというのか。

 私は笑みを深くする。それは私を守る盾であり、これ以上は踏み込むなという拒絶でもある。聡い今園さんがそれに気づかないはずもなく、眉間のシワが深くなる。その様子が愉快で私の口角は自然と上がる。


「私は仕事をしただけです。患者に出来るだけ早く退院してもらう。そのために私達はいるんでしょう?」


 見目の整った人間だけを採用しているのはそういうことだ。私は純粋無垢な子供に夢を見せただけ。ただ話す距離を近づけて、ボディタッチを多めにして、笑みを浮かべて話しかけて、彼らの話を親身になって聞いているふりをしただけ。好きだなんて一言も言ってない。向こうが勝手に勘違いしたのだ。


「こんなところにずっと閉じ込められるなんて可哀想。だから私が退院させてあげたんです。感謝されることはあっても非難されることなんて何もしてません」

「……本気で言ってる?」


 答えに代わりに飛び切りの笑顔を浮かべると今園さんは険しい顔をした。ブツブツと小声で何かをつぶやいているが聞き取れない。負け惜しみだろうから仕事に戻ると言おうとしたところで、バカみたいに明るい声と共に靴音が近づいてきた。


「お疲れさまでーす! 今園さん、ちょっといいですか!」


 そういって走り寄ってきたのは長谷川くんだ。手になにかの書類を持っているから今園さんに確認してほしいものがあるんだろう。今園さんは私をチラリと見た後に息を吐いた。まだ言いたいことがあったらしい。しつこい人だ。


「鈴木くん、どうでした?」


 書類を今園さんに渡した長谷川くんは私に話しかけてくる。長谷川くんは分かりやすく私に気があるから話していて気分がいい。医大生というのも将来性がある付き合うのも悪くなさそうだが、医大生にしてはチャラくて、バカっぽいので保留にしている。

 今園さんが書類を眺めながら私の様子をうかがっているのが分かった。だから私は完璧な笑顔を作り上げる。


「ご両親と仲良く退院されましたよ」

「良かったですね。坂本さんに翅を落としてもらえるなんて自慢できますよ。羨ましい」


 本気でそう思っていると伝わってくる世辞に私の気分は上がる。顔をしかめる今園さんが見え、勝ち誇った気持ちになる。今園さんがどう思おうと私を認める人間がいる。私がやったことは正しい。今園さんの意見はただの嫉妬だ。


「落としたなんて……親元を離れて入院なんて心細いだろうなと思っただけで」

「そういう優しさが鈴木くんに伝わったんですよ。いいなあ。坂本弁護士の妹が初恋とか一生自慢できる」

「……えっ……」


 無防備な声が出た。表情を取り繕うことも忘れて固まる私を見て長谷川くんは不思議そうな顔をした。


「あれ? 美人すぎる弁護士で有名な坂本麗菜れなさんって坂本さんのお姉さんですよね?」


 長谷川くんの口から最も聞きたくなかった名前が飛び出す。私はほぼ反射で笑みを作り上げ、「えぇ」と頷いた。驚いた顔をする今園さんが視界の端に映ったけれど、その反応の意味を考える余裕もなかった。


「やっぱりそうですよね! 似てると思ってたんです! 坂本さんも美人だけどお姉さんすごいですよね。サインとか貰えませんか?」

「姉は弁護士なのでサインは貰えないかなと……」

「えぇーじゃあ、写真とか!」


 目を輝かせる長谷川くんとは対象的に私の心はどんどん冷めていく。ここでは姉のことを忘れられると思っていたのに、こんなところまで来ても私は姉の影から抜け出せない。


「ごめんなさい。プライベートなことは話さないようにって姉に言われてるので。仕事に戻りますね」


 私は笑みを貼り付けて足早にその場を後にした。残念そうな長谷川くんの声から逃げたくて続く声は聞こえないふりをした。受付室で事務仕事をしようと思っていたけど、図々しい長谷川くんが受付室まで着いて来たら逃げ道がなくなる。


 とにかく足を動かす。目的地は分からない。とにかく逃げる。もう長谷川くんから逃げているのか、姉から逃げているのか分からない。


 ポケットに入れた鈴木くんの連絡先がカサリと音を立てる。その小さな音にすら苛立った。さっきまでは確かに満足していたのに、こんな小さなことで満足感を得た自分がバカみたいに思えてくる。

 私は鈴木くんの連絡先を握りつぶすと近くにあったゴミ箱に投げ捨てた。

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