幕間2 母の愛

 人が内に秘めた感情を口にする様を見ると興奮する。その感情が秘められたものであるほど良い。そんな特殊な性癖に目覚めたのは中学二年生。クピド症候群を発症する一年ほど前のことでした。


 うちの母は完璧といえる存在でした。美しく、穏やかで、家事も得意。夫、息子である俺との関係も良好。理想の妻を体現したような存在だったんです。


 でも当時の俺はそんな母が怖かった。いつも母は穏やかで怒ったところを見たことがない。怒るどころか笑顔以外を見たことがない。それがだんだん不気味に思えてきたのです。

 

 モデルルームのように整頓された埃一つない部屋、丁寧にアイロンがけされ、美しくたたまれた洗濯物。食事はレストランのように美味しく、誕生日にはケーキを焼いてくれました。

 できすぎていると思いませんか?


 母はそういう風にプログラムされた機械のようでした。触れば温かく柔らかいのに、立ち振る舞いには無駄がなく、笑顔を浮かべてはいるものの感情が全く見えない。インストールされた良き母、良き妻を演じているような姿に一度違和感を覚えてしまったらもうダメでした。本当の母はとっくの昔にいなくなっていて、目の前の母は父がどこからか買ってきたアンドロイドなんじゃないかって一時期本気で疑ったんですよ。

 もしかしたらそんな気持ちが母に伝わっていたのかもしれません。それとも、その当時にはもう母は俺なんてどうでもよかったんでしょうか。


 切っ掛けは最初に行った通り中学二年生の時。

 俺は急に熱が出て学校を早退することになりました。親に迎えに来てもらいなさいと保健室の先生は言いましたけど、自宅までの距離はそれほど遠くないし、もう中学生という気持ちがあって俺は歩いて帰ることにしたんです。

 仕事に忙しい父が帰ってきてくれるとは思えなかったし、その日は母が料理教室に行く日だと知っていたので。料理教室に行った後の母は機嫌がとても良かったんです。毎日機械のように動き回る母が唯一人間味を見せる瞬間だったので、俺も料理教室の日を心待ちにしていたくらいです。だから俺は母に連絡せずに家に帰りました。ここで連絡をしていたら俺は変な性癖には目覚めなかったかもしれません。


 熱で朦朧としながらなんとか家にたどり着いた俺はドアノブに手をかけた時にあれ? と思いました。母は居ないはずなのに家のドアが開いていたんです。いつもであればおかしいと思ったでしょうが、その時は熱で正常な判断が出来る状態じゃありませんでした。開いているならば鍵を開ける手間が省けたと無言で家の中に入り、自室に行くためゆっくり階段を登ったんです。

 だるくて動きがゆっくりだったので、物音も小さくなっていたんでしょうね。だから母たちは俺が帰ってきたことに気づかなかった。まあ、それどころじゃなかったのかもしれませんけど。


 俺の部屋は二階の一番奥でした。部屋に行くためには両親の寝室の前を通る必要があったんです。だから母の声が聞こえたのは不可抗力でした。足を止めてしまったのはいないと思っていた人間の声が聞こえたというのと、母の声がいつになく切羽詰まったものだったからです。


 母は穏やかな声と口調で話す人でした。声を荒げたところを聞いたことがありませんでした。だから俺は驚いて、もしかして俺と同じように体調が悪いのではないかと心配になったんです。


 寝室のドアはかすかに開いていました。俺は怠い体でのろのろと近づいて、隙間から中を覗いてしまったんです。

 俺が目にしたのは知らない裸の男に同じように裸で組み敷かれて、揺さぶられて、喘ぐ母の姿でした。切羽詰まった声は嬌声だったわけです。

 俺が聞いたことがないドロドロに煮込んだ果実みたいな声をあげながら、母は恍惚とした表情を浮かべて知らない男を見つめていた。顔を見ただけで相手が好きなんだと分かりました。その顔を見て俺は気づいたんです。母にあんな表情を向けられたことがないと。


 母はずっと演じていたんですよ。良い妻、良い母を。

 その後、俺が倒れたことで不倫がバレて、母はすぐに家を出て行きました。今どこで何をしているかは知りません。あの時の男と一緒になったのか、別れたのかも。何で演技なんてしていたのか、本当は何を思っていたのかも、何一つ分かりません。母が出て行く前に聞けば良かったんですが、あの当時の俺は色々と混乱していたので聞きそびれてしまいました。今でもそれを後悔しています。


 今はもう開き直っていますけど、人の秘密を暴いた瞬間、本性をさらけ出す人間を見て興奮すると気づいた時は俺だって戸惑ったんですよ。精神的なショックやストレスを興奮に置き換えることで自己を守ろうとしていると言われたら否定できません。


 最初はただ知りたかっただけだったのかもしれません。母が何を考えていたのか、母に近い人と関われば、あの男のように交われば、何かがわかるのではないかと。


 でも、今は母がなにを考えていたかなんてどうでもいい。俺は今、純粋に自分の欲求に従っています。最初からそうだったのか、ショックが切っ掛けでそうなったのかは分かりません。正直、どうでもいいです。重要なのは今の俺がそういう性質だということ。たとえ異常だと言われようと、そうなってしまったものはどうにもならない。俺はもう世間一般のいう正常には戻れないんです。


 


 そう、言葉をしめくくると今園さんは難しい顔をした。眉間に深い皺が寄っている。美人なのに勿体ないと思うが、そもそもそういう顔をさせているのは俺だ。ここは黙っているのが一番だろうと今園さんの言葉を待つ。


「まず、あなたは性的趣向が少々特殊というだけで異常なわけではないわ」

「といっても、今園さんだって俺の趣向は理解出来ませんよね?」


 今園さんは顔をしかめる。理解できると嘘をつかないのが俺としては好感が持てる。きっとこういう良い所を見て好きになるのが真っ当な人間なのだろう。


「自分でも良くない傾向であることは自覚があるのに、なんで抑えられないの……」

「そうはいっても、目の前に美味しそうなご飯が並べてあったら食べちゃうでしょ。ここは美味しそうなご飯が多すぎるんですよ」


 人は人に好かれたいという欲を持つ。恋した相手でなおさらだ。よく見られたい、愛されたいという感情から大小さまざまな秘密を作る。そしてそれを知られないように必死に隠す。その隠された感情が、秘密が、大きければ大きいほど俺には美味しそうに見える。暴いて本音を引きずり出して、俺なしでは生きられないほど依存させたくなってしまう。


 悪い癖だとは思う。でも止められない。本音を隠しながら本音を暴いて欲しいと願う彼らや彼女らと同じように、俺もきっと探している。こんな厄介な悪癖を受け止めてくれる誰かを。母にすら愛されなかった子供を悪癖ごと受け止めてくれる誰かを、俺はずっと探しているのだ。


「だからって手当たり次第はよくないでしょう……。ついに坂本さんにまで手を出して」


 ため息交じりに吐き出された名前に俺は笑みを深める。

 坂本結菜。母と同じように感情を押し殺し、仮面を被っているのだとすぐに分かった。その仮面の下にどんな秘密と本性が隠されているのか暴いてみたくて仕方がなかった。機会を狙って暴き出したものは予想以上に俺好みでとても満足している。


「一応言っておきますけど、同意ですから」

「分かってるわよ。あなたもあなたに引かれる子たちも自分に自信のない寂しがり屋でしょ。寂しがり屋同士、惹かれてしまうのはどうにもならないわ」


 ため息交じりに呟かれた寂しがり屋という表現に驚いた。そんなに可愛いものじゃないと俺だって自覚している。もっとドロドロでぐちゃぐちゃで、はたから見たら奇怪で気持ち悪いものだと分かっている。


 だから背中の翅だって落ちないのだ。どれだけ関係を重ねても、依存する相手を増やしても、クピドの翅はピクリとも動かない。この感情は恋ではない。そう俺に突きつけてくる。


 こんなに歪んだ生き物だから母は自分を愛してくれなかったのだろうか。本心がバレないように機械のように接して、バレたからさっさと消えてしまったのだろうか。

 そんなことをずっと考え続けているが、答えは出ない。出るはずもない。


「不毛な傷の舐め合いだって分かってるのに何でやめられないんでしょうね」

 俺の弱々しい声に今園さんはいたましげな顔をした。


「あなたも、相手もどうしようもない寂しがり屋だからよ。直接見て、触らないと安心できない赤ちゃんなの」


 赤ちゃんという言葉に笑いが漏れた。もうすぐ二十歳になる人間を赤ちゃん呼ばわりとはさすが今園さんだ。


「俺、赤ちゃんから幼稚園児くらいにはなれますかね?」

「あなたがなりたいと思うならなれるでしょう」


 そう言いながら俺を見る目は冷ややかだ。そう思っていないでしょうと口には出さずに俺に問う。全くその通り過ぎて俺は笑ってしまった。

 俺はまだ微睡みの中にいたいのだ。母のお腹の中で揺れる胎児のように、何も知らないままで、母のぬくもりを感じて眠っていたい。まだ夢から覚めたくない。


 なるほど、翅が落ちないわけだと俺は自嘲した。俺が求めているのは恋じゃない。もう手に入らない、母の愛だ。

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