3-3 春の気配
虫籠に入院して暇なあたしはネイルにはまった。もともとお洒落もメイクも好きだったけど、学校にネイルをつけていくのは禁止だったからやるとしても休日につけ爪をつけるくらい。お洒落なネイルをつけてもすぐに落とさなければいけないのがなんだか勿体なかったのだ。
だけど虫籠ではメイクをしてもネイルをつけても注意されない。だからあたしは元々気になっていたネイルに手を出し始めた。
といってもバイトが出来ない高校生のあたしにネイルを買いあさるお小遣いはない。クピド患者は国から支援金が出ている分、格安だとは聞いたけど、それでも入院費はかかっている。それに加えて暇だからあれもこれも欲しいとは言いにくい。
だけど、暇つぶしに見る動画で知識をつけていくとやってみたくなるもので、毎月貰っていたお小遣いの範囲で少しずつ道具を揃えていた。今月はネイルライトを買おうか、好きなブランドの新色ネイルを買おうか迷っていて、昨日も悩みに悩んでお姉ちゃんに呆れられた。
あたしは名前がキララだからか、キラキラしたものが大好きだ。ミラーネイルにフラッシュネイル、氷ネイルと欲しいものはたくさんある。
それに比べてお小遣いには限りがあった。時間があるからと株をやっている入院患者はいるけど、あたしはそこまで頭が良くない。
あたしが出来そうなアルバイトするためには退院しないといけないし、退院するためには恋をしなければいけない。だけど自分の好みの異性がわかんない! とお姉ちゃんに散々愚痴ったのは先月だったと思う。それを聞いたお姉ちゃんが今月送ってくれたのが、なんと! あたしが欲しいといっていたネイルの詰め合わせだったのだ! お姉ちゃん大好き! 次会ったら力一杯抱きつくし、退院したらバイトしたお金で誕生日プレゼントを奮発する。これは決定事項。
そんなわけで欲しいものが手に入ったあたしはウキウキだった。鼻歌に加えてステップまでふんでいる。通り過ぎる患者たちに不思議そうな顔をされたけど、機嫌よく手を振ったら戸惑いながらふり返してくれた。
お目当ての談話室にたどり着いたあたしは中を見渡す。自室で早速塗ろうとしたとき、ふと誰かに塗りたくなったのだ。自分の爪にはいつでも塗れるから、せっかくだからこの可愛い色で誰かの爪を可愛くしたい! そんな思いに突き動かされたあたしは入院してから買ってもらったネイルポーチを手に自室を出てきた。
虫籠に来てたくさん友達が出来たけど、一番仲がいいのは春子さん。といっても向こうは二十一歳のお姉さんなので高校生のあたしのことは妹くらいに思ってるかも。それでもあたしは一番仲良しなのは春子さんだと思うし、一番仲良くなりたいと思っているのも春子さんなのだ。
あたしと春子さんは真逆といっていい。髪も染めてるし、つけまつげに化粧バッチリ、ピアスだってつけているあたしと違って春子さんはまさに大和撫子。ストレートの黒髪にメイクは控えめ。いつも談話室で静かに本を読んでいるし大きな声をあげることもないし、人の悪口をいうこともなく、いつも穏やかに笑ってる。まさに大人の女性!
同世代としかつるんでいなかったあたしからするとこんな人本当にいるんだなって衝撃的で、出会った瞬間に仲良くなりたいなって思った人。だから初対面からいっぱい話しかけた。春子さんは最初戸惑ってたみたいだったけど、だんだん優しい顔であたしの話を聞いてくれるようになった。それがあたしはすごく嬉しい。
お母さんに春子さんの話をしたら「年の離れたお姉ちゃんみたいな感じ?」って聞かれたんだけど、それはなんか違う気がする。春子さんと毎日一緒に過ごしたら楽しいと思うけど、お姉ちゃんとは喧嘩もするから。春子さんとお姉ちゃんみたいに喧嘩になったらあたしは悲しすぎて泣いちゃうと思う。だからお姉ちゃんみたいに大好きだけど、お姉ちゃんとはちょっと違うのだ。この微妙な感覚をあたしはうまく人に説明できないけど、まあいいかって思ってる。だって説明できなくても困らないし。
いつも通り日当たりの良い席で春子さんは本を読んでいた。その姿がすごく大人っぽくて絵になる。写真撮りたいくらいだけど許可なく撮るのはダメだから我慢してる。今度撮っていいか聞いてみよう。
春子さんに気づかれないようにこっそり近づく。談話室で
こそこそと移動して春子さんの後ろに回り込む。春子さんは本を読むのに集中しているみたいで全く気づかない。後ろから読んでいる本をのぞき込むとびっしり文字が並んでいた。本だから当たり前なんだけど、本を読むのが苦手なあたしからすると見ているだけで目が回りそうだ。
こんなの読めるなんて春子さんはすごいなあと思っているとあたしも知っている単語が目に飛び込んできた。
「目から鱗……」
思わず声に出すと春子さんの肩がビクリと動いた。小さな声でいったつもりだったけど、近づいていたからハッキリ聞こえたみたい。驚いた様子で振り返った春子さんは声の主があたしだと気づくと上がっていた肩を落とした。
「びっくりした……キララちゃんか」
「驚かせてごめんなさい」
こっそり近づいて驚かせるつもりではあったけどこんな形ではなかったので素直に謝った。春子さんは仕方ないなあという顔で笑ってくれる。この優しい顔があたしは好き。なんだか胸がぽかぽかしてくる。
「目から鱗がどうしたの? なにか気になることでもあった?」
春子さんの向かいの椅子を引いて座ると春子さんが不思議そうな顔をしてこちらを見た。あたしは丸テーブルの上にネイルポーチを置きながら答える。
「なんで目から鱗が落ちるっていうんだろうって。人間の目に鱗なんてないでしょ? 目からカラコンなら分かるけど」
「目からカラコン……」
あたしの言葉に春子さんは目を瞬かせて、それから笑い出した。肩をふるわせる姿を見てあたしは首をかしげる。
「ご、ごめんね。キララちゃんらしいなとおもって」
「それって褒めてますか?」
「褒めてるよ。たしかに今なら鱗よりもカラコンの方がなじみがあるよね」
「そうですよね!」
春子さんに受け入れられてあたしは嬉しくなった。こういう話をするとお母さんやお姉ちゃんは「あんたってほんとバカ」とか「もうちょっと勉強しなさい」っていうんだ。あたしはあたしなりに真剣に考えて話してるのに。
「なんで鱗なんだろう?」
「新約聖書のお話が語源らしいわ。キリスト教を迫害する立場だったパウロって人がキリストを認め、洗礼を受けたとき、目から鱗のようなものが落ち、見えなかった目が見えるようになったというエピソードから、目から鱗が落ちるって言われるようになったんだって」
「へぇ!」
全く知らない話にあたしは目を輝かせる。春子さんはあたしが知らないことをたくさん知っている。学校で言われても右から左に流れてしまうような話も春子さんが話すととても大事な話みたいに思えて、あたしはついつい耳をすませてしまう。
もっと話してほしいとじっと見つめていると春子さんは首を傾げた。
「キララちゃん、なにか用事があったんじゃないの?」
あたしが持ってきたネイルポーチを春子さんが見つめる。春子さんと話すことに夢中になっていたあたしはそこで目的を思い出した。お姉ちゃんに忘れっぽいと言われたときは言い返したけど、これじゃお姉ちゃんの言うとおりだ。
あたしは慌ててネイルポーチを開いた。
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