エピローグ

「翔、なんかあったのかな?」


 温室の一画にあるベンチに腰掛け、一緒に空飛ぶ翔を眺めていた新田がつぶやいた。唐突すぎる話題に俺が視線を向ければ、新田はじっと大空を見上げている。その顔が真剣でこれが冗談の類ではないのだと分かった。


「俺からすると普通に見えるけど」

「なんか、集中してない。いつもはもっと生き生きしてるのに、何かを忘れようと必死に見える」


 新田の発言を踏まえて大空を凝視するが俺には違いがわからない。いつもどおり、よくそんな上空を恐怖を感じることもなく起用に飛び続けられるものだと感心するだけだ。

 しかし、俺よりも真剣に、毎日大空を見続けていた新田がいうなら、そうなのだろう。俺が大空に感じる不安は落ちたら危ないというぼんやりしたものだが、新田はもっと具体的な危険を感じているらしい。茶化しつつも毎日、大空の様子を見てしまうほどには。


「なにか覚えは?」

「なーんにも。翔ちゃん、薄情だから相談してくれなそう」

「そういうお前も相談しなさそうだけど」

「ヒロがいう?」


 視線を合わせてお互いの心境を探り合うがすぐに止めた。俺は話す気がないし、新田は尻尾を出さない。いくらお互いの腹を探り合ったところで無駄だ。


「俺がこんなだから翔は相談してくれないのかな……」


 小さな声は本音のようだった。明るさで内側にある何かを隠している新田にしては珍しい。それだけ頼ってもらえないのが堪えているのだろう。


「お前の性格関係なしに不安とか悩みとか人に相談するタイプじゃないだろ。大空、男前だから」

「たしかに〜! 翔ちゃんって性格イケメンだよな!」

「それいうと、本人の顔が悪いみたいじゃないか」


 美形ってわけじゃないけど悪いわけではない。運動神経がいいし、性格は明るいし、好き嫌いがハッキリしていて俺からすると付き合いやすい。友達だって多い。


「イケメンって身長高いってイメージがあって」

「大空に殴られてこい」


 たしかにそういうイメージはあるが、だからといって大空がイケメンじゃないということにはならないだろうに。


「何だかんだ、一番身長のこと気にして、自分を卑下してるのは翔だと思うんだよなあ」


 空中で大空が一回転する。あんなの俺には絶対にできない。太陽の光を浴びて大空の透明な翅は空を写し撮り、光を反射する。それは何度見ても美しく、俺は息を止めて凝視してしまう。


「翔は自分の体が小さいから飛べると思ってるみたいだけど、同じ条件で俺が翔みたいに飛べるとは思えない。あれは翔が持って生まれた才能」


 新田の言葉に頷いた。


「でも翔はさ、小さい自分に唯一与えられた才能だと思ってるんだよね。小さくたって出来ることはいっぱいあるのに」

「具体的には?」

「……それはちょっと思いつかないけど」


 眉を寄せる新田を見て俺は苦笑する。俺も思い浮かばない。だから大空も思い浮かばないのだろう。世界は広いとか無限の可能性があるなんて言われても、その可能性が見えなければ進むことは出来ない。大空にとって今目の前に広がる唯一の可能性は空を飛ぶ事だ。


「翔は飛べなくなることが怖いんだろうな。飛ぶのが好きってのもあるんだろうけど、飛べなきゃ小口さんに見てもらえないと思ってる」

「そんなことはないだろ」


 少し離れたベンチに話題の小口さんは座っている。翔が飛び始めた少し後にやってきて、それから飽きずに翔の飛ぶ姿を見つめている。翔が落ちるのではという不安から見張っている新田と違って小口さんの表情は輝いていた。上気する頬に煌めく瞳。それはどこからどう見ても恋をする少女のもので小さな翅が落ちていないのが不思議なくらいだ。


「小口さんの翅が落ちたら大空だって分かるのに」

「小口さんも同じ事思ってるんじゃないかな」


 独り言に返ってきた答えに俺は驚いて新田を凝視した。新田は困ったように眉を下げて小口さんを見つめ、それから大空に視線を戻した。


「俺たちから見たらどう見ても両思いなのに、お互いに確信が持てないから、翅が落ちたらお別れだって思ってるんだよ」

「それはまた……」


 俺はついついあきれた顔をしてしまう。新田はそんな俺の反応を見て苦笑した。


「恋をしたらすぐ翅が落ちるわけじゃない。ある程度のコントロールは出来るって入院歴が長い翔ちゃんは知ってるはずなんだけど、自分のこととなると冷静に考えられないのかな」

「退院したら完全に縁が切れるってわけでもないのにな」


 大空は関東で小口さんの出身は九州。想いを通じ合わせた二人に待っているのは遠距離恋愛だと思えば尻込みするのも分かるが、今の時代はスマートフォンがあるし、クピド患者のために用意された社会復帰のための施設は関東にある。小口さんにその気があれば寮完備の施設に来るという選択だってあるのだ。


「翔ちゃんはさーこんな狭い場所よりも広い場所の方が似合うと思うんだよね」


 新田はまぶしそうに目を細めながら大空を見上げている。たしかに大空には虫籠の温室は狭すぎる。例え翅がなくなったって、大空はその気になればどこにでもいける行動力と精神力があるのだ。


「自分のことこそよく分からないのかもな」

 もしくは高い所を飛びすぎて地面を歩いていた頃のことを思い出せないのかもしれない。


「俺は、遅かれ早かれだと思うけどね。切っ掛けがあったらどっちか告白するなり、翅が落ちるなりするでしょ」


 お気楽な調子でそういって新田は大空を見つめる。その表情は柔らかく、大空の明るい未来を信じて疑う様子はない。


「翔ちゃんが居なくなったら寂しいけど、連絡は取れるし。っていうか俺からドンドン連絡するし」

「そこはちょっと控えてやれよ」


 あきれた顔をすると新田は「えぇー」とわざとらしく声を上げる。その姿は楽しそうで、大空の未来に自分がいると疑っていない。

 同時に、会いに行くと言わないあたり、自分が退院する未来もまるで想像していない。それに関しては人のことは言えないので口に出さず、俺は空を飛ぶ大空へと視線を向けた。


「大空が飛ぶ姿が見られなくなるのは寂しいけどな」


 人は大地を歩く生き物で、空を飛んでいる今が異常なのだと分かっている。それでも大空の姿は翅を持って生まれてきたと錯覚してしまうくらいに自由で、地を歩く生き物だとつい忘れてしまう気持ちも納得できてしまった。


「でもそろそろ降りてきてもらわないと、疲れて落下されたら困るし」


 それはそろそろ飛ぶ時間は終わりという意味なのか、現実逃避している大空を思ってのことなのか。

 新田の場合は両方の意味を含んでいるかもなと思っていると新田が立ち上がる。大きく息を吸い込むと口元に両手をあて大声を出した。


「翔ちゃーん、そろそろ終わり! 降りてきな!!」


 隣から響く騒音に耳を塞ぐ。毎度のことながらどこからそんな声が出るのだと問い詰めたくなる。だが、これも大空が退院してしまえば聞けなくなると思うと少し寂しい気もする。

 いつものように渋々といった様子で降りてきた大空に新田が駆け寄るのを見守りながら、これもあと何度見られるのだろうと考える。


 現実という大地に降りたくない大空の気持ちが俺にもわかる気がした。世界から隔離され、時間が止まったようなこの場所は居心地が良すぎるのだ。

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