エピローグ
俺に電話がかかってきたのは、消灯まであと少しという時間だった。
こんな時間に一体誰だと思いながらスマートフォンをとると、懐かしい名前が目に入る。ちょくちょくアプリでのやり取りはしていたが、電話がかかってくるのはずいぶんと久しぶりだ。
通話ボタンを押して耳に当てる。「もしもし」と馴染んだ、懐かしい声が聞こえて、自然と口の端があがった。
「久しぶりっすね」
「久々に天野と話たくなってさー」
明るい口調はここにいた時と変わらない。俺の先輩にあたる清水さんの元気そうな声。それにひとまずホッとする。
クピド症候群の患者は退院までの期間、社会と隔離されて過ごす。そのために虫籠と外のギャップに苦しみ、苦労するという話も珍しくはない。それ専用のカウンセリング施設や、社会復帰ルートは確保されているがどうしたって漏れは出てくるものだ。
人懐っこい清水さんの性格からいって、大丈夫だとは思っていたがこうして確認できるとホッとする。
「その後どうよ。変わりあったか」
「何人か新入りがきたのと……あっそうだ、進藤さんが退院しました」
「おーやっとか。アイツも結構居座ってたよなあ」
ケラケラと清水さんは笑って「どんな感じだった?」と聞いてくる。進藤さんと清水さんは仲が良かったし、過程も気になるだろう。そう思って知っている限りの話をした。全部聞き終えた清水さんは「よかったな」と自分のことのように喜んでいた。
清水さんは三年、虫籠の中で過ごした。高校一年から三年間。青春といえる時期は籠の中だった。退院した後は大学に通うため、必死に勉強をしているのだという。俺に少しは勉強しといた方がいいぞと事あるごとにいっているから、相当苦労しているようだ。
たまにくる電話や、何気ないやり取りは清水さんにとっては息抜きなのだろう。その相手に自分を選んでくれると考えると、一カ月とはいえ面倒見てもらった後輩として嬉しさを覚える。
「新人で面白そうなやついる?」
「数か月前に入ってきた女には嫌われてますね」
「お前、威圧感あるもんなあ……。話してみたら意外と素直ないい子なのに」
「ほっといてください」
しみじみと呟かれて、複雑な気持ちになった。目がきついと言われるが、生まれ持ったものだからどうしようもない。意外と素直ないい子という評価に対しては、くすぐったい気持ちになって突っ込みににくい。
十九歳と十六歳。それだけでこれほど差が出るのかと悔しさを覚えつつ、俺は次の話題を探す。これ以上この話題を引っ張ると、いいようにからかわれる気がしたのだ。
「あっそういえば、最近入ってきた新人が妙な奴で……」
「へぇ!」
話題を変えようとして浮かんだのは、最近やってきた患者――
「最初入ってきたときは、おどおどビクビクしてて、大丈夫かって感じだったんですよ。俺より年上、清水さんの一個下なんですけどね。分かりやすく地味な奴で」
「おいおい、年上にたいしてそれはないだろ」
清水が苦笑したのが分かったが、俺からの印象は言葉通り。他の奴に聞いても大体同じだろう。言いようにいっても大人しそうだとか、真面目そうだとか。そういった面白みのない答えになると予想がつく。
最初の村瀬は本当に、どこにでもいる普通の奴だった。
「けど、なんか急に雰囲気が変わったっていうか……」
俺はそこで言葉を区切った。最近の村瀬は最初の頃と明らかに違う。おどおどビクビクと周囲を気にしている様子もないし、早く帰りたいと落ち込み悩む様子もない。毎日楽しそうな様子を見て、何か趣味でも見つけたのか。そう思ったのだが、それにしても心ここにあらずと言った様子だ。地に足がついていない。背の翅で常に浮いているのではないか。そう思ってしまうほど、思考も言動もふわふわしている。
「ここに来たばかりの頃は、帰りたい。早く病気を治したいってそればっかり言ってたのに、最近じゃそんなのも全然いわなくなったし」
「虫籠になれたんじゃねえか? 最初の頃は慣れなくて苦労するやついっぱいいるだろ。お前だって最初の頃は、周囲に威嚇ばっかりしてたじゃねえか」
ニヤニヤと笑っているのが想像できる声に俺はムッとした。違うと言い返したいが、清水さんがいうことも全くの嘘でもない。俺が虫籠に来た当初は、色々と余裕がなかった。
「茶化さないでください。そういうのとは違うんですよ……。上手くいえねぇけど、なんかこう……人が変わった感じっていうか……」
「人が変わったねえ……」
真剣な話だと感じたのか、清水さんの声が低くなる。清水さんなりに考えているのか、電話の向こうが静かだった。俺もまた、あまりにも変わってしまった村瀬の事を考えた。
「切っ掛けは?」
「えぇっと……たしか、立ち入り禁止区間に忍び込んだ後かな」
いくら思い出しても変化はあの日だったように思う。夜も朝も食事に現れなかったため、怖がらせてしまったのではと心配して様子を見に行った。思ったよりも元気そうで安心したが、何だか酔っぱらっているような印象を受けた。
何でもない。そういって笑った顔は、知らない大人のように艶めいていた。それに動揺したのを覚えている。
「立ち入り禁止区間って……ソイツ一人でいったのか?」
「俺も一緒に行ったんですけど、四谷に見つかったんですよ。ソイツは適当な部屋に押し込めて隠したんですけど、俺は四谷に連行されて説教だったんで。説教終わった後、こっそり迎えに戻ったんですけど、その時はもう部屋に帰ってて……初めてなのによくあそこで迷わなかったなって感心したんですよね」
「……」
俺の言葉に清水さんは黙り込んだ。電話越しだが、清水さんが何かを考えている。そのことは何となく分かった。その沈黙が明るい清水さんらしくなく、妙に緊迫していることに気づいて息をのむ。
何だろう。俺は何かマズい事をしただろうか。そうした落ち着かない気持ちで次の言葉を待っていると、清水さんは深く息を吐き出した。
「……魅せられたんだろうな……」
「魅せられた……?」
「お前に話したこと会っただろ。立ち入り禁止区間に、美しさのあまり監禁されてる患者がいるって」
「聞きましたけど、あれは嘘でしょ?」
何度も立ち入り禁止区間に忍び込んでいるが、そんな人間みたこともない。もっと奥にいる可能性は捨てきれないが、虫籠のスタッフがそんなことをするとも思えない。そういった輩から守るためにつくられたのがクピドの虫籠であり、それを破るならば虫籠自体の取り壊しだってあり得るのだ。
「正確にいうと、監禁されてるっていうより隔離されてるんだよ。他の患者に会わないように」
「……何で?」
何で清水さんがそんなことを知っているのか。何で他の患者に会わせないようにしているのか。半年ほど虫籠にいるのに全くしらない話に、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。きかない方がいい話なんじゃないか。そう思ったのだ。
「会ったら誰彼構わず魅了するような、厄介すぎる奴だからだよ……」
ため息交じりのつぶやきは、清水さんがそれを噂ではなく実在する人物として知っているのだと証明していた。
「お前だったら、うっかりあっても大丈夫だと思ったんだけどな……。アイツにも話し相手がいなくなるのは寂しいって言われてたし。お互い暇つぶしにちょうどいいだろうと思ってたんだが……、まさか新人がやられるとはなあ……」
「そんなに、マズいんですか?」
とんでもないことをしてしまったのではないか。そんな予感に俺は焦る。別人のように変わってしまった原因が俺にあったのだとすれば、俺が何かするべきではないのか。そういった気持ちを清水さんは感じたらしく「お前のせいじゃない」と固い口調で言った。
「とんで火にいる夏の虫。っていうだろ。虫はさ、光に飛び込まずにはいられないのさ。自分が焼け死んだとしても。それが本能なんだ」
「本能……」
自分の背にあるピンク色の翅を見る。俺にしてはずいぶん可愛らしいそれは、病気を発症してから半年、ずっと背中で揺れていた。しかし、俺には清水さんがいう本能も、村瀬があそこまで変貌した理由も分からない。
「お前は、真っ当な道にいけよ」
そうつぶやいた清水さんの声は沈んでいて、村瀬はもう真っ当な道には戻れない。そう言っているように聞こえた。
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