1-7 虫の本懐

 一夜明けて気づいた。蝶乃宮さん、天野君がいっていた監禁されている患者。その噂の元は翡翠さんだ。

 あれだけ我が物顔で本を読んでいたのだから、監禁されているわけではないのだろう。しかし立ち入り禁止区間から、こちら側、一般病棟に来れないのは間違いない。あれほどに綺麗で存在感のある人だ。一度でも訪れたら騒ぎになるに決まっている。

 そうならないのは翡翠さんが立ち入り禁止区間から出ないから。噂が広まったのは、僕や天野君のようにこっそり忍び込み、翡翠さんに会った人が今までにいたからだろう。


 清水。そう翡翠さんは言っていた。天野君の先輩。一度もあったこともない人だというのに、翡翠さんの口から名前が出た。それだけでイライラしてしまう。そんな自分に気づいて僕は戸惑った。他人に対してこんな感情を抱いたのは初めてだ。昨日とは明らかに変わってしまった自分に僕は戸惑って、やがてどうでもよくなった。


 天野君が僕の部屋を訪れたのは、次の日の昼だった。

 僕は起きてからずぅっと翡翠さんのことを考えていて、朝食をとるのを忘れた。昨日の夜も帰るなりベッドに沈んでしまったので、夕食も食べていない。その事実に気づいたのは、天野君が作ってもらったというサンドイッチを携えてきたからだ。


 あれだけ翡翠さんのことに思考が持っていかれていたというのに、食べ物を前にすると本能が勝つらしい。ぐぅーっと盛大になりだしたお腹の音を聞いて、天野君は笑い、僕は恥ずかしさで下を向いた。


「悪かったな。無事に帰ってこれたか?」


 天野君は床に座り込むとバツが悪そうな顔をした。ベッドに座った僕を自然と見上げる形になって、何だかいつもよりも幼く見える。普段はキリリと吊り上がった眉と目じりが、申し訳なさそうに下がっているのもあるだろう。


「あーうん、それは何とか……」


 翡翠さんに送ってもらった。その一言は言葉にならなかった。何故か分からないけど、天野君に翡翠さんの事を知られたくなかった。天野君だけじゃない。出来ることならば誰にも。翡翠さんのことを知っているのは自分だけでいい。


「初めてだと迷うだろ。よく帰ってこれたな」

「あーうん……大変だった」


 罪悪感で天野君を見て居られず目をそらす。それを見た天野君は、僕が昨日の苦労を思い出しているのだと勘違いしたらしく、再び「ごめん」と謝った。そのたびに、チクチクと僕の良心に罪悪感が突き刺さる。それでも僕は、真実を告げる気には全くならなかった。

 僕はどうしてしまったのだろう。翡翠さんに会ってから何かが変わってしまった気がする。


「ねえ、天野君……立ち入り禁止区間に監禁されている蝶の話って、誰から聞いたの」


 視線をそらしていた僕が突然目を合わせたので、天野君は虚をつかれた顔をした。何で急にという顔をしながらも、律儀に天野君は答えてくれる。


「俺がここにきて一カ月後くらいに退院してった先輩から。ここに来たばっかりの時は色々教えてもらったんだよ。ルールとか人とのかかわり方とか、暇つぶしの仕方とか」


 その暇つぶしの一つが、禁止区間の探索だったんだ。そう僕は理解した。その過程で清水さんは翡翠さんと会い、翡翠さんと仲良くなった。それから天野君とも仲良くなり、立ち入り禁止区間のことを教えた。しかし翅の保管庫の話、翡翠さんの噂は教えても翡翠さん自身のことは教えなかった。

 それは天野君に楽しみを残すための清水さんなりのサプライズだったのか。それとも僕と同じく、わざと言わなかったのだろうか。翡翠さんを独占するために。


「……やっぱり昨日、なんかあったのか?」


 黙り込む僕を見て天野君が心配そうな顔をする。僕の顔をじっとのぞき込んでくる天野君の瞳は純粋だった。吊り上がったきつめの瞳、染めた金色の髪。口だって悪いし、行動も大人しいとは言えない。それでも、僕よりもよほど純粋で綺麗な子だ。そう僕は翡翠さんに会ってよく分かった。


「何でもないよ。ちょっとびっくりしただけ」


 人生で初めて作り笑いを浮かべる。初めての事だったので上手くできた自信はない。目を見開いた天野君の反応を見るに、ずいぶんと不格好だったようだ。

 それでも僕は、笑顔を浮かべ続ける。脳裏には透明な笑顔を浮かべた翡翠さんがいた。その姿を強く思い浮かべると、造り物の笑みが本物に近づいていく。


「……何かあったら、相談しろよ」

「何もないって」


 小さく僕は笑うけれど、天野君は納得いかない顔をしていた。それでも踏み込んでは来ない。

 本当に天野君は良い子だ。僕よりもよほど、心も綺麗な子だ。きっと翡翠さんも僕よりも、清水さんの後輩で綺麗な天野君の方がいいに違いない。天野君だって翡翠さんにあったら、あの美しさに心を奪われるだろう。

 だからこそ、僕は、天野君に真実を伝えることは絶対にしない。


「翅の保管庫、また探しに行くの?」

「あー……四谷に目つけられたからなあ……しばらくは大人しくしとく」


 あの後、よほどこってり絞られたのか天野君は眉間にしわを寄せた。

 僕のせいでという罪悪感よりも、翡翠さんと天野君が出会う確率が減ったことに喜ぶ僕は何て嫌な人間だろう。そう心の中で自分を嫌悪する。でも嬉しいと思ってしまうのは事実で、否定しようがなかった。


「俺の巻き添え食わせるといけねえから、しばらくは近づかねえ。友達と仲良くしろよ」


 天野君はそういうと立ち上がる。あまり長居をして共犯だったとバレるとまずいと思ったのだろう、「じゃあな」といってあっさり部屋を出ていった。それに手を振り返しながら僕は考える。

 友達。それが急に遠い言葉のように思えた。ここに来てできた友達の事も、前の学校の友達のことも。家族ですら酷く遠い気がしてくる。ぼんやりした思考に恐怖を覚えるよりも先に、昨日みた光景がフラッシュバックする。


「……会いにいかなきゃ……」


 ふらりと僕はベッドから立ち上がる。

 昨日、今日だ。四谷という人が警戒しているかもしれない。そう冷静な思考がブレーキをかけたけど、理性が焼き切れて上手く動かない。ただ漠然と、行かなければいけない。そう思う。


 この感情は何なのか。ドロドロと煮えたぎり、体の中を埋め尽くす。これは一体何なのだろう。恋というには汚く、重すぎる。だって恋はもっと、軽くてきれいなもののはずだ。僕の背中に揺れる翅のように。


 自分の背後にひらめく、薄紫の翅を見た。恋をしたら落ちるはずのそれは、今日もそこにある。だから僕は恋などしていない。これからもするつもりはない。


 おそらく翡翠さんはここから出られない。なんとなくそう思う。

 クピド症候群は二十歳までの患者が発症する。成人してから発症する人間は確認されていない。ということは成人している翡翠さんは数年はここにいることになる。

 ならば僕もここに残る。翡翠さんがここから出る日まで。


 昨日とは真逆な思考に僕はクスクスと笑った。あれほど帰りたかったのに、日常に戻りたかったのに、翅が邪魔だったのに。今はこんなにも翅が愛おしい。

 薄紫の翅をゆっくりとなでる。自然とこぼれる笑みを隠すことはせず、僕は部屋を後にした。地に足がついていないようなふわふわとした足取りは、光に恋焦がれる虫のよう。そのうち焦がれるあまりに焼け死んでしまうだろうけど、それでも僕はいいと思った。


 焼かれて死ぬと分かっていても、僕は眩しい光が欲しかった。

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