1-4 草食系の苦悩

 僕がクピド症候群を発症したのは、大学受験真っただ中だった。

 受験に対する不安やストレスはあったものの、僕は周囲の友人たちと同じく当たり前に大学に行き、あたり前に就職する。そう考えていたし、その未来を疑いもしなかった。その未来を少しでも良くするために勉強していたのである。


 僕はやりたいことも特になかったので自宅から通える合格圏内の大学を受験するつもりだった。油断は出来ないが必死になるほどでもない。毎日地道に真面目に勉強していれば問題はない。友人たちと勉強会をしたり、たまに息抜きをしたり。それなりに充実した毎日を送っていたと思う。


 未来への不安はあった。けれど逃げ出したいほどではない。これは当たり前に皆の前に立ちふさがる課題であり、クリアできるのが当たり前。そう思っていた。

 だから突然ふってきた予想外のアクシデントに僕はとても動揺した。それにより今まで通っていた学校を休学するほかなくなり、初めて家を出ることになった。他と変わらない普通だったはずの僕の生活は病気というただ一つの現象で崩壊してしまったのだ。


 クピド症候群は死のリスクが少ない。

 早く治るかどうかは運としかいいようがないが治ったものは皆元気に暮らしている。不安になることはない。そう主治医には何度も言われた。僕にはそうは思えなかった。

 死ぬことはなくても病気が治るまでの間入院することは変わらない。その間に友人たちは、同級生は、社会は、自分を置いてドンドン進んでいくのではないか。そんな不安が消えなかった。


 無事に大学に合格したら卒業旅行にいこう。そう友達と話していた。大学にいってもたまに会って遊ぼうなと、それぞれが志望する大学の距離を調べ集合場所を考えたりしていた。

 不安はあっても希望もあったのだ。春になったら大学生。きっと新しい毎日が始まると、期待に胸を膨らませていたのだ。


 何で僕が病気になったのだろう。

 ふとそんなことを考えてしまう。受験から逃げ出したい。社会から逃げ出したい。そう思っている人はいる。学校のクラスメイトだってクピド症候群になったら受験しなくていいのにと冗談めかしていっていた。

 そう思う奴らが病気になればよかったのに。何故僕だったのだろう。

 日常が壊れることなんて、社会に置いていかれて閉じ込められることなんて望んでいない。恋がしたいとも思っていない。なのに、何で僕だったのか。

 そんなことを何度も、何度も考えてしまう。


 焦っているのだ。僕を取り巻く状況が何一つ変わっていないから。早く帰りたいのに、ここから出たいのに、出られる兆しが何も見つからないから。

 虫籠に入って数週間。僕は恋する相手を見つけられずにいた。


「辛気臭い顔してんなあ……」


 談話室に座ってぼんやりテレビを眺めていると、たまたま通りかかったらしい天野君が顔をしかめた。手には雑誌を持っているから、それを取りに来たのかもしれない。


 談話室にはファッション誌、漫画雑誌、新聞などが置かれている。病院から出られない患者のための数少ない娯楽でもあるが、社会とのかかわりを絶たないための配慮でもある。

 部屋にいると思考が暗い方へといってしまうこともあり、ここ数日は談話室で時間をつぶしていることが多い。ニュースや、ここに来る前に見ていたテレビ番組、ドラマを見ていると、自分も社会の中にいる。そう思えて安心できるのだ。


 天野君はあいまいな返事しかしない僕に眉を寄せると、僕が座っているソファーの隣に座る。僕と天野君の他には、隅の方で雑誌を読んだり、おしゃべりをしている子たちだけ。天野君が座るスペースは十分にある。それでも天野君が僕の隣に座ったのは、僕を心配してくれたのだろうか。


 そう思って天野君を見れば、天野君はさして興味なさそうな顔で雑誌を読み始めていた。その澄ました表情を見ていると、単純に部屋に戻るのが面倒だった気もしてくる。

 天野君とはあれからも何度か話しているが、何を考えているのかはよく分からない。ただ一つ、悪い人ではないというのは分かっているので、僕は再びテレビ画面に目を向ける。


「お前、一人ぐらいは話相手できたのか?」

「話相手くらいはいるよ……」

「んじゃ、何でこんなとこで辛気臭ぇ顔してんの?」


 天野君はチラリと僕の方を見る。気まぐれに思えたが、少しは心配してくれていたらしい。やはり良い人だなあと思う。同時に、年下であろう天野君に気を使わせている自分が、妙に恥ずかしくなった。

 何でもない。そう言おうとしたが、じっとこちらを見る瞳とかち合う。天野君の目は力強い。逸らすことなく真っすぐにこちらを見てくるから、正直に全てを話さなければいけない。そんな気持ちになる。


「……一人でいたいわけじゃないけど、ここに馴染むのも怖いっていうか……」

「なんだそれ」


 天野君は呆れた顔をした。自分でもめちゃくちゃなことを言っている自覚はあるので、下を向く。


「ここが居心地よくなっちゃったら、出られなくなっちゃいそうで……」

「そういう奴も確かにいるけどな。お前はそういうタイプじゃないだろ」


 帰りたいんだろ? と視線で天野君が訴えかけてくる。それに僕は頷いた。


「受験までもう少しだし、ここでこんなことしてる場合じゃないんだ。すぐに病気を治して、帰らなきゃいけないのに……」

「狙って出来るもんじゃないからな。恋なんて」


 天野君はそういいながら雑誌をパラパラとめくる。ちょうど開いたページにあったのは恋愛特集。思わず僕はのぞき込んでみるが、そこにあるのは意中の相手と仲良くなる方法。意中の相手を見つける方法は残念ながら書いていない。


「……天野君は、どのくらいここにいるの?」

「俺は半年ぐれぇ」

「半年!?」


 馴染んでいるとは思っていたが、想像したより長いことに僕は驚いた。そんな僕を見て、天野君は眉をよせる。


「半年なんて珍しくねえぞ。最初の顔合わせで相性のいい相手が見つかる奴は相当運がいいんだよ。施設内でいい相手がいなかったら、新しい発症者を待つしかねえ。つってもクピド症候群は発症率が低い。一年に一人か二人きたらいい方。お前が挨拶回りしてた時、お前が行く前に会いに来た奴らいただろ」


 天野君の言葉に、僕は数週間前を思い出す。蝶乃宮さんと施設内を回っていると、わざわざ僕に挨拶しに来てくれた人が何人もいた。

 初対面の人間に対する対応で忙しく、理由まで考える余裕がなかったが、何かしらの意図があったのか。


「会いに行った奴らは、お前と一緒。早く病気を治してここから出たい奴ら。そういう奴らは新入りが入るとすぐに様子見に行くんだ。恋が出来そうな相手かどうかな」

「じゃあ、僕に対して興味なさそうだった人達は?」

「ここが居心地よくて、出なくてもいいか。ってなってる奴か、成り行きに任せるマイペース。俺は前者」


 出なくてもいい。その言葉に僕は目を見開く。

 蝶乃宮さんもいっていたが、ここから出ないで居座るという考えを持つ人がいることに僕は驚いた。


「天野君は、家に帰りたくないの?」

「帰りたくないな」


 雑誌から視線を上げずに、キッパリと天野君は言い切った。

 いつにも増して声がきつく、鋭い。これは聞いてはいけないやつだ。そう感じた僕は「そっか」と呟いて視線を逸らす。


「前も言っただろ。恋は落ちるもんだって。悩んだところでどうしようもねえし。早く出たいっていうんだったら、積極的に女に声かけろよ」


 ごもっともな意見に僕は何も言えなくなる。

 天野君が言う通りで、早く出たいと思うなら、一人でぼんやり過ごしてないで、女の子と話すべきなのだ。それは僕も分かっているが、どうしても切っ掛けが、勇気が出ない。

 そんな僕の様子を見て、天野君はため息をついた。


「恋愛経験ゼロが、気持ちだけ焦ったってどうにもならねえだろ」

 再びごもっともすぎる意見に、僕は視線だけでなく頭ごと下を向いた。

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