1-2 悲観の朝
虫籠の中に入って三日目。僕は与えられた、やけに白い個室で目が覚めた。
未だに慣れない壁を見つめて、ああ、そうだ。入院したんだと状況を再確認してから起き上がる。ここに来てまだ三日だが、早くも帰りたくて仕方がなかった。医者もスタッフも、同じ入院患者も良い人だが、どうしても肌に合わない。
ゴロゴロと寝返りをうちたい気分だったが、背中の翅が邪魔をする。翅は神経と繋がっているらしく、ぶつけたり傷つけたりすれば痛む。押しつぶして寝ても同様のため、病気になってから僕はうつぶせで寝るようになった。しかし、これがなかなか慣れずに、うっかり寝返りを打って翅の痛みで目覚めることも多い。
今日は比較的眠れた方だが、だからといって気分はすぐれなかった。
今日からは自由にしていいと言われている。しかし、何をすればいいのか。
虫籠の中では他人と交流することを推奨される。それが昨日、一昨日で嫌というほど学んだことだ。
虫籠生活、最初の二日間は患者やスタッフへの挨拶巡りで終わった。
普通の病院であれば、入院患者がわざわざ自己紹介してまわる事などありえない。せいぜい同じ病室の人、人によっては挨拶すらせず退院することだってあるだろう。
その普通が、クピド症候群には通用しない。なぜなら、この病気の治療法は恋をすることのみ。恋をするためには人に出会わなければいけない。そのため入院患者は恋をする相手を探して施設中を歩き回るのである。
この一日目、二日目で一目ぼれに成功すれば、即日退院となる。
けれど、世の中はそううまく出来ていない。多くの人がここでは恋に巡り合えず、相手を探す。次の患者が来るまで待つか、施設内の人と交流をして人柄を知り、恋をする。そうしなければこの病院、虫籠から出ることは出来ないのだ。
恋愛経験の薄い僕からすると、頭の痛くなる話だ。
医者や看護師、スタッフ、患者と全ての人間と会って挨拶をしたのだが、ピンとくる人はいなかった。
恋をしなければ治らない。その特性から、虫籠の中にいる医者、スタッフは美形がそろえられているという噂は外でもよく聞いた。それが真実であると僕は初日で理解した。
蝶乃宮さんを含めて、男性も女性も、とにかく美形。系統も多種多様に取り揃えられており、どこからここまで集めてきたのか。そう思うほどの美形博覧会だった。それでも僕がピンとこなかったという事は、僕は顔で相手を選ぶ人間ではなかったらしい。
考えてみれば、今までの学校でも美少女と呼ばれる子はいた。遠目に見て、可愛いなと思ったこともあった。しかしそれは、あくまで憧れ。芸能人を見て可愛い。綺麗。そう思うのと同じ感覚で、恋愛感情にまでは結びついていなかったのだ。落ちない薄紫の翅を見て、僕は自分のことをやっと理解したのである。
これでは彼女が出来ないはずだ。そう肩を落とし、これから先の入院生活を思うと気が重くなった。
綺麗な外見だけで僕は恋することは出来ない。ということは、相手の内面を知らなければいけない。すなわち、僕の方から積極的に女性に話しかけなければいけないということだ。
いじめられたわけでもない。友達がいなかったわけでもない。クラスの中心とはいかなくても、隅の方で、それなりに楽しく毎日を過ごしていた。彼女は出来なかったし、彼女が出来たという話を聞けば羨ましいと思うこともあった。でもそれは、自分から積極的に作ろうというものではなく、いつか何かのめぐりあわせで出来たらいいなというとても淡い感情であり、友人にも「お前は草食すぎる」と何度も笑われたのだ。
そんな自分がだ、自分から積極的に女の子に声をかける。そんなことが果たして出来るのか。
虫籠に着て三日目にして、僕は絶望していた。出来る気が全くしなかったのである。
だからといって、個室に引きこもっていてもどうにもならない。
虫籠は一人一部屋であり、テレビやパソコン、ゲーム、本などの持ち込みも可能だ。しかし、お風呂やトイレは共同。食事も食堂でしか提供されない。
つまり、ずっと自室に引きこもっていることは不可能なのである。
恋をしなければ病気は治らない。それを考えれば、この仕組みは当然といえた。
恋は一人ではできない。出来る限り他人と接点を増やさなければ恋には発展しない。それは僕だってわかっているが、どうにも心細さ。不安が先に立つ。
それでも人間の生存本能。空腹には勝てなかったようで、ぐぅっというお腹の主張を聞いた僕は諦めて食堂へと向かうことにした。
食事の時間は決まっているものの、時間にはだいぶ余裕がある。病気の解明のための定期検査などはあるが、それ以外は自由に過ごしていいらしい。
談話室、図書室、娯楽室などがそろえられており、温室と呼ばれる場所が外から見える巨大なドーム。そこでは飛行が許されている。羽根を動かし、空を飛ぶことが出来るのだという。ただベンチに座って日光浴するのもいいというのは蝶乃宮さんの話だったが、空を飛ぶ子供を見ながら日光浴なんてした日には、自分が日常を生きているのか分からなくなりそうだ。
食堂で出されるメニューを受け取って、僕は空いている席に座る。
出入りが激しい場所だとは聞いていたが、食堂はすでにいくつかのグループが出来上がっていた。一人で食べている子もちらほらといるが、何人かで賑やかに食べている子たちが中央付近を牛耳っている。
こういうところは虫籠の中も、学校も変わらないんだなと思いながら、隅の方の席に落ち着いた。
栄養バランスを考えられたご飯は美味しい。店で出される料理のように綺麗に盛り付けられているのは食欲をそそる。けれど、家で家族と一緒に食べするご飯に比べると味気ない気がした。
チラリと周囲を見れば、楽し気にしゃべりながら食事をする子たちの姿が目に入る。その背後には自分と同じ翅。黄色、緑、赤、透明。様々な色と形の羽根をもった子たちが、談笑し、同じ食べ物を口へと運んでいる。
同じ病気。同じ境遇。それなのに、僕だけが切り離された遠くにいるような気がして、気が滅入る。僕は早くここを出て、家に、学校に、普通の毎日に戻りたいだけなのに、そこまでの道のりがずいぶん遠く感じた。
「僕はちゃんと退院できるんだろうか……」
「入院三日目で悲観すんのは、早すぎね?」
独り言に返事がかえってきて、僕は持っていたはしを取り落としそうになった。何とかはしを捕まえて、顔を上げれば、トレイをもった少年が呆れた様子で僕を見下ろしている。
おそらくは年下。気が強そうな釣り目を含めて、やんちゃそうな見た目の少年だ。髪は染めたであろう金色。耳にはピアスを付けているし、胸元は不必要に空いていた。
首から下げられた名札には「
「お前、一昨日来た新入りだろ?」
天野君はそういうと、当たり前のように僕の前の椅子を引いて座る。その時、淡いピンク色の翅が目についた。見た目のわりに可愛らしい翅だなと、つい凝視してしまう。それに気づいた天野君は自分の翅を軽く引っ張って笑った。
「似合わねえだろ。ピンク色なんて。俺も思う」
「えっいや、そんなことは……」
「あった奴には大抵言われるから、気にすんな。慣れた」
そう言いながら、天野君は茶碗を手に取った。がつがつ食べるのかと思いきや、はしの持ち方も綺麗だし、食べる動作は落ち着いている。それにまた意外だと思い、そう思った自分を恥じた。見た目で不良だ、怖い人だと思ってしまったが、僕の不躾な視線にも怒らなかった。気にするなとまで言ってくれた。悪い人ではないのだろう。
「えっと、昨日はろくに話が出来なかったね……」
「なんだ、覚えてたのか」
天野君は僕の反応に驚いた様子で目を丸くする。
「接点作るのが目的っていっても、ここにいるやつ全員だろ。俺なんか全然覚えられなかったのに、お前すごいな」
「えっいや、それほどでも……」
純粋に感心され、罪悪感がグサグサと突き刺さる。
関わったら怖そうな人だから覚えていた。なんて本音を言えるはずもなく「たまたまね」と言いながら僕は視線をそらした。
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