クピドの虫籠

黒月水羽

【村瀬直】火に入る 

1-1 虫籠の中へ

 虫籠。

 目の前には世間から、そう呼ばれている建物がそびえたっている。突き出たドーム状の建物は一面ガラス張り。外からも中にある緑が伺えるのだから、中から見ても今日の青空はよく見えている事だろう。ドームを区切るように支える白い柱は、遠目で見ると巨大な鳥籠に見える。中にいる存在を外に逃がさないように。同時に、外部から傷つけられないように守る籠。

 今からそこに入るのだと思うと、期待よりも不安を覚える。


 ドームの中を凝視すると、いくつか人影が見えたような気がした。ドームの上層。普通の人間であればまず届かない空中に。

 一般社会であれば見間違いと言われる現象も、ここが虫籠だと思えば違う意味になる。おそらくは僕と同類。もしくは先輩。

 目を凝らせば人影の背に、太陽光でキラキラと輝く蝶の翅が見えた気がする。


「心配しなくても、すぐに出られるわ」


 虫籠を凝視していると、ここまで案内してくれた女性が明るい笑顔を浮かべた。首から下げた名札には「蝶乃宮ちょうのみや」と書かれている。


「ここに来て、数日後には出ていった子もいるから。長くても数年。ほとんどの子が元気に出ていったわ」


 あくまで穏やかに明るく、蝶乃宮さんは言葉をつづけた。僕を安心させようという意図がよくわかる。僕以外にも不安に感じる子はいたのだろう。だからこそ蝶乃宮さんは、あくまで軽い口調で話すのだ。僕を不安がらせないために。

 しかし、それが分かっても、いや分かったからこそ僕は「ほとんど」という部分が気になった。


「ほとんどっていうことは、出られなかった人もいたんですか?」


 僕の質問に蝶乃宮さんは目を見開く。それからバツが悪そうな顔をした。気付かれたくない部分を気付かれた。そんな顔。


「一人もいない。というのは嘘になるわね。ここが出来てから、ずっとここにいる子もいるわ。あっ、でも心配しないで。そういう子はここが気に入って積極的に居座ってるような、ちょっと変わった子くらいよ」


 蝶乃宮さんは何とも言えない顔で苦笑した。それが事実であれば、蝶乃宮さん含めたスタッフはさぞかし手を焼いている事だろう。

 同時に僕は不思議に思う。積極的に居座っているということは、その人たちはこの虫籠から出る気がないということだ。


 僕は改めて白いドームを見上げる。

 太陽光を浴びてキラキラと輝くドームは綺麗だ。ここが植物園であったら、素晴らしいデートスポットになっただろう。しかし、この施設が何の施設であるか知っている身からすれば、そうのん気には思えない。


「ここは、気に入るほどいい所なんですか……」

「よく言われるのは、出入りが自由だったら最高ってことね」


 蝶乃宮さんは肩をすくめる。それに僕は小さく笑う。

 たしかに、一度入ったら病気が治るまで出られない。そう思うから陰鬱な雰囲気を感じてしまうだけで、観光に訪れるなら素晴らしい場所だろう。


「だから、あんまり悲観しないで。ちょっとした旅行か合宿だとでも思って。高校や大学と比べても年齢層が幅広いし、ここでの出会いが社会に出てから役に立つこともあるのだから」


 あくまで前向きに。楽しんでと蝶乃宮さんは僕の背に軽く触れる。

 病気は気からというし、悲観するよりは楽しんだ方がいいのだろう。いくら悩んだところで、治るとは限らない。むしろ、悩みすぎた方が治らないかもしれない。僕が抱えているのはそういう病気だ。


「では改めて、蝶乃宮病院へようこそ」


 僕の体から少し緊張が抜けたのがわかったのか、蝶乃宮さんは茶目っ気たっぷりに両手を広げた。

 青空をバックに笑顔を浮かべる蝶乃宮さんは、一枚の絵画のように美しかった。女性らしい長くきれいな髪に白い肌。健康的な赤い唇。細い手足。豊かな胸。異性が好む要素を全て取りそろえたような女性だが、身に着けているのは清潔感だけがずば抜けている白衣。逆にいえば、それだけが唯一、ここが病院である証明のような気がした。


「まあ、正式名称よりも、クピドの虫籠って名前の方が世間にはなじみ深いかもしれないけど」


 蝶乃宮さんはそういって苦笑する。どこか拗ねたようにも感じる言葉に、僕は曖昧な笑みを返す。僕も蝶乃宮さんがいう世間一般の一人だったからだ。


「世間では、見目麗しい顔と翅をもつ子供を監禁し、標本にしているなんて噂もあるみたいだけど、そんなことは一切ないから。安心して」


 蝶乃宮さんはそういって肩をすくめる。初めて聞く噂に僕はドキリとしたのだけど、気にしていないふりを貫いた。あくまで噂だと言っている相手の前で、しかも病院と同じ名前を持つ人物の前で、怯えるのは失礼だと思ったのだ。


「あっそうだ。暑いし、窮屈だったでしょう。ここまで来たら脱いでも大丈夫よ」


 思い出したように蝶乃宮さんはそういって僕を見た。

 僕は少し戸惑って、周囲に誰もいないかを確認した。ここでは問題ない。そう頭では分かっていても、今まで誰にも見られないように。そう注意を払っていた癖が抜けきれない。

 ゆっくりと目深にかぶっていたフードをとる。途端に視界が広くなって、吹き抜ける風で涼しさを覚えた。それから体を覆い隠すように着ていたガウンを脱ぐ。涼しくなったことに嬉しさを覚えるのと同時、僕の気持ちを体現するように背中の翅が揺れ、大きく開く。

 ガウンの下で折りたたまれていた翅が、太陽光を浴びたいと叫ぶように空を向く。それによる高揚を僕は無視できず、確かにこれは体の一部なのだと認めるほかなかった。


「薄紫……綺麗な翅ね」


 蝶乃宮さんは目を細めて僕の翅を見る。これは社交辞令ではなく本音だと分かったので、僕はくすぐったい気持ちになった。同時に複雑な気持ちにもなる。これは僕の体の一部に違いないが、僕にとっては異物ともいえる。

 蝶のような虫の翅。普通の人間にはありえない。あってはならないもの。


「ついてきて、施設を案内しながら、他の子たちを紹介するわ」


 女性に手招きされて、僕は後をついていく。目の前に広がる現実。ファンタジーだと言われた方が納得いく現状に違和感を覚えても、それに抗う術を僕は持っていない。


 クピド症候群。

 ここ十年の間に発見され、広がった奇病。患者は全員二十歳までの子供。成長の過程に置いて、遺伝子に何らかの問題が起こるために発症するなどと言われてはいるが、原因は未だ不明。

 特徴は背中に蝶のような翅が生えること。これは発症した子供によって色も形も違う。それにより空を飛ぶこともできる。

 病気が発見された理由はこの特徴により、空を飛ぶ子供が複数目撃されたことだった。当時はワイドショーを大いににぎわし、「飛翔病」と命名された。それが現在では「クピド症候群」に改名されている。

 クピドとは、キューピッドとも言われる神である。人間に愛の矢をうち、うったもの同士を結びつける。そうした縁結びの印象もある神が、なぜ病気の名称に使われたかといえば理由は簡単。

 クピド症候群は、誰かに恋をすれば治るのである。

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