薄赤色の星

moga

薄赤色の星

 暗い山道を抜けると、一気に視界が明るくなった。すっかり開け放されてこぼれ落ちそうなほどの星を湛えた空は、僕の記憶にあるままで、安心する。山の中腹に突き出た大きな空き地。昼間は子供たちが走り回っていたこの場所も、今は人気がない。遠くの方の祭囃子と生き物たちの鳴き声が、僕に感じ取れる音のすべてだった。


 手持ち無沙汰。ハルを待たせているかと思って急ぎ足で来たのだけれど、その必要はなかったみたいだ。空き地の端は展望台のようになっていて、塗装の剥がれかかったベンチが置かれている。そこから数歩、転落注意の看板が取り付けられた少し高めの木の手すりに寄りかかって、僕は眼下の町を眺めた。田舎町とは思えないくらいの人通り。住民ととでにぎわっている。年に一度のお祭りだ。


 この町には、八月の新月の夜に、誰かに強く想われた死者があの世から戻ってくるという不思議な風習がある。死者といっても、言葉を交わすことはもちろん、触れ合うことだってできるほど、リアルな存在として戻ってくることができてしまう。そんな不思議な一夜だ。


 町を歩く誰もが楽しそうに、嬉しそうに笑いあっている。ここで生まれ育った僕にとってはあたりまえだと思っていた光景。でも本当はそうじゃないって知ったのは町を離れた後のことだった。


 いろんな場所のひとと話して、僕の故郷は異質な場所なんだってことに気付いた時、なんとなくむず痒いような感じがしたのを今でも覚えている。それは決して嫌なものではなくて、例えるなら好きな映画を褒められて自分まで嬉しくなってしまうような、そんな気持ちが――――。


 やにわに気配を感じて振り向く。白いワンピースに、同じくらい白く伸びた手足。声を漏らさないようにするためか口をぎゅっと引き結んだ、お手本みたいな忍び足の体勢で固まる少女がひとり。ハルだ。


「や……やっほー。久しぶりだね」


 ハルはそう言って何事も無かったかのように立ち直ると、僕に歩み寄ってきた。相変わらず治っていないらしいイタズラ癖に、呆れる僕の手の届く距離まで近づいてくる。互いの視線がまっすぐぶつかり、瞬間、僕は自分の目を疑った。だって。


「あれぇ? もしかして、アキくんちょっと身長伸びた?」


 新しいおもちゃを買ってもらった幼子――というには少し邪悪がすぎるしたり顔。僕をからかうときには決まって顔にはりついていたこの表情も、記憶とさして変わりない。最後に会ってから一年も経っているはずなのに。


 別離なんてものはどこにもなくて、ずっと日常の一部だったみたいなこの距離感に、心が安らぐ。でもむかつくのには違いない。


「……伸びてなんかない。そっちこそ、なんか大きくなってない?」

「どうだろ、ちょっと伸びたりしてるかもしれないねー……ま、わたしの方がアキくんよりおねえちゃんだからね! 身長で勝てなくても仕方ないよね! ね! ……痛ぁっ」

「誕生日なら、半年くらいしか違わないだろ」


 得意げな顔で僕を見下ろすハルにデコピンをかまして、僕はベンチに腰掛ける。わざとらしく額を押さえ「痛いよー」などと言っていたハルも、僕の横に並んで座った。


 夏特有の、肌にまとわりつくような空気が辺りをうろついている。横に目をやると、ハルは満天に手を伸ばし、何かを掴んだように手を握り、落胆していた。そしてまた手を空へやり同じことを繰り返す。何度も何度も、真剣な顔で空振りを続けるハルを、僕はさすがに不審に思って尋ねた。


「さっきからなにしてるの?」

「ん? 昔さ、おじさんがわたしたちに星を取ってくれたことあったでしょ? あれやってみようと思って」

「……あったね、そんなこと」


 懐かしい記憶だ。まだ僕もハルも小学校低学年ぐらいの頃だったか、父さんと僕とハルの三人で、星を観に行ったことがあった。そこの夜空はこの空き地以上に絢爛に飾り付けられていて、正直、圧倒された。それを見ていると、なんだか無性に泣きたくなって仕方なかった。


 一方のハルはというと、手を伸ばせば届きそうなほどひとつひとつのきらめきがとても近くに感じられたからか、がんばって背伸びして、精一杯高く跳んで、その光を手にしようと格闘していた。父さんはそんな対照的な僕らに笑って、手を差し出した。


「ハルちゃん、はい。お星さまだよ」


 その手の上には青と黄色の金平糖がひとつずつ。僕は確か、青い方をもらって食べた。もう味はあまり思い出せないけれど、それまで何度となく口にしてきた金平糖とは、なんとなく違う気がした。父さんの手にあったあれは簡単な子供騙しなどではなく、本当にお星さまだったんじゃないか、なんて妙な考えが離れなかった。


「ダメかぁ……あの頃は毎日が楽しかったな。ま、今も十分楽しいんだけどさ」


 ハルは手を下ろしてそう言うと、勢いよく立ち上がって展望台の先に立つ。僕も彼女の横に並んで、再び町に目を向けた。手すりを掴む手に、妙に力が入っているのが気になる。だがそれについて尋ねるよりも先に、ハルが口を開いた。


「逢えるのが、話ができるのが一年に一度だからってさ、特別なことなんてしなくていい。道すがらの暇つぶしみたいな、なんでもない、ただ少しの間笑えるくらいの話ができたら、それでいいって思ってたんだ」

「今は、違うの?」

「いいや、違わない。けど――」


 ハルはそこで言葉を切って、僕の方へと向き直り、顔を覗きこんでくる。鼻先があと少しで触れるほどの距離感。堪らず一歩、身体を引こうとするが、僅かにはやく手を掴んで止められる。暖かい、というより熱いハルの手のひらは、じんわりと汗が滲んでいた。


「アキくんの手、氷みたいに冷たいね。ひんやりしてて、気持ちいい」

「そりゃそうでしょ……死人、なんだから」


 むしろ、暖かかったら気持ち悪いとさえ思う。町にいる他のひと達はどうか知らないけれど、僕はいま一度生命を得たいなんて思ったことは、一度だってない。もうすでに喪われたはずのものが、一晩だけ現れてまだ生きているフリをするなんて、不気味だし、何より悲しすぎる。


 ただハルに逢いたくないといっても嘘になってしまうから、結局僕は、いまの関係に甘えてしまっているんだろう。彼女が逢いたいと願ってくれて、一年に一度だけ星を見ながらなんでもない話をする。恋とか愛とか、そんな大仰なものじゃなくて、大切に思い合える親友として。そのぐらいの、距離感で。


「ねえ」僕の手を掴んだままのハルが言う。「あの世ってどんな感じなの?」


 相変わらず近い距離。頬が熱く感じる。けどたぶん気のせいだ。ハルに動揺を気取られないように、どうにか心を落ち着けて答える。


「そこそこ楽しくて、そこそこつまらない。細かいところまでは、さすがに言えないよ」

「どうして?」

「生きてるうちからあの世のことなんて知りたくないだろ? 来てからのお楽しみにしときなよ」


 なるほどね。ハルはそう呟いて、僕の手を離した。まったく、心臓に悪い。ほっと胸を撫で下ろす。ハルは空いた手をワンピースのポケットに突っ込んで、小さな袋を取り出した。袋の口を開け、中身を手に取る。なんだろう 、暗くてよく見えない。目を凝らしてそれを見ようとする僕に、ハルは手を差し出して、言った。


「アキくん、はい。お星さまだよ」


 その手には、薄赤色の金平糖が乗っている。あまりに唐突な思い出の焼き直しに、僕はただただ困惑した。とりあえずそれを受け取って、口にする。


「いつかさ、あの時の金平糖ってなにか特別なものだったのか、みたいなこと言ってたよね」

「……うん」

「だからおじさんに聞いてみたんだ。あの金平糖ってどこで手に入れたんですかって」


 ハルは口元をいたずらっぽく歪めて、続ける。


「道中のコンビニ、なんだって。笑っちゃうよね。わたしたちの一生の思い出がそんなお手ごろにつくられてたなんてさ」

「お手ごろだから、いいんだろ。つくりこまれた感動だったら、ここまで覚えてられないよ」

「ふふっ……そうだね。ちなみにそれは下の屋台で二百円で売ってたやつなんだけど、お味はどう?」


 ハルはそう言って、僕にちらりと視線を向けた。噛んで砕いて、すっかり溶けきった薄赤を思う。ひとつ、ふたつ、息をするくらい考えて、答えた。


「真っ当に甘くて、美味しい。けどあの時のものとは、やっぱり違うよ」

「……そっか」

「あの時のお星さまとはまた違う、特別だ」

「っ……そっか」


 ハルは袋からもうひとつ金平糖を取り出すと、勢いよく口に放り込んで、笑みを浮かべる。気付けば祭囃子はもう聞こえない。あるのはどこか遠い生きた気配と隣の少女の息遣いだけ。もう祭りも終わる時間だ。


「もうおしまいみたいだからいうけどさ、ほんとはさっき、キスしてやろうと思ってたんだよね。でもやめた」


 それをしちゃったら、もう逢えない気がしたんだ。なんとなく、だけどね。


 ハルはそう続けて、空を仰ぐ。その複雑な声色は、僕には到底読み解けなくて。わからないまま、僕はハルに言葉を返す。


「あの、ありがとう。キスしないでくれて」

「ふーん……アキくんは、したくなかったんだ」

「そういうわけじゃっ……ないけど」

「じゃあなに?」

「来年も、再来年も、こうやって話がしたいから。もう逢えないなんて嫌だから。キスしてお別れなんて、ドラマの中だけで十分だよ」


 ハルは顔を隠すように俯いていた。だけど僕からは――彼女より少し目線の低い僕からは、なにかに耐えるように唇を噛む様子がはっきりと見えてしまって。それが少し、悔しい。


 後ろに引かれるような感覚。本当にもう、お別れみたいだ。それに気付いたのか、ハルは慌てて口を開く。


「――あの、アキくん」

「うん?」

「また、逢えるかな?」

「君次第だよ」

「じゃあ逢えるね、きっと」

「……ありがとう」

「こちらこそ、だよ……またね、アキくん」

「うん、また――」


 一緒に、星を。


 遠くに溶けて、消えてしまった薄赤の微かな声に手を振って、いたずらっぽく口を歪めた。

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