ミウ

 さざなみが聞こえる。

 夜の闇に沈んだ海は、おだやかでとても静かだ。月のやわらかな光が、海の上で揺れている。打ち寄せる波を見下ろす岩場に、僕は立っていた。

 こうして海に来るのは、何年ぶりになるだろう。勇気を出して僕が1歩足を踏み出した時、どこからか「声」が聞こえたような気がした。

 おもわずまわりを見まわした。足元には、打ち寄せてはしぶきをあげる白波。ふり返ると、放置された車椅子が見える。


「………」


 幻聴だ。もう1度体を海へ傾けたとき、僕の耳は今度こそ「声」をとらえた。まわりを見ても、何もいない。でも、その悲しげな声を放っておけなくて、僕はおもわず話しかけた。


「どうして、泣いているの?何かあった?」


 どんなに待っても、質問の答えは返ってこない。僕はおかしいと思った。だって、いつもなら答えてくれるのに。


 そのときだ。満月の下で揺れていた暗い水面が盛り上がり、そこから姿を現した黒い何かが白波を空へと吹き上げる。クジラ、という言葉が出てくるまで、少し時間がかかった。


 窓の外で、蝉がじりじりと鳴いている。

 顔を覗き込んできた女の子に、僕はにっこりと笑った。

 彼女の名前はミウちゃん。


「ミウちゃん。僕は昨日、クジラを見たんだよ」

「くじら?」


 不思議そうに、彼女は首をかしげた。

 それは、ゆうべ僕が見た夢だった。最近、時々見る。恐ろしい顔で襲ってきたり、小さな川の中を泳いでいたり、最初は正直あまりいい印象はなかったけど、ゆうべは違った。ただただ「すごい」と感動した。会えてうれしかった。


「泳ぐのがすごく早くてね、僕は大きな口で食べられちゃったんだ」


 それは彼女を驚かせるつもりで言った冗談だったが、ミウちゃんは丸い目を何度かしばたたかせた。彼女にとって、これはあまり面白い話題じゃなかったのかもしれない。それ以上会話は続かず、ミウちゃんは僕のベッドに腰かけた。


 彼女は難病をかかえていて、僕より長くこの病院にいるらしい。

 僕が入院したばかりの頃、病院のことをいろいろ教えてくれた。病院に出てくるオバケの話。院長先生は、実はカツラじゃないかという噂。病気の辛さも感じさせない明るい顔で、僕を元気づけてくれた。話すようになってから、半年はたっただろう。彼女は毎日僕のもとにやってきて、近況を話してくれる。


 そして今日も、その時間がやってきた。さっきまで、視力検査に行っていたらしい。以前は見えなかった、とても小さいC(右)とU(上)が見えたそうで、とても喜んでいる。……かと思えば、今度は新しい薬がとても苦いそうで、もう2度と飲みたくないと不機嫌になる。コロコロ変わる彼女の顔を見て、僕はうんうんと相づちをうつ。ひと通り話し終えたミウちゃんは、ベッドから腰をあげた。


「外であそぼ!」


 今日は例年より暑いと、待合フロアのテレビの中で、気象予報士の女性が言っていた。こんな日に外に出たら、僕はともかく彼女はきっと倒れてしまうかも。


「ダメだよ。病気なんだから」

「みんなそればっかり!ミウはげんきだもん!」

「はいはい」


 頭をくしゃくしゃとなでると、ミウちゃんは僕の手をふり払った。


 大海原は、どこまでも自由だ。無事に退院した僕は、久しぶりに旅行に行こうと、フェリーに乗り込んだ。風が心地いい。広い海を眺めていると「クジラだ」と男性が海を指さしたので、僕も示された方角へ目を向ける。

 たしかに、いた。手すりにしがみついて、僕はおもわず「がんばれ」とクジラに叫んでいた。


 外から聞こえる野球帽の子ども達の笑い声に、彼らはずいぶん早起きだなとぼんやり考えた。リハビリを終えて病室に戻った僕は、いつものようにミウちゃんの話し相手になる。でも今日の彼女は、お気に入りのぬいぐるみを抱いたまま俯いている。


「なにかあったの?」

「……」


 答えない。大好きなひまわりを見せても、貰ったお菓子を見せても何も反応しない。僕はどうして何もできないのだろう。彼女はいつも元気づけてくれるのに。ふと窓の外を見ると、今日は曇り空。いつもより涼しい風が、病室のカーテンを揺らしている。


「そうだ。ミウちゃん、外に行く?」

「むり。だめって言われてるもん」

「じゃあ、あそこはどうかな?」


 それほど広くはないが、1階にたしかに外に出られるスペースがあった。地図の案内図を示すとミウちゃんは行ったことがないそうで、今度こそ彼女は目を輝かせて行きたいと叫んだ。しかし。


「おそとじゃない」


 ミウちゃんは、不機嫌そうに頬をふくらませた。


 内科の診察室から少し離れた場所にある、子どもから見れば大きいガラスの扉。そこを開けた先は、ベンチをひとつ置くのが精一杯の、来院者用の喫煙所をかねた休憩スペースで患者も時々利用する。公園や中庭というほど広くはない。ベンチでは、ミウちゃんと同じ年頃の男の子がラムネを飲んでいる。


「やだ!あっちがいい!」


 ミウちゃんは、玄関の外を指さした。その先には来院者用の駐車場があり、それを抜けた先には公園がある。


「外じゃん」


 ラムネ瓶を持った男の子が、ぶっきらぼうに言った。


「ちがう!おそとはもうちょっとひろいもん!」

「きみも、体のどこかが悪いのかな?」

「ママのお見舞いにきた。でもパパが、てきとうに遊んできていいって」

「じゃあ、ミウが病院のことおしえてあげるー!」


 一瞬で元気を取り戻したミウちゃんが、男の子をひっぱっていく。僕はベンチに座って、2人の様子を眺めた。病室で見た暗い顔が、まるで嘘のよう。彼女はどうして元気がなかったんだろう。ミウちゃん本人に聞いてみても「もう忘れちゃった!」と答えるだけ。でもやっと、僕にも彼女を元気づけることができたのかもしれない。


 その日の夜、僕はクジラに会わなかった。ただ、遠いところであわただしい声が聞こえたような気がした。いつの間にか朝を迎えていて、こんなにすがすがしい朝はいつぶりだろうと両腕を伸ばす。


 ミウちゃんとは「外」で遊んだのを機に会っていない。今日で3日目だ。治療の邪魔をするわけにもいかず、僕のほうからたずねることはなかったけど、ここにいればいつでも会えるから。でも、意外にも早く別れのときがきてしまった。


 今日、僕は退院する。予定より早く支度を終えたので、きっとこれが最後になるかもしれないからと、ミウちゃんの病室へ向かうことにした。たずねて来るのはいつもミウちゃんの方だったから、今日は彼女をびっくりさせようと思う。


 何度も病室の番号を確認して、慎重にドアをノックする。どうぞ、という大人の声が返ってきた。入室すると、看護師さんとミウちゃんの主治医であるタケダ先生がいた。ミウちゃんはーーーーいない?


「すいません。コウダミウちゃんは、今どちらに?」

「神田美海ちゃんは、3日前に容態が急変しまして、急遽べつの病院に移りました」

「え?」


 この後どうやって自分の病室に戻ったのか覚えていない。今にもひょっこり出てきそうなのに、彼女はもうこの病院にいないなんて。もしかして、外で遊んだから?あれが原因で、病状が悪化した?どんなに考えても答えは出ない。

 押し寄せてくる嫌な波をふりはらって、僕は片付けるのを忘れていたひまわりの造花を手に取った。


「ミウちゃん、一緒にクジラに会いにいこう」


 たくさんの人々に見送られながら、僕は病院の出口を目指す。久しぶりの外は、真夏の音に満ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミウ 須藤 @sudokaren

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ