後編

「どうしたの? 帰ってからずっとむすっとしちゃって」

 夕ご飯を食べている俺を見て、お母さんが言った。

「別に、なんもないよ。ヨシノブたちと海に行って、それからと会って色々話して……疲れただけだよ」

「そう? でもなんだか、長谷川さんに会いに行く前と後で全然表情とかテンションが違う気がするんだけど」

「そりゃ、疲れたからね。一晩寝たらスッキリするさ」

「そう? なら良いんだけどね。……それと、宿題、ちゃんとやってる?」

 お母さんの言葉に俺は耳を塞ぎたくなる。話題が宿題だからじゃない。会話そのものが面倒に思えた。

「ちょっとタケル?」

「なんだよ急に。夏休みは始まったばかりだし、これからやるつもりなんだよ」

「あんたねえ。いっつもそんなこと言っておいて最後まで残して、夏休みが終わる一週間前にてんてこ舞いしてるじゃない。

 あ! そういえば去年だって、お母さんとお父さんに泣きついてたでしょ!」

「去年までは小学生だったからね。今年は違うの。俺はもう中学生なの。今年からはちゃんと計画的にやるって決めたの」

「どうだか。ねえ、お父さんからもビシッとなんか言ってあげてよ。今言っとかないと、後で困るのはタケルなんだから」

 お母さんはお父さんの指示を仰ぐ。お父さんは今まで黙々とご飯を食べていた手を止めて、口を開いた。

「そうだなあ……タケル。学生の夏は宝物みたいなもんだからな。出来る限り自分の好きなことをしなさい」

「は? ちょっとお父さん?」

 思わぬ援軍にお母さんは狼狽えた。

「まあまあ、母さん。いいかタケル。今、お父さんは出来る限り好きなことをしなさいって言ったよな? これはな、全部遊べってわけじゃないんだ。自分の好きなことをする時間を出来る限り、自分で作れってことなんだ」

「自分で作る……」

「そう、自分で作る。ゲームだって、一日中やったら大抵は飽きる。勉強だってそうだ。まとめてやろうとしたら、ただでさえ辛い勉強がもっと辛くなる」

「うん」

「楽しいことをしたいなら、楽はするなよ。どうせ宿題なんて辛いんだから、夏休み最終日の自分に丸投げするんじゃなくて、少しずつでも今日の自分が負担してやれ。なんなら夏休み全部楽しむために今のタケルが全部負担しても良いんだぞ? はっはっは!」

 正直、ユイのことが気になっていた俺は適当に相槌を打ってこの時間を終わらせようとしていた。それでも、なぜか、お父さんの言葉は不思議と耳に入ってきた。

「……まあ、夏休みは今日から始まったんだろ? 母さんも、そうガミガミ言ってやるな」

「そうだけど、でも」

「——さあ、ご飯ご飯! ご飯はあったかいうちに食べないとな!」

 それだけ言ってお父さんは勢いよくご飯をかきこんだ。

「もう! お父さん!」

「ご飯がうまい! うまいなあ!」



 *******



 夕ご飯を食べ終えて、見たいテレビがあったことも忘れて、俺はすぐに自分の部屋に戻った。

 椅子に座って、ユイから貰った千円札を眺める。そのまましばらくぼーっとしていると、部屋のドアがコンコン、とノックされた。

「おーい、お父さんだー。部屋入るぞー」

 そう言って、お父さんが部屋に入る。手には、アイスキャンディーが二本。

「アイスだ。冷たくてうまいぞ」

「……ありがとう」

 俺はアイスを受け取って少しかじった。口の中が甘いもので満たされて、すぐに消えた。

「……タケル、お前、なんか悩んでるな?」

 俺にアイスを渡した後、お父さんは俺の目を見て言った。

「まあ、思春期だから、俺たちには言いづらいこともあるだろうな。でもな、お父さんはタケルの力になってやりたい。お母さんだってそうだ。相談くらい、いくらでも乗ってやる。だから、言いたくなったら言えよ」

 そう言うと、お父さんは溶け始めたアイスをシャリシャリと食べだした。

「しまった、ちょっと溶けかかってる。口周りがベタつくな」

「お父さん、ありがとう」

「おう」

「早速なんだけど、ちょっと聞きたいことがあってさ」

「どうした?」

「お父さんは中学生の頃、好きな人っていた?」

「ああ、そりゃあもちろん。特に可愛い子には目がなかったな」

「じゃあ、その……好きな人が急に引っ越するって、転校しちゃうってなったら、お父さんならどうする?」

「うーん、どうだろうなあ。そりゃ難しい質問だけど……まあ、お父さんも今のお前みたいに悩むかな。悩んで、悩んで、とりあえず引っ越す前になんでもいいから、会いに行く」

「じゃあ、もし、その子と喧嘩してたら? 会いに行くの気まずくない?」

「喧嘩? ……お前、好きな子と喧嘩しちゃったのか」

「あ、いや、それは……」

「まあ、喧嘩の内容にもよるけど、俺はすぐ謝るかな。好きな子と喧嘩したままお別れじゃ嫌だから」

「謝る……」

 ユイに謝る自分を思い浮かべる。そもそもなんでユイが怒っているのかわからないのに、どうして俺が謝らなければならないのか、そう思うと、どうしても素直に謝れる気がしなかった。

「自分からは謝りたくないか?」

「そうじゃない。その前に納得したいんだ」

「納得? ……その喧嘩の原因にか?」

 俺はお父さんに事の顛末を話すか少し悩んで、ユイとの会話も、喧嘩の原因も、話せることは全て話すことに決めた。

「なるほど、その長谷川さんが名前で呼んでくれない……と」

「そうなんだよ。最初は林田くんって俺のこと呼んでたはずなのに、席が隣になってから急に君って呼び出して。同じクラスの他のやつには苗字だったり名前だったりで呼ぶのに、なんでか俺だけ」

「それで、なんで名前で呼んでくれないのか長谷川さんに聞いたら……」

「逆に怒られた」

「長谷川さんはなんて言ってたんだ?」

「えっと、なんで私と話してるときだけ一人称を僕にしているの? みたいな感じ」

「え? タケルお前、その子と話すとき僕って言ってんのか?」

「うん」

「緊張してるのか?」

「そういうわけじゃないんだ」

「じゃあ、どうして?」

「前にクラスの女子が言ってたんだ。一人称は、俺よりも僕の方が印象が良いって。だから……その、そっちの方が……ユイと仲良くなれるかなって……」

 自分で言ってて恥ずかしくなる。それでもユイに好かれるなら一人称を変えることくらい屁でもない。俺はそう思っている。

「でもお前、お父さんや母さんと話すときは俺って言ってるじゃないか。あと、前にヨシノブ君と電話しているときも俺って言ってたよな?」

「それは普段の癖で……」

俺の言葉に、お父さんは全てを理解したみたいに「なるほどなあ」と小さく笑った。

「……なあ、タケル。長谷川さんがお前のことだけを君って呼んでることに気がついたとき、どうだった?」

「すごい嫌だった。なんで俺だけなんだろうってずっと考えてた」

「一人だけ君って呼ばれる事と、長谷川さんにだけ一人称変えてた事は、同じ事じゃないのか?」

 お父さんの言葉で気づいた。そうか、そうだったんだ。

「……でも、なんだ。お前たち二人とも似た者同士じゃないか。ああ、心配して損した」

 そう言うと、お父さんは立ち上がってドアノブに手をかける。

「おい、引っ越す前に会ってこいよ。後悔する前に」

ドアが少し軋んだ音を上げる。お父さんは身体のほとんどを部屋の外に出して、顔だけで俺に言った。

「夏休みだからって夜更かしせずに、早く寝ろよー」

 お父さんの足音が遠ざかっていく。

 俺はもう一度、ユイから貰った千円札を見る。そして、カバンからあの定規を出して、千円札と並べる。やっぱりそうだ。ユイの千円札も、俺の定規も、同じ15センチだったんだ。



 ・8月5日 (土):曇りときどき晴れ



 夏休みが始まって、もう二週間が経った。

 俺はこの日、数学のワークの最後のページを解いていた。この二週間、俺は宿題にかかりっきりだった。お父さんは分けてやったほうが良いぞ、と言っていたけど、俺には、明日までまでに間に合わせなければいけない理由があった。

 何度かヨシノブたちから遊ぼうと誘いがあったが全て断った。明日からの全ての時間を、自分の好きなことをするための時間にしたかったから。

 最後の問題に取り掛かる。この問題を解くためには定規は必要ない。それでも俺は、あの、思い出の15センチ定規を筆箱から取り出す。

 涙が一粒、ポツリと零れて定規を濡らした。定規が卓上スタンドの光を跳ね返した。

 明日はユイが引っ越してしまう日。それを思うと、思い出で視界が滲んで問題がうまく頭に入ってこない。俺はペンと定規を置いて、あの千円札を取り出し、蛍光灯の光に透かして眺める。

「タケル、長谷川さんから電話がかかってるわよ!」

 ドア越しにお母さんの大きな声がする。

「わかった。今すぐ行くよ」

ユイからの電話。俺の部屋にはドアの軋んだ音だけが残った。

「もしもし?」

一瞬、どうやって声を出したらいいかわからなくなる。もしもし、という常套句がなければ俺は無言を貫いただろう。相手の顔が見えないだけで、どうしてこんなにも緊張するのだろう?

「もしもし。久しぶり」

 受話器の向こうのユイの声は、いつも通りだった。

「どうしたの?」

「いや、なんとなく君の声が聞きたくなって」

切ない、という言葉は今のユイの声を表現するためにあるのだと、俺はどこか遠くで考えた。

「そっか。……明日だよね? 引っ越していっちゃうのって」

「うん。今、トラックに乗せない荷物をカバンに詰めてるんだ。この電話も、お母さんの携帯を借りてかけてるの。……もうすぐ全部終わるんだ」

 わかっていたことなのに、言葉にされると俺は泣きそうになった。本当に、全部が終わってしまう……。

「今までありがと。楽しかった。本当に……ありがと……」

 ユイの声が次第に震え始めた。

「最後に君の声が聞けて良かった。……ごめん。ちょっと泣きそうだから、もう切るね?」

 ユイが電話を切ろうとする。泣きそうなくらいで、切らなくてもいいのに。

「バイバイ……」

「ま……待って! ユイ!」

「……何?」

ユイの声が受話器から離れて、戻る。

「明日、何時に出発するの?」

「お昼の十二時だけど……」

 どんなことがあってもユイに会いたい。会わなければ、きっと俺は一生後悔する。

「絶対に見送りに行く。だから、待ってて。それじゃあ」

「え? ちょっと!」

 ユイの返答も聞かず、俺はそれだけ言って電話を切った。



 ・8月6日 (日):快晴



「よし。忘れ物は無いな」

 俺は靴紐をしっかりと結んで、家の玄関を開けた。夏の日差しに暖められた空気が俺にまとわりつく。

 ユイの家までは自転車で十分かかる。この十分間は、とても長く感じた。多分、人生で一番。

 ユイの家の前には、引っ越し屋さんのトラックと、ユイの家の乗用車が停まっていた。もう出発するのかと焦って家の門の前を見ると、カバンを持ったユイが立っていた。

「ユイ!」

 俺は自転車の上から、ユイに手を振る。

「あ、本当に来てくれたんだ」

「当たり前だろ? 自分から言いだしたことなんだから」

「そっか。そうだよね。でも、嬉しいな」

「……もうそろそろだな」

「うん。この町とも、君とも、もうお別れ。車に乗って景色を見て、それに飽きたらちょっと眠って、そしたらもう次の家」

「もっとたくさん、ユイと話したかったな」

「君と席が隣になってからだもんね。私たちが話すようになったのって」

「算数の授業のとき、ユイが定規を忘れて困ってて」

「それで、君が定規を貸してくれて。そこから始まった。でも、もう終わっちゃう……」

「ユイ。やっぱり俺、まだ……終わらせたくない」

「でも……」

「……考えてたんだ。あの千円札のお返し。ユイに何かお礼がしたかった。でもユイと一緒で、何も浮かばなかった。何を選んでもしっくりこなかった。だから……」

 俺はここで言葉に詰まる。今日だけは泣かないと決めていたはずなのに、瞳から溢れた涙が頬を伝う。

「良いよ。その気持ちだけでも嬉しい。それにずっとお世話になってたのは私の方。

 ——ねえ、最後に教えて? なんで私と話すときだけ、君が自分のことを、僕って呼んでたのか」

「……笑わない?」

「笑わないよ……多分」

いや、きっとユイは笑う。きっと、あのくすぐったい笑顔で軽口を叩くんだ。それでもいい。だって俺はユイの笑顔が好きだから。

「……クラスの女子が、一人称は俺よりも僕の方が印象が良いって言ってて、それで……」

「でも、なんで私のときだけ?」

「……ユイにだけは嫌われたくなかったんだ。だから、なんて言えばいいのかな……空回りしてた。ごめん、嫌な思いさせて」

「そっか、……ふふ。そうだったんだ。そんなこと、気にしなくてもいいのに」

「ユイも教えてよ。なんで名前で呼んでくれなかったのか」

ユイは目を瞑って、深く息を吸う。そして空を見上げてから答えた。

「……私ね、今までずっとお父さんの仕事のせいで色んな学校を転々としてて、あんまり仲の良い子が出来なかったの。男の子ならなおさら」

 ユイがもう一度空を見上げる。被っていた麦わら帽子の隙間から、涙がこぼれ落ちた。

「それで、段々友達を作ることが嫌になっちゃってね。仲が良くなってきたら、突き放すようにしてたの。だって……仲良くなればなるほど、別れが辛いから……」

「ユイ……」

「だから……お礼をしようって思えたり、わざわざ見送りに来てくれたり、ここまで仲良くなったのは、別れが辛いのは、君が……」

 ユイの声が震える。それでもユイは最後までしっかりと声に出して言ってくれた。

が……初めて」

 俺は、居ても立っても居られなくなって、ユイを抱きしめる。今まで俺たちは、15センチほどの距離でしか触れ合ってこなかった。

 ユイがこんなに悩んでいたことに、自分の悩みは取るに足らないような悩みだったことに、なんで今まで気づかなかったんだろう。

「……苦しい」

俺の耳元でユイが囁く。

「あ、いや! その、ごめん」

「ふふ。初めて男の子に抱きしめられちゃった」

「い、嫌だったか?」

「全然。でも……そうだなあ、私を抱きしめた分のお礼はして貰おうかな?」

「お礼?」

「定規、貸してよ」

 俺の大好きな笑顔で、ユイが言う。

「って、さすがに持ってきてないか。ごめん、今のは無し——」

 俺はポケットに手を突っ込む。上手い言葉が出てこなくて、無言でユイの手のひらに定規を乗せた。

「あ、持ってきてたんだ」

「こんなこともあろうかと」

「用意周到だね」

「……とユイの思い出だから」

「あ! やっと俺って言った。……いつ返せば良いかな?」

「そうだなあ」

俺は必死で頭を回転させる。俺とユイを繋ぐ唯一の約束を無駄にはできない。

「えっと、俺たちが18歳になる年の8月7日。その日にまた、あの公園で会おうよ」

「なんか、映画にありそうな設定だね」

「ちょっとカッコつけ過ぎかな?」

「かな。でも、そういうの嫌いじゃないよ」

ユイがパチッとウインクを決めた。からかわれていたとしても、俺は幸せだった。

「ユイー! そろそろ行くよー!」

「はーい! じゃあ……もう私、行くね」

 ユイは名残惜しそうに俺の手を握ったあと、定規を大事そうにカバンにしまった。

「……またな!」

俺は精一杯、大きな声を出した。これからユイが向かう町にも届くくらい、大きな声を。

「うん。またね」

 そうしてユイは、車に乗って、次の町へと向かって行ってしまった。俺は車が見えなくなっても、しばらくの間手を振り続けていた。



 *******



 家に帰ったあと、「どうだった?」とニヤけるパパラッチお母さんを軽くあしらって、俺は自分の部屋に向かった。

 机の上には、数学のワークが宿題をしていたときのまま、広げられていた。

「あ、そうだ。最後の問題だけやってなかったんだっけ……」

 あの定規は、今は俺の手元には無い。

「それでも、解かなきゃな」

 俺はペンを取って、フリーハンドで線を引き始める。

 出来上がったのは、汚いけれど、確かな直線だった。



 *******



「懐かしいなあ……」

 俺は数学のノートを閉じて、呟いた。当たり前だけど昔の俺は今よりも子供で、やっぱり恥ずかしかったけれど、懐かしかった。

「あ! またそんなの読んでる。懐かしむのはわかるけど、それは後。ほら、荷造りしなきゃ」

「はいはい」

「はい、は一回だけでいいの」

「へーい」

「そこはせめて、はーい、でしょ。もう、やる気ないなあ……」

 あの夏から、十年が経った。俺とユイを繋いだ15センチ定規は今、、俺は俺で今もあの千円札を大切に保管している。

 そもそも、返すも何もないんだ。

 今、俺の隣には、笑顔の彼女がいる。俺の大好きな笑顔の——

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