君のとなり
いーたく
前編
『天気予報士が梅雨の始まりを告げた頃、俺は隣の席の君に、15センチ定規を貸した。定規を忘れて困っていた君は、「ありがとう」って言って、笑ってくれた。その笑顔を、今でも俺は覚えている。
その日から君とは、席に座っている間だけだったけど、よく話すようになった。好きな食べ物、よく聞く音楽、趣味。……とにかく、いろんなことを話した。
ただの学校のクラスメイトだった君のことを、席に座って話をするたびに知っていく。気がつけば俺は君に、君のことを知れば知るほど、惹かれていた。
今までの俺は、好きだとか、気になっていたとか、そういう感情を君に抱いたことはなかった。きっと席が隣にならなければ、君を知ることも、話す機会すらも無いまま、時間は過ぎていったんだろう。
今日も学校が始まる。今日はどんな話をしよう。もう少し経ったらきっと、うだるような暑さの中で、セミが一生懸命鳴き出すんだ。
夏休みが終わっても、いつまでも、君と過ごすあの時間が続けば良いのに。
荷造りの途中に出てきた中学の数学のノートを読んで、俺は赤面した。
退屈な授業中にでも書いたものだろうか。よく自作のポエムや歌詞をノートに書いたりして、何十年後かにそれを発見して恥ずかしい思いをする……なんて話をよく聞くが、それとは違った恥ずかしさがあった。
これはただのポエムではなく、俺の初恋のことを書いたものだったのだ。
当時の俺は、隣の席になった
楽しい日々だった。長くは続かなかったけど。
別に仲が悪くなったとかじゃない。ユイはその年の夏休みが終わると同時に、違う町へと引っ越してしまったのだ。
当時はユイも俺も、ケータイなんて便利なものは持っていなかったし、引っ越し先の住所も知らなかった。だから、ちょっと距離が離れただけで、俺たち二人はなんの連絡も取れなくなったんだ。
俺の初恋はセミみたいだった。突然で、騒がしくて、とても短い。
*******
・七月二十一日 (金) :晴れときどき曇り
「ユイってさ、なんでいつも定規持ってこないの?」
ジリジリと暑い日差しが照りつける。
今日は夏休み前、最後の授業がある日。俺は普段から思っていた疑問を、隣の席に座るユイにぶつけた。
「だって、君の定規がとっても使いやすいんだもん」
ユイは意地の悪い笑みを浮かべながら言う。
「じゃあ、もし僕が学校を休んだら数学のノートはどうするの?」
「そのときはフリーハンドで乗り切る」
そう言ってユイはペンをとり、ササッと線を引いた。フリーハンドにしては綺麗な直線が、一つ出来上がる。
「じゃあ普段からフリーハンドで書きなよ。それか定規を買うか。あんなの、百均に売ってるじゃん」
「お金がもったいないし、君のがあるから。それに、定規くらいちゃんと持ってるよ。最近は学校には持ってきてないけど」
「持ってるならそれを使ってよ……」
「先生がこの前言ってたでしょ? 数学に定規を使用するのは小学生までって。これからはフリーハンドで問題を解け、ってさ」
俺の言葉はスルーして、ユイはなぜか得意げに話す。俺は少しムッとして答える。
「試験のときはそうするよ。でも使えるときは使いたいんだ。便利だし、もったいないじゃないか。……ていうか、そう思ってるなら貸す必要ないよね」
「いや、それはそれ、だよ」
定規の話になるといつもこうなる。貸すこと自体は別に構わないんだけど、だからといって授業がある度にホイホイと貸すのもどうかと思う。ましてや、ちゃんと自分のを持っているならそれを使うべきだ。
「次は数学の授業だね。また貸してよ、定規」
そう言ってユイは笑う。俺はこの笑顔が好きだ。だから定規を貸してしまうんだ。定規を貸せば、ユイの笑顔が見られるから。でも今日の俺は違う。心を鬼にするんだ。
「今日はいいけど、次からはちゃんと持ってきてよね! 夏休み終わったら席替えもあるし、席が隣じゃなくなったら僕のはもう貸せなくなるからさ」
言いたいことを最後まで言い切った後、鬼は急に弱虫になったようで、ケチだと思われて嫌われたらどうしよう、と小さく震えだした。俺はそれを悟られないよう、できる限り冷静を装って、ユイの反応をうかがう。
「うーん、それもそうだね。……分かった」
「ええ〜、貸してくれたっていいじゃん。君はケチだな」……みたいなことを言って抗議をするかと思っていたのに、ユイは少し悲しそうな顔をしつつ、そう答えた。
本当にそれでいいの? という言葉が、俺の喉の奥から飛び出しそうになった。
*******
授業が始まると、ユイは俺の服を少しだけつまんで引っ張る。それを受けて、俺は無言でユイの机に定規を置く。しばらくするとユイが手を伸ばして、定規を俺の机に戻す。そして俺の顔を覗き込むようにして、「ありがと」と言う。俺は授業に集中しているフリをして、「うん」とだけ答える。この流れが定規が必要になる授業では当たり前になっている。これが席替えをしたら無くなる……そう思うとすごく寂しくなる。
そんなことを考えていると、ユイはいつもの通り、綺麗な手で俺の制服を少しつまんで引っ張った。服が少し揺れるだけなのに、なんでこんなに嬉しくなるんだろう?
俺はいつものように無言で定規をユイの机に置く。定規を受け取ったユイはさらさらと図形を書き始める。少し経って、ユイは黒板にある図形を全て写し終えると俺の方を向いて言った。
「ありがと」
そう言って俺の机に定規を戻す。今日はユイが俺の顔を覗き込むような仕草をしなかったことが、少し残念だった。
「……君の定規、また借りられるかな?」
いつもならここでこの流れは終わるのだが、今日は違った。もしかしたら、今日が夏休み前の最後の日、席替えする前の最後の授業だからかもしれない。
「また隣になったらね」
「そうだよね。……うん、君の定規が使えなくなるのは少し寂しいな」
嬉しいことを言ってくれる。そんなことを言われたら悪い気はしない。神さま、どうか席替えをしても、隣の席がユイでありますように。
そして俺は、ユイのいつもと違う言葉に触発されたせいか、前から気になっていたことをユイに聞こうと思った。
「……そういえば前から思ってたんだけど、ユイってなんで僕のことを君って呼ぶの?」
「ん? いやあ、それは……」
ユイはいつもの余裕のある表情を崩して、苦笑いした。
「クラスメイトだし、定規を貸すくらいの仲なんだから、名前で呼んでよ。タケル、ってさ。……あ、いや、もし嫌だったら林田くんとかでもいいけど」
「……なんか、恥ずかしいよ。それに——いや、やっぱりなんでもない」
ユイは何かを言いかけて、やめた。何を言おうとしたのか気になったけど、聞けなかった。
口を開こうとしたその瞬間、俺はとんでもない腹の痛みに襲われたんだ。——痛い。とても痛い。俺は何も考えられなくなって、恥じらいも、何もかもを捨てて手を挙げる。
「え? ちょっ、君! どうしたの? ……だ、大丈夫?」
腹を抑える俺の姿に、普段はクールなユイがオロオロと慌てていた。
「せんせ……い。ちょっと……ト、ト、トイレに……」
「林田、顔真っ青だぞ? 保健室に、いや、とにかく早くトイレに行きなさい」
これを言うのがやっとだった。先生も腹を押さえている俺の姿を見て、教室のドアを開けてくれた。
俺が周りにどう見えてようと、あとで友達からどれだけイジられようと関係無い。今はトイレへ向かうことが最優先だった。
でも、こんな姿は、ユイだけには見られたくなかったな。俺はこの瞬間だけ、ユイの隣の席であったことを後悔した。
*******
やっとの思いで男子トイレに辿り着く。見慣れているはずの廊下がとても長く感じた。
でも便座は今、俺の目の前にある。便座を見て喜んで、座ってホッとしたのは、生まれて初めてだ。
最初は、やっとこの痛みから解放される、と喜んでいたが、どうやら今回の俺の腹痛はそんな簡単に俺を赦すつもりは無いようだ。用を足しても痛みが治まらない。それどころか、さっきよりも痛みが酷くなっている。そんな気さえした。
額からはおびただしい量の汗。それが頬や鼻の頭を伝って、床に落ちる。夏だというのに、やたらと寒気がする。全身がブルッと震えて、鳥肌が立った。
次第に俺は、なぜかはわからないけど、ごめんなさいと呟くようになった。勉強をしっかりとしてこなかったことや、両親の言いつけを聞かなかったこと。友達と喧嘩したこと。とにかく、心の中で引っかかっていた事柄全てに謝った。
しまいには、普段は神様なんてこれっぽっちも信じていないのに、「神様、助けて下さい」と両手を組んで、神さまに祈りを捧げるようになった。下手くそな十字架が何度も切られた。藁にもすがる思いだった。
だが、何事にも終わりがある。終わりそうもないと思われた痛みの波も、しばらくすると少しずつ穏やかになっていった。
楽な体制を探す旅が大団円を迎えそうな頃、トイレのドアを控えめにコンコンとノックする音が聞こえた。
「タケルー。ハライタ、大丈夫か?」
最初はこのトイレを使いたい人がノックしたのかと焦ったが、ドアをノックしたのはクラスメイトの
「ヨシノブか? ちょっと、まだ油断はできないんだ……」
「お、おお、そうか。もう帰りのホームルーム始まってんだけど……。まだ、かかりそうってことか?」
いつの間にか六時間目は終わっていたらしい。腹痛に集中し過ぎてチャイムが聞こえていなかった。
どうやら俺の予想通り、ヨシノブはチャイムが鳴っても戻って来ない俺の様子を、先生に見てこいと言われたようだ。
「ヨシノブ……まだかかるって先生に伝えてくれ……」
痛みのピークは越えたものの、まだ油断は出来ない状況だった。今教室に戻っても、すぐトイレにUターン……。なんてことになるかもしれない。これ以上、クラスのみんなに自分の醜態を晒すわけにはいかない。
「そうか、分かった。俺がしっかり伝えておくから、お前はちゃんとハライタを治せよな。じゃあな」
コツンとドアが一回ノックされて、ヨシノブの足音が遠ざかる。
しかし、夏休み前の最後の日にこうなるとは、なんと最悪なんだろう。俺は、さっきとは打って変わって、神様を恨んでいた。
・七月二十二日 (土) :晴れのち曇り
予期せぬ腹痛に見舞われた次の日。昨日の激痛はどこへやら、お腹の調子は無事回復して、俺は宿題そっちのけでヨシノブや仲の良い友達と海で遊んでいた。
「やっぱり海は良いなあ!」
バシャバシャと水しぶきを上げながらヨシノブが言う。
「夏休み最高ー!」
「イェーイ!」
「ヒャッホー!」
やっぱり海はテンションが上がる。そして、それ以上に疲れる。
俺たちは二時間ほどぶっ続けで遊んだ後、ヘトヘトになって砂浜に寝転がっていた。大きな入道雲と、どこまでも続くような青空を眺めていると、ヨシノブが切れた息を整えながら口を開いた。
「なあ、お前らの好きな人って誰よ?」
その一言で、海は一気に修学旅行の夜に変わった。テンションの上がっていた俺たちは皆思い思いに、いろんなことを語り始めた。
誰の胸がクラスで一番大きいか? とか、学年で一番可愛いのはあの子だ! とか、一番性格がいいのはあの子だ、とか、お願いしたら付き合ってくれそうな子は誰だ? とか。
クラスの女子に聞かれたら絶対に嫌われるような内容だけど、男しかいない場で、海の開放感も相まってめちゃくちゃ盛り上がった。
それぞれが思いの丈を吐き出した後、一人の友達が急に、照れ臭そうに言った。
「俺……実はさ、ユイちゃんのこと結構気になってるんだよね」
「え? ユイちゃんって、長谷川 ユイのこと? まあ……たしかにあいつ、可愛いもんなあ」
不意に友達の口から飛び出た、「ユイ」という名前に、俺の心臓は破裂しそうになった。いつもより激しく脈を打つ音が、砂浜の砂を伝って俺の耳に届いた。
「今のうちに告っとこうかなあ。当たって砕けろってわけじゃないけどさ」
昨日の腹痛とは比べ物にならないほど、体の芯が冷たくなった。思わず、「ダメだ!」と叫びそうになる。別に俺はユイの彼氏でもなんでもないのに。
叫びたい気持ちを必死に抑えて、俺は友達をからかおうとした。友達をからかえば、なんとかなるような気がしたんだ。
「お前さ、今のうちにって……そういうのはもっとユイちゃんと仲良くなってからにしろよなー!」
俺の言葉に、ヨシノブたちは驚いていた。
「は? 何言ってんだよタケル」
「今言わなかったらいつ言うんだよ?」
「……あ、そうか。お前、昨日のホームルームはハライタで参加してなかったもんな。
……長谷川な、夏休みが終わると同時に引っ越しちゃうんだってよ」
心臓が外に飛び出てしまったのでは、と錯覚するほど大きく拍動する。視界に映る砂浜が揺れるのは、陽炎のせいか、はたまたヨシノブの言葉のせいか、俺にはわからなかった。
「え……? ユイ、引っ越すのか?」
「うん。なんでも親の仕事の都合らしいよ。長谷川の家って、結構引っ越しが多い家なんだって。お父さんが転勤族ってやつらしい」
思ってもみない出来事に、俺は口をパクパクと動かすばかりだった。
「あいつ、お別れの言葉を言ってるとき、ひとつも表情変えてなかったよな」
「引っ越しに慣れちゃって、いちいち悲しんでたらやってられないんじゃないの?」
「かなあ。でもなんかさ、悲しんでくれないのは複雑だよな。泣けとまでは言わないけどさ、俺たちのクラスがつまらなかったんじゃないか? って思っちゃうよ」
「そう言うなって。そもそもお前、長谷川と喋ったことあんまりなかったじゃんか」
「だって、何話していいかわかんねーもん。あいつなんか冷めてるじゃん」
ヨシノブたちの会話はまだ続いている。俺はその会話に耳を傾けることはできなかった。
「あ、そうだタケル! そんなことよりよお、まだお前の好きな人聞いてねえぞ! 教えろよ!」
「そうそう! そうだよ、誰が好きなんだよ! クラスのやつ? それとも他クラス? 部活は一緒か?」
「……いないよ」
「いない? あ、なら気になってる人とかさ。なんなら、クラスで可愛いなって思ってる人でも……」
「——俺の好きな人は、もう引っ越しちゃうから」
俺はそれだけ言って、立ち上がる。
「それってもしかして……」
「っておい! どこに行くんだよ?」
「悪い。ちょっと疲れちゃってさ、今日は先に帰る」
俺はヨシノブたちに背を向けた。後ろでヨシノブたちが何か言っていたが、気にしないことにした。
——とにかく今は一人になって、気持ちを整理したかった。
*******
「ただいま」
家のドアを開ける。ひんやりとした空気が肌に触れ、蚊取り線香のあの独特な香りがした。夏休みが始まったんだと改めて思った。
「あら、早かったじゃない。海で遊ぶのはもう解散したの?」
お母さんがパタパタとうちわを扇ぎながらリビングから顔を出した。
「なんか疲れちゃったから、俺だけ先に帰ってきたんだよ」
「そう。あんたが真っ先に帰ってくるなんて珍しい。あ、そういえばさっき長谷川って子から電話かかってきたよ。可愛らしい声だったねえ。……あんたの彼女?」
お母さんは意地の悪そうな顔でニヤつく。
「そ、そんなんじゃないよ。それであいつ、なんだって?」
「いや、あんたがいないって言ったら、またかけます、だって。せっかく早く帰って来たんだし、あんたの方から長谷川さんに電話してあげなさいよ」
ニヤけた顔のままお母さんが言う。俺の気持ちも知らずに、と少しムッとしたけど、それ以上にユイから電話がかかってきていた事実が嬉しかった。
「分かった。連絡網の紙どこにあるっけ?」
「そのくらい覚えておきなさいよ。そこの引き出しの一番上にあるよ」
俺はお母さんが指差した引き出しに手をかける。一体なんの用だろう? もしかして、昨日何か伝えたかったことがあったんだろうか?
長谷川 ユイと書かれた欄を見つけて、数字を打ち込む。二回ほどコール音が鳴って、向こう側から「もしもし」と声が聞こえた。
「あ、もしもし。長谷川さんのお宅で間違い無いですか?」
「はい。どちら様ですか?」
「俺、ユイさんのクラスメイトの林田と申します。えっと……ユイさんいますか?」
「ああ、君かあ」
緊張していて分からなかったが、電話に出たのは、ユイ本人だった。
「あ、おう。なんかさっきウチに電話かけたみたいだけど、どうしたの?」
つい昨日まで隣の席で話していたはずなのに、電話のせいか、どうやってユイと話していたのかわからなくなった。
「暇かな? って思って。でも君、瀬川君たちと海に遊びに行ってるんじゃなかったの?」
「よく知ってるね。さっきまで海にいたんだ。それで、なんかすごい疲れたから、ついさっき帰ってきたんだよ。そしたらユイから電話があったって母さんから聞いたから、かけた」
「そっか。……あのさ、これから中学校の近くの公園に来れる? ちょっと渡したい物があるんだ。疲れてるなら後日にするけど」
また心臓がバクバクと鼓動を打ち始めた。俺には断る理由なんて無い。
「行くよ! すぐ行く!」
「ふふ。疲れてるんじゃなかったの? ……じゃあ、待ってるね」
クスクスと笑ってユイが俺をからかう。ユイの軽口はどこかくすぐったくて、ちょうど良かった。
電話を切って、俺は玄関に向かう。靴の踵を潰して履いて、玄関を開けてすぐに自転車に飛び乗る。なんですぐに乗りなおすのに自転車の鍵をかけてしまったんだ、と過去の自分を苛立ちながら、ユイとの待ち合わせの場所へと向かう。
さっきまでの疲れが嘘のように、自転車を漕ぐ足がとても軽く感じた。
*******
「待った?」
不意にユイの声が聞こえた。待ち合わせの公園のベンチに座って、木に止まって必死に泣き続けているアブラゼミを眺めていた俺は、即座に姿勢を正して、ユイの声のする方を向いた。
「いや、全然。歩きで来たんだよね? だとしたら相当早いよ」
麦わら帽子に、青いワンピース。とても涼しげな格好をしたユイは、学校で見るよりもずっと綺麗だった。
「君に早く会いたくて、急いで来たんだよ。……なんてね」
冗談っぽくユイが放った言葉に、心の中で万歳をする。
それにしてもズルイ。ユイにとっては何気ない一言が、俺にとっては飛び上がるほど嬉しい一言なんだから。
「と、とりあえずここに座ってよ」
俺は緊張しているのを悟られないよう、出来るだけ自然に、隣へ座るように促した。
「うん、ありがとう。ごめんね。海にも行って、色々と疲れてたんでしょ?」
「ユ、ユイに会えるなら……そんなのへっちゃらさ」
はっきりと喋ろうと思っていたのに、口にすると恥ずかしくなる。さっきの冗談へのお返しをしたかったのに。
「そっか、嬉しいな」
俺の精一杯の言葉に、ユイはいつも通りの涼しげな表情で応えた。
「それにしても……暑いね。溶けちゃいそう」
「これからまだまだ気温が上がるらしいよ。今年は例年以上の暑さになるって」
「そっか」
「夏休みが終わっても、しばらくは暑いままだって」
「終わっても、かあ。……ああ、嫌だなあ」
背もたれのないベンチに、ユイは自分の腕を支えにして空を見上げた。
「あ、あのさ、さっきヨシノブたちから聞いたよ。その……ユイって、引っ越しちゃうんでしょ?」
俺は思い切って、引っ越しについてユイに聞いてみる。ヨシノブたちがついた嘘だったら良いな、なんて思いながら。
「……うん。だから、君に今までのお礼をあげようと思って。本当は昨日渡そうと思ったんだけどね。ほら、君、腹痛でトイレに籠っちゃってたから」
ヨシノブたちが本当のことを言っていたとわかって、俺は悲しくなって、ユイの言葉が俺を驚かせた。
「お礼? そんなの、悪いよ」
「良いの。これはずっと定規を貸し続けてくれた、君への気持ちだから。受け取って」
そう言って、ユイはポケットから千円札を取り出した。
「あ、千円札だ」
俺の反応に、ユイは恥ずかしくなったのか、目を伏せて小さく頷いた。
「ごめん。現金なんて素っ気ないし、感謝の気持ちもうまく伝わらないってわかってるんだけど、君の欲しいものが……わからなくて」
「あはは。ユイらしいや。じゃあ、ありがたく貰うね」
俺は笑った。申し訳なさそうにするユイを、どうにかしてあげたかった。
「ごめんね」
「いや、すごい嬉しいよ!」
「瀬川君たちに聞こうかと思ったんだけど、彼とはあんま話したことが無くって、聞けなかったんだ」
取り留めのない、好きな人との会話。平凡な中学生の夏休みの一部分。流そうと思えば流せたはずだった。
はっきりと聞こえた「瀬川君」という言葉が、俺の心を掴んで離さなかった。
「……ねえ、ユイ。前も聞いたけど、なんで僕のことを君って呼ぶの? ヨシノブのことは、瀬川君って呼んでるのに」
聞かない方が良い。心のどこかでそう思ったときにはもう遅かった。
「それは……」
ユイはそこで黙ってしまった。
「教えてよ。気になるから」
「……じゃあ、逆に聞くけど、なんで君は私と話すときだけ、僕って言うの? 私以外のみんなと話すときは俺なのに」
「え? いや、それは……」
今度は俺が黙ってしまった。
なぜ、俺が一人称を変えているのか。その理由はユイには、恥ずかしくてとてもじゃないが言えなかった。それこそ口が裂けても、だ。
「……君がなんでか教えてくれないなら、私も教えない。じゃあね」
そう言ってユイは立ち上がって歩いて行ってしまった。俺の言葉なんか聞きたくもない。とでも言わんばかりのユイの後ろ姿に、俺はユイから貰った千円札をただ、握りしめることしかできなかった。
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