雨音を斬り刻む
雨籠もり
雨音を斬り刻む
誰かの涙に似た雨が私の頬を伝うので、刀を持つ手をそっと緩めて代わりに力強くそれを拭った。夜空に舞う流れ星が一瞬の輝きとともに静かに消えていく。静寂の住処となった今この場に溢れるのは殺気。それは私の体を震えさせる。
「武者震いさ」と、『彼』の真似をして強がってみる。
『彼』は戦う時にいつもそう言って自分を誤魔化す。恐いなら戦わなければいいのに。なぜ彼は戦い続けたんだろうか。どういう思いで、彼は『災厄』と闘い続けたのだろうか。
『災厄』。
それは、他者から向けられる『憎悪』の感情に
その筋肉は膨張して皮膚を破り、顔や胴は骨が浮かび出て装甲のようにその体を包み込む。俗に言う『化物』。それが災厄だ。
そして、私の目の前で悲しそうに目から液体を垂れ流す奴も『災厄』だ。
こいつに、『彼』は殺された。
災厄は一瞬微笑んだ様な顔をすると、地面を蹴り上げて一瞬のうちに間合いを詰める。異常に硬化した災厄の長爪は狂器と化して私を襲う。それを私は一歩後ろに下がりつつ刀で受け止める。紫電が、降り止まない雨粒に映える。透明に青い景色に金切り音が響く。その爪を弾き返して災厄の体勢を崩す。がくんと膝をつく災厄の、その頭を切断せんと刃を振り下ろす。それを察知していたかの如く災厄は、刃が致命傷を刻み込むよりも先に私の胴に飛び込んできた。両者雨に濡れた戦場に倒れ込む。私に馬乗りになった災厄の、その爪で刺突する攻撃を間一髪で避け、仰け反るように両足で災厄の頭を蹴り飛ばし、怯ませたところで素早く後転して立ち上がる。
大きく間合いが空く。立ち上がる災厄は真っ直ぐに私を見つめる。私は目を凝らすように刀を構え直す。
『彼等が僕等を見つめる時は僕達に何か伝えたいときなんだ。けれど災厄は話せない。だからせめて、見つめ返してあげてね。』
配属されたばかりの私が初めて彼と出会った時、彼は私にそういった。『災厄討伐局』の中でも随一の腕を持つ彼は私の指導係だった。
『なんでも疑問に思ったことは僕に聞いて。』
指導される側と指導する側として、私と彼が出会ってから二ヶ月ほど経ったある日、部局で彼は私にそう言ってきたので、私は彼に尋ねることにした。
『なぜ先輩は災厄に向かって読経するのですか?』
彼はよく災厄の亡骸に読経をする。その行為は私にとっては違和感でしかなかった。当時の私としては、その疑問は当然だったかもしれない。
学校や親、テレビなどの世間は、災厄を人類の敵だと言う。人類の悪だと教える。『災厄になった人間は成長段階で既に劣っている』とか『災厄の周りの人間は環境形成に携わる人間だから災厄になりやすい』と周りの人まで迫害するのは常套の沙汰だった。
人に害を加える邪な存在。それが災厄への世間一般の常識であり、私の常識だった。
真面目にそう尋ねる私に彼は悲しそうに答えた。
『災厄は人間だ。僕等の仕事は、災厄を殺すことではなく、開放してやること。読経は、世から嫌われる彼等への情けなんだ』
……理解、できなかった。
私の親は災厄に喰い殺された。暗闇に抱擁された部屋の中で血を口から滴らせながら長い牙を光らせる災厄の姿は今でもありありと思い出せる。『災厄を殺す』その願いでこの職に就いたのだから。
私は続けて彼に尋ねた。
『なぜ、先輩はこの職に就いたのですか』
彼は夕日の差す薄暗い部署の中で静かに、無理矢理な微笑みを見せながら答えた。
『親友が災厄になってしまってね。災厄を、これ以上増やしたくないんだ』
そう言って彼は私に首筋の傷を見せてくれた。青紫に腐食したその傷口は痛々しい。災厄と化した友人につけられた傷だそうだ。彼は私に尋ねた。
『引いたかい?』
『……引きませんよ。私は貴方を尊敬しているんですから』
私は、何故か怒り気味にそう返したのを覚えている。
か細く吐き出した息が枯れかけた紫陽花の花びらを小さく揺らす。
目の前の災厄は再び間合いを詰めようと走る。水溜りを踏みつけながら振りかぶるその爪は、曇り空から顔を覗かせた青く白い月の光を浴びて光る。振り下ろされたその爪を刀で受けとめて反動を利用。居合い切りの様な形で災厄の胴を斬る。浅くも深くもない傷口が災厄の銀の体に刻まれる。それほどダメージにはなっていないようで、災厄はすぐに私の方へ向き直ると、雛の様な笑い声をたてて私に迫る。
雨音のリズムを刻むような連撃が迫り来る。
梅雨明けの冷たさを振り払うように引き掻くその攻撃の全てにタイミングを合わせて防御する。
『災厄の攻撃はすべて、打撃か爪で引っ掻くような近接攻撃だ。だから銃弾は使わずに刀で戦う。もっとも、通行人や公共物に弾丸が当たったらいけないとか理由は他にもあるけれど。』という彼の言葉を思い出す。その瞬間、浮いた雨粒に彼の顔が映った気がして目を見開く。…が、すぐに自分に言い聞かせる。
ここに彼はいない。
『なんで災厄は生まれると思う?』
蝉の落ちる季節、読経を終えた彼は額に浮かぶ汗を拭ってそう言った。
『人間が膨大なストレスに耐えきれなくなったから…ですか?』
彼の求める答えを知らない私は憶測でそう言った。紅葉が用事を思い出したように彼の肩に落ちて留まる。
『じゃあ、なんでストレスは溜まると思う?』
『それは…』
事例が多すぎる。一つに絞られた答えなんてその問いには存在しない。言い澱んだ私の代わりに、彼は言った。
『みんな貧しいからだよ。』
言っている意味がわからなかった。
『心が貧しいんだよ。人は匿名の安全地帯から平気で暴言を吐く。世の中を見直してみろ。価値を誤解し、個人の尊厳は掃き捨てられ、諦めることを簡単に決断し、常に利己的であることを正しさと勘違いする。自殺者は年間二万人。いじめは41万件』
彼は死骸でも見るかのような目で私を見て続けた。
『みんな、偽の正しさに違和感を感じながらもその本質に気づけないままなんだ。人間はみんな、貧しくなってしまった。』
言葉の糸を紡ぐように慎重に、願いが形を成すように深長に彼は続ける。
『みんな、妥協のもとに生きている。妥協して生きている。こんな世界で、災厄はただの被害者でしかない。本当の災厄は、こんなにも終わっている世界でまだ人間のままで平然と生きていられる僕たちの方なんだよ。』
その目にはもう私は映っていなかった。何か実態の無い、まるで薄暗い部屋の中で夢を探すように無謀な目線が私に突き刺さる。
『先輩は、私が災厄だと、言いたいんですか』
震える声で彼の目を隠すように聞いた。彼は短く答えた。
『君だけじゃなく、僕もね』
雨で泥濘んだ地面に二人の足跡が刻まれる。爪の攻撃を避けて、雨粒の一つ一つを一刀両断するような一閃を放つ。ニ撃目だ。白鋼の刃が血に染まる。生々しい赤に濡れるその刃はまるで残雪のようだ。
まだ、彼のように災厄を一撃で仕留めることはできないな。
災厄が突如、ケラケラと笑い始めた。楽しそうな笑顔。生前とは比べ物にならないほどの笑顔だ。その表情のまま災厄は空間を斬り裂くように私の方へ向かっていく。その攻撃をまた、弾く。弾く。弾く。
雨音が心臓に落ちる。
ひたすらにビル群の合間に剣撃がこだまする。
それら空間の音はすべて夜空に吸い込まれて静かに死んでいく。
彼の尊敬していた
彼の中で矛盾が産声をあげた。『アイツは被害者なのに、なぜアイツを殺した僕が讃えられる?』
それからは世界が歪んで見えた。人が人に見えなくなった。色を失った。音を失った。見えるのは灰色に濡れる崩れきった景色。彼の不透明な世界は割れて落ちてしまった。
彼はよく、私に隠れて泣いていた。
彼は悩んだ。
なぜ災厄は減らない?
なぜ人は人を災厄にする?
傷つけ合わなければいいだけなのに。
彼は悩んだまま戦場に赴いた。公に認められた殺人は多くの人間に称賛される。世界は、彼にとっては狂気の塊でしかなかった。
彼は苦しんだ。彼は一人で抱え込み続けた。
彼は災厄になった。彼は、彼に殺された。
彼は、災厄となった彼は、私の剣を弾いて体勢を崩させると、すぐさま間合いを再度詰めて爪で斬り込む。私はそれを素早く後退しつつ躱す。両の爪を弾き返し、私はその体を思い切り蹴る。その、打撃によって蹌踉めいた体にさらに斬撃を加える。白鋼の刃に紫電が滑り這う。吹き出る血の量を見て私は悟る。
致命傷だ。
それでも災厄は攻撃を止めない。まるで何かに駆り立てられるように猛攻を続ける。爪の攻撃が空気を掻き割って刀を弾く。火花が舞う。すぐに刀を持ち直して目前に迫るその爪を弾く。これはフェイントか。ガラ空きになった腹に蹴りを打ち込まれてしまう。一瞬止まる呼吸。目眩。吐き気。
災厄はまた、私を見つめる。何かを伝えようとしている。
「先輩、」
私は、届かない願いを言葉に乗せ、紡いで彼に飛ばす。
「何が貴方を災厄にさせたのですか」
災厄は静かに唸っている。
「なぜ貴方は戦い続けたのですか」
私もその速度に合わせて地面を蹴り飛ばして走り出す。
刃と爪が交差した瞬間、今にも死んでしまいそうな夜空に命の泣き声が響く。
すれ違いざまに私が斬りつけたその傷は災厄の体を両断した。ゆるりと倒れる災厄。彼への愛おしさだけが月に向かって舞う。
頬を涙が伝う。憧れや悲しみを大事そうに抱きかかえた声が、
雨音を斬り刻む。
雨音を斬り刻む 雨籠もり @gingithune
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