SNS(それはNのサービス)
狭倉朏
N
「より上質なSNSを求めるあなたへ」
俺はその看板を見て首をひねった。
より上質なSNSとはなんだろう。
SNSは分かる。「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」の略称だ。インターネット上でのやり取りをするツールのたぐいのことだ。
それが何故現実世界のこんな都会のビルの前に看板を出しているのだろう。
俺は疑問に思った。
それでも俺がそこに足を踏み入れてしまったのは金曜日の帰り道で気が緩んでいたからだろう。
SNS疲れというものもあったのかもしれない。
最近では友人たちとの密なやり取りと日々の仕事の忙しさに挟まれて、俺がSNSにうんざりしていたのは確かだった。
より上質なSNSとやらが、このビルにあるというなら見てみようじゃないか。
「ようこそいらっしゃいませお客様! よくぞSNSへおいでくださいました!」
「はあ……どうも?」
出迎えた受付嬢の満面の笑顔に俺は戸惑う。
いきなりSNSへおいでくださったとはどういうことだ。
もしやSNSとは「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」のことではなく団体の名前か何かなのだろうか。
たとえば「スイミングなんとかサービス」とかの略だったのかもしれない。
だとしたらとんだお門違いだ。俺は話を聞いてすぐに退散できるよう心の準備を始めた。
何かを断るというのもまたエネルギーを使うものなのだから。
「さっそくですがお客様! 何を見てこちらに? ご紹介ですか?」
「お、表の看板を見て……」
「ということは完全に新規のお客様ですね! ありがとうございます!」
まだ客と決まったわけではない。
そう反論すべきだったのだろう。
しかしその暇も与えぬまま受付嬢は奥へと俺を誘導した。
通されたのはただの客を入れるにはあまりに大仰な応接室だった。
上質という言葉にはマッチしているかもしれない。
しかしSNSという言葉には不釣り合いだ。
もしかしたら「シークレットなんとかサービス」とかそういう意味だったのかもしれない。
「お飲み物は何がよろしいでしょうか?」
「コ、コーヒーで」
「承知いたしました。しばらくお待ちくださいませ」
受付嬢はそう言って部屋を出た。
俺はすでにこの部屋から帰ってしまいたくて貯まらなかった。
受付嬢が出て行った部屋から強面の男達が出てきて何やらいちゃもんでもつけられ金を巻き上げるのではないか。そのような懸念が渦巻いていた。
奇妙な看板なんぞに興味を持つのではなかった。不安の中で俺はそう思った。
「おまたせいたしました!」
コーヒーを持って部屋に入ってきたのは受付嬢ではなかった。
うさんくさい丸サングラスに黒スーツを着た壮年の男だった。
「さあさあお召し上がりください!」
説明のないまま得体の知れない人間に勧められたコーヒーを飲むのは気が進まなかった。
俺はコーヒーを持ち上げてカップに口をつけたが少し唇を濡らすだけで飲み込みはしなかった。
これでコーヒー代を要求されたらどうしよう。
俺はそれに思い至ってより不安を強めた。
「よくぞおいでくださいました。それで本日は何をnullに致しましょうか?」
「null……?」
「おやご存知ない? ああ、新規のお客様でしたね」
「いやnullは知っていますけど……」
nullとは確か「何もない」を表すプログラミング用語のはずだ。
0ともまた違うものだということは知っている。
しかし突然nullに致すとはどういうことか。俺には男の言葉の意味がさっぱり分からなかった。
「私はこのSNSの支配人を務めております。我々SNSとはすなわち「ソーシャルnullサービス」です。社会の中で起こる様々なことをnullにして差し上げるのが我々の仕事なのです」
「様々なことを……nullに?」
つまり様々なことを無にする?
「ええ、あなたにもあるでしょう。嫌な記憶。持っていたくない記憶。なくした方が楽になる記憶。そういったものをnullすなわち「無」にしてしまう。それが我々の提供する上質なSNSです」
「……記憶操作ってことですか?」
俺はうさんくささを隠さずそう尋ねた。
「そのような理解をされる方もいらっしゃいます」
支配人は回りくどく俺の言葉を肯定した。
「今ならなんとお試し1回無料キャンペーンも実施中でございます。この機会に是非とも上質なSNSをご体験ください」
「ご体験と言われても……」
俺は少し悩んだ。
消してしまう記憶なら、あまり深刻なものでない方が良い。なおかつせっかくだからそれなりにメリットが感じられるものが良い。
「……たとえば昔読んだ本の結末をnullにするということは?」
「もちろん可能でございます!」
「……じゃあそれで」
俺はどの本にするか迷う。
あんまりお気に入りの本でもよくない。
よく読んでいる本の記憶をなくしてはその本を読んでいた周辺の記憶まですべてなくしてしまうかもしれない。
ちょっと前に買ってそれなりに気に入ったが繰り返し読んでいるわけではない本がいい。
俺はスマートフォンに入れている電子書籍のアプリを開き、一つの本を示した。
「じゃあこの長編小説についての記憶をnullに……」
「かしこまりました。契約書をご用意します。しばらくお待ちください」
翌日、朝のラッシュ時間、電車内。
「あれ? 俺この本読んだっけ……?」
日課の読書をしようと電子書籍のアプリを開いてどれにしようかと、眺めていると読んだ覚えのない本の表紙を見つけた。
そのわりには購入したのは少し前だった。
「もったいない……」
早速俺はその本を読んだ。
その本を読み終わるまでに帰宅の電車までかかったがとても面白かった。
本の最後に電子書籍アプリの機能によるメモが書き込まれていた。そこには昨日の日付と『この本をnullにした』と書かれていた。
「ああ……なるほど……」
思い出した。昨日SNSのお試しで何かをnullにすることを悩んでいた。
きっと昨日の俺はこの本の記憶をnullにしたのだろう。
SNSは本物だった。
こうなると人とは現金なもので本程度のことに使ったのは少しもったいない気がしてきてしまった。
その日から俺はSNSの常連になった。
それは仕事で特別疲れた日の帰り。
「今日の疲労をnullに」
「ありがとうございます!」
「なんだ、お前今日はずいぶんと元気だな」
「ええまあ」
「昨日あんなに大変だったのにな」
「そうでしたっけ?」
「若いね!」
それは友人とメールでひどく喧嘩をしてしまった日の翌日。
「友人との喧嘩をnullに」
「ありがとうございます!」
『昨日は俺も悪かった』
「何言っているんだコイツ? 間違いメールか?」
それは仕事でひどい失敗をしてしまった日の帰り。
「今日の失敗をnullに」
「ありがとうございます!」
「おい。お前昨日も同じところをミスっていたぞ」
「……え?」
俺は上司の言葉に完全に虚を突かれた。
そんなはずはない。
少し前のことならともかく、機能した失敗を繰り返すなどあるだろうか。
「気をつけろよ」
上司はそこまで怒っている様子もなく注意だけして俺の席を去って行った。
「……駄目だ」
このままではいけない。俺はようやくそう思い立った。
「いつもごひいきのほどありがとうございます」
支配人はいつも通りの営業スマイルで俺を出迎えた。
「さてさてお客様。今日のご用件はどのように?」
「クーリングオフってないのか?」
俺は決意を固めてそう切り出した。
「は?」
支配人はぽかんと口を開けた。
「もうこりごりなんだ。俺は今まで何をnullにしてきた? 空白が多すぎる。もううんざりだ……」
「クーリングオフはありません。nullはnullです。無にするとはそういうことですよ? 契約書にもそう記載されていたはずですが……」
「……」
契約書。かつての俺はきちんと読んだのだろうか。忘れてしまったのか。それすらもnullにしてしまったのだろうか。
「今までnullにしたものの一覧をお見せすることならできますが……」
「それをくれ」
一覧をめくって俺はめまいがした。
本の結末や駅ですれ違った嫌なこと、疲労のたぐいもまあいいだろう。
しかしそれ以上にnullにしてしまったものが多すぎた。
起こしてしまった次に繋げるべき失敗。喧嘩をしてしまった友人。別れた恋人との思い出すと辛いが楽しかった思い出。
そういった多くのものを俺はnullにしてしまっていた。
そしてそれらはもう取り戻せない。
そして俺は決断した。
「……すべてをnullにすることはできるのか?」
「もちろん可能でございます!」
支配人が高らかにそう答えた。
「ありがとうございました。お客様。これほど長くのご愛顧いただいたのはなかなかに例がございません! 今後ともよろしく……と申し上げられないのがとても残念です」
俺の耳にはもう支配人のその言葉も届かない。すべてがnullに落ちていく。
ああそうか。「SNS」あれは「すべてがnullになるサービス」だったのだ。
俺はそれに気付いたがその思考も次第にnullへと変わっていった。
SNS(それはNのサービス) 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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