第71話

 円卓に置かれた救急箱から、麗奈はアルコールと脱脂綿を取り出す。

 そしてたっぷりとアルコールを吸った脱脂綿をピンセットの先で優しく摘んだ。


「それで、この頬は?」

「……スーパーの行きで、お前の親父さんに会った」

「あらそう」


 ピンセット先の脱脂綿を、俺の頬に優しく当てる麗奈は、意外にも驚きを見せなかった。

 まさか先程の俺の表情から、全てを察したとでもいうのだろうか。


「それですまん、お前の親父さん……殴っちまった」

「あら、どうして謝るのよ?」

「いやそれは……」

「だって貴方は……私とお父さんのそうしてくれたのでしょう?」


 そんな何もかもを見透かし、俺に対して絶対的信頼をおく麗奈に、傷口に染みるアルコールの痛みなど忘れて自然と熱くなる顔を隠してしまう。

 ……こういう事をよくも平然と言えるな。


「貴方の顔を見る辺り、お父さんには全てを伝えられたようだし」

「まあ、あの様子なら大丈夫だとは思うが……」

「そうなれば私も、元の家に帰れるというわけね」

「……ああ」


 そう、もし麗奈の父親が改心し、全く問題なく、娘をきちんと愛せる親に戻ったのなら、麗奈がここで居候を続ける必要は無い。

 自身の家に帰って、普通の高校生活を送ればいいだけの事。

 しかしだ、俺はそんな麗奈の幸せを……どうしても全力で応援出来ずにいた。


 初めの内は自分が悪いとは言え、麗奈との同居に気乗りしていなかった。

 当然だ、異性との同居など、絶対に面倒事が出てくるものだからな。


 しかし最近は、麗奈が居るのが当たり前、寧ろ……少し嬉しさを感じていた。

 家に帰り『ただいま』と言えば『お帰りと』帰ってくる。

 そんな当たり前が、最近の俺は心地が良かったのだ。


 だからそれが失われると思うと、とても身勝手なことだと理解していても……それを快く応援はしてやれない。

 いつから俺はこんなにも我儘になってしまったのだろうか。


 だから俺は聞いてしまった。

 麗奈の意思を、内心を――。


「なあ、もし親父さんが戻ったら……ここを出るか?」


 正直答えは分かっている。

 麗奈はきっと出て行かないと言うだろう。

 短い期間とはいえ、ここまで共にしてきたのだ。

 それくらいの事は俺にもわかる。


 それにこんな言い方は卑怯かもしれないが、麗奈は俺の気持ちを理解している。

 だからこの問いには、何の駆け引きも存在していないのだ。

 ただ麗奈に行かないと言わせたいだけ。

 そんな身勝手な、我儘な願いなのだ。


 俺の問いを聞いた麗奈は、真っ直ぐに俺を見つめる。

 答えは初めから決まっている。

 そうその碧眼は俺に訴えかけてきた。

 だからこそ、変に安心感を抱いてしまった俺は、麗奈のその言葉に驚愕してしまう。








「――ええ、出て行くわ」


 淡々と、麗奈は普段通り無表情な顔でそう答えた。

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