第70話

「くそ、痛いもんは痛いな……」


 本気で人を殴ったのは初めでであり、こんなにも自身の拳も痛むものとは知らなかった。

 オマケに掠っただけとはいえ、麗奈の父親さんの一撃も少なからずダメージがあり、一旦家に帰ろうか本気で悩んでしまった。


 しかしそれだと完全に麗奈に怪しまれるので、痛む身体で俺は駅前のスーパーへと買い物へと向かっていた。


「この腫れ、麗奈にバレなきゃいいが……」


 掠めただけとはいえ、麗奈の親父さんの一撃はかなり効いた。

 そのせいで頬が少し腫れてしまっている。

 これ以上麗奈に心配を掛けたくない俺は、アイスを買った時に付いてきた保冷剤を頬に当てている。

 ……まあもう溶けているんですけど。


「けど、親父さんのあの顔……大丈夫だよな」


 最後に見せた麗奈の父親の顔。

 あれは本気で懺悔していた。

 きっともう少しすれば、麗奈を自分の娘として見れるだろう。

 そうなれば麗奈の家出も解消される。


「そうすればきっとあいつも……」


 家に戻るだろう。

 そうだ、家出の原因が無くなったのなら、麗奈があの家に残る必要はない。

 正気に戻った父さんと仲良く、麗奈は銀家でこれからやっていけるだろう。


 しかしどうしてだろう。

 本来なら喜ぶべきことなのに、あの家から麗奈が居なくなると思ったら……何だか寂しさを感じてしまった。

 この気持ちは……。


 ◇ ◇ ◇


「……ただいま」

「お帰りなさい」


 麗奈に見つかると面倒なので、頬の腫れが引くのを外で待ってみたが、いつまでも治らないので渋々帰宅した。

 玄関で靴を脱ぎ、購入したものを冷蔵庫に詰めて行く。

 横目でちらりと麗奈の方を見ると、バラエティ番組をスナック菓子片手に眺めていた。


 つまらなそうに見ている麗奈はこちらに気付きそうにない。

 今のうちに救急箱から痛み止めを――。


「何をしているの?」

「うわあぁ!?」


 と思った矢先、いつの間にか気配無く横に麗奈が立っていた。

 暗殺者さながらの登場に、俺は棚にある救急箱を落としてしまう。

 その過剰な動揺加減に、麗奈はその可愛らしい眉を潜めた。


「……何よその反応は?」

「え! いや、なんか無いかな〜と……」

「暑さで頭でもやられたのかしら?」

「ほ、ほっとけ!」


 可哀想な目で俺を見る麗奈は、口ではそう言っているが俺の行動を怪訝している。

 俺は何事も無かった救急箱の中身を拾い集め、元通りに直す。

 すると立ち上がる直前、麗奈の片手が俺の後頭部に回り、その白い額へと引き寄せられた。


「……少し熱いわね」

「な!」


 額と額、鼻先と鼻先、そして唇は――ギリギリ接触せず。

 しかし密着という意味では十分過ぎる距離だ。


 外を出ていた俺とは違い、冷房の効いた部屋にいた麗奈の体温は冷たく気持ちが良い。

 すべすべな肌感も相まって、その心地良さは格別だ。

 しかしこれ以上の接触は、本当に熱が出てしまう。


「ち、近い!」


 その美しい碧眼と目が合い、思わず勢い良く離れる。

 こんなにも俺の鼓動は早まっているというのに、麗奈の方は相変わらず無表情だ。

 ……何だが釈然としない。


 そう身勝手な不満を抱いていると、棚に戻した筈の救急箱を手に持った麗奈は、円卓の方へと向かって行く。


「その頬の腫れ、何があったか聞かせてくれるのよね?」

「……はい」


 ……やっぱり麗奈に隠し事は無理そうだ。

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