第69話

 陽炎立ち上るアスファルト道を一人、父さんから貰った追加の仕送りを持ち、俺は流れる汗を腕で拭いながらコンビニへと向かっていた。


 八月に入った都会の夏は更に暑さを増しており、温暖化などの影響により今や三十度以上は当たり前。

 これならうちの田舎の方が涼しいのでは無いだろうか。


「くそ、あっちい……」


 ぼやいても仕方ないのは重々承知だが、この暑さでぼやくなと言う方が無理な話だ。

 今頃冷房の効いた部屋でのんびりしている麗奈を想像すると、あいつにもこの暑さを知らせる為連れて来れば良かったと思う。


「……いや、連れてこなくて正解だったな」


 道の先、一人の人物が見えた俺はその歩みを止めた。

 目に映るは高身長でお洒落な服装。

 できれば会いたくは無かったが、これも運命というものなのだろう。

 俺は抜けていた気を引き締め、その人物に少し距離を取りつつゆっくりと近付いた。


「……お久しぶりですね」

「君は……麗奈といた子だね?」

「はい」


 目前に立つ人物は忘れもしない、麗奈の父親だ。

 今日はあの日とは違い、まだ冷静に物を見れている。

 しかし俺は決して警戒を解くつもりはない。

 この男に現実を教えるまでは――。


「麗奈が家を出て数週間。気難しい年頃だろうから、敢えて捜索願いは出して無かったんだ……けれど犯人が見つかった今、その必要は無くなったよ」

「……」

「さあ返しておくれ、僕の麗奈を?」

「……やっぱりあんた、見えてないんだな」


 自分の娘と言うのに、妻の代用品として自分の近くに置きたいと思うその思想。

 どうしてそこまで歪んでしまったのか。


 本来ならこれは他所の家の事情だ。

 外の人間が首を突っ込む事ではない。

 しかし今回は見過ごす事は出来ない。

 ――もう麗奈の悲しむ顔は見たくないから。


「今のあんたの所に麗奈は返せない」

「……ふ、麗奈は君のじゃないだろぉ!」


 目の色を変えた男は、その長い脚で一気に距離を詰めてくる。

 瞬時に俺の胸倉を掴んだ男は、熱した鉄板のように熱いコンクリートの壁に俺を押し付けた。


 胸倉を掴まれ中に浮く俺は、男の腕を掴んで必死に抵抗する。

 しかし締まる首元に、上手く力が入らない。


「君さえ居なければ、麗奈は帰ってくるんだ……麗奈を返せ!」

「ぐっ……!」

「そうすればまた麗奈と……美麗みれいと一緒に暮らせるんだ!」

「この……勘違い野郎があぁ!」


 身体が浮いた分、右脚の蹴りが男の脇腹にクリーンヒットする。

 その衝撃に男の力が弱まり、その手を払って再び距離を置いた。


「ぐっ……」

「はぁはぁ……」


 横腹を抑える男は、依然として俺を敵視する。

 まるでそれは、俺を倒せば妻が帰ってくると思い込んでいる眼だ。

 何処までも現実が見えていないその男に、俺は少し同情してしまう。

 けれどそれで麗奈が苦しんでいる事だけは許せなかった。


「あんただって分かってるんだろ、奥さんはもう……」

「いいや違う! 美麗はいる! あの綺麗な銀髪に、深海のように美しい碧眼、若い頃の美麗本人だ!」


 大きく見開いた瞳で、男は未だそんな事を口にする。

 しかし俺は見てしまった。

 その瞳から、うっすらと流れるものを――。


 気付いているのに、気付かないフリをする。

 理解しているのに、態と曲解する。

 狂人でないのに、狂人のフリをしている。

 そうでもしないと、もう自分を維持出来ないから。


「……なら、俺が分からせてやる。麗奈の為にも……あんたの為にも!」

「美麗を……返せえぇ!」


 右拳を力強く握る男は、俺に向けて渾身の一撃を放つ。

 それと同時に俺も拳を放った。


 放つ先はお互い顔面。

 男の一撃は速度、威力は申し分無く、その拳は一歩先に俺の頬へと直撃した。


「なっ……!」


 しかしその拳の威力は思うように伝わらなかった。

 この灼熱の太陽に焼かれた俺の頬は、ふんだんにかいた汗でコーティングされている。

 そのせいで男の一撃は俺の頬を少し霞める程度で終わってしまった。


「眼を……覚ましやがれえぇ!」


 その声と共に、俺の拳は男の鼻頭に叩き込まれる。

 勢い良く放ったその一撃により、男はアスファルトに倒れ込む。


 人生で初めて人を殴った俺は、その拳に流れる痛みに耐えながらも、倒れる男に大声で告げた。


「あんたが奥さんを大切にしてた事は分かった。けど……麗奈は麗奈だ! あんたの奥さんじゃねぇ!」

「ぐ……」

「あいつの存在を否定するな! あいつに奥さんの影を重ねるな! 麗奈は……あんたのだろぅが!」

「!」


 俺の言葉を聞いた男は大きく眼を開く。

 そしてその眼からは一筋の涙を流した。


「ゔう……僕は今まで、何てことを……」

「……まだやり直せます。麗奈の為にも、奥さんの為にも……現実を受け止めて下さい」

「ゔうっ……」

「……またお会いしましょう」


 アスファルトの上で声を殺してむせび泣く男に別れを告げて、俺はゆっくりと駅へと向かうのだった。

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