第48話
地獄だと思われていた四時間だったが、思いの外あっという間に去っていった。
しかしその間、身体の震えが止まらなかった。
店に来る客は全員変人ばかりで、そんな相手をするメイドも、またサディズムばかり。
叩く変人と喜ぶ変態。
それがとても怖くて、恐ろしくて、激しく戦慄していた。
そんなこんなで見学が終わった俺たちは、夕方だと言うのにまだまだ明るい住宅街の中を歩いていた。
「麗奈、お前まさか入らないよな?」
帰り際までずっと募集の紙を見ていた麗奈だ。
恐らく無関心ではないだろう。
しかし俺は、一同級生として、一同居人として、あの店でバイトをする事によしと言えない。
そんな麗奈は、先程から沈黙を続けている。
まるであの店を忘れられないと言わんばかりに。
「麗奈、おい麗奈!」
「……ごめんなさい、何かしら?」
「だからピースで働くのかどうかって話だよ」
「そうね……」
横を歩く麗奈は足を止め深く考え込む。
長考して数分、麗奈はくるりとその場で回り、俺と向き合うように立ち、その碧眼を俺に向けてきた。
「やめておくわ、あの高時給にはかなり惹かれるけれど」
「……そうか」
「それに貴方もあの店で働くとなると色々面倒でしょう?」
「当たり前だ」
バイトに行くたび化粧だウィッグだの、女装をしてまでやりたい訳ではない。
そもそもメイド喫茶なんてやりたくも無い。
今回の収穫は高時給のバイトは仕事内容に難ありという事と、後は麗奈のメイド服姿が結構似合ってたくらいか。
正直店の中で一番可愛かったな。
まあそんな事絶対言わないけど。
「なら次のバイト先候補を決めないとな――っとそうだ」
スマホを取り出し求人募集を探そうとするが、目の前にあったコンビニを見て家に食器用洗剤がない事を思い出す。
今週の夕飯の当番は俺なので、洗剤だけ先に麗奈に買ってきてもらうか。
「すまん麗奈、洗剤のストックが無いから買っておいてくれ」
「分かったわ」
そう言って俺は鞄から取り出した財布を、当たり前のように麗奈に渡す。
そう言えばこれが当たり前になったのはいつだっただろうか。
今思えば不用心にも程があるな。
金だけでなく保険証や銀行のカードなど、個人情報も大量に入った貴重品を何の用心もなく他人に託している。
これが彼女なら理解はできるのだろうが……。
しかし麗奈なら良いかと思っている俺がいる。
寧ろ家族である妹たちに渡すくらいなら、麗奈に渡す方が百倍マシだ。
……何なんだろうな、この信頼は。
財布を受け取った麗奈は、自動ドアを抜けてコンビニへと入って行く。
それを見届けた俺は、一足先に家へと向かうのだった。
◇ ◇ ◇
玄関前に着いた俺は、強烈な違和感を感じた。
目の前に見えるのはいつもと変わらぬ玄関の扉で、おかしな所は一切見当たらない。
ならこの違和感の正体は何なんだ。
ひとまず中に入ろうと思い、俺は普段通り玄関を開ける。
――しかしその行動は不正解だった。
「やっほーお兄、来ちゃっ――」
バタン、力任せに扉を閉じるその音が廊下に響き渡る。
どうしてあいつがこの部屋にいるんだ。
いや待て、きっと見間違いだ。
そうだそうに違いない。
「お兄、いきなり閉めるなんて危ないじゃーん!」
閉めたはずの扉が一人でに開いたと思いきや、扉の向こうから動き易そうな格好した見知った少女が顔を出す。
先程から俺の事を『お兄』と呼ぶこの少女は
黒髪ショートカットのボーイッシュスタイルが特徴で、昔から運動が好きで今は柔道部に所属していたか。
中身も外見通りで、人と壁を作らないその性格から学校では人気者だったりする。
一言で言い表すなら元気印の女の子だ。
――しかしブラコンだ。
「何しに来た?」
「ひっどー、それが久し振りにあった愛妹にかける言葉なのー?」
「どうやってここに来たんだよ」
「お母さんが教えてくれたんだー!」
満面の笑みを向けてダブルピースしてくる妹に俺は頭を抱える。
母さん、どうして教えたんだ……。
「お前がいるって事は柚子もいるんだろ?」
「勿論! 寧ろあたし一人で来たら柚子ちゃんに殺されちゃうよ」
「……マジでやりかね無いから否定できねぇ」
「まあまあお疲れでしょ、上がって上がって!」
ここは俺の家だぞと内心思いながらも、玄関で靴を脱ぎ奥へと進む。
すると円卓の辺りで正座をしている和服姿の少女が目に留まる。
その少女は俺を見るや否や、瞬時に立ち上がり胸に飛び付いてきた。
「お兄様――会いたかったです!」
腰に手を回し、力強く俺に抱き付く少女は斉藤柚子さいとうゆず、蜜柑より更に一つ下の俺の妹だ。
腰まで伸びた黒髪を綺麗に整え、和服を好んで着ているその姿は正しく大和撫子。
その美しさに同級生の男子からよく告白を受けるらしい。
才色兼備でそのお淑やかさには『完璧』の文字が相応しいだろう。
――しかしブラコンだ。
「お久し振りですねお兄様」
「ああ、元気そうでなりよりだよ」
「えー、お兄あたしの時と反応違くなーい?」
「お前は黙っとけ」
冷たくあしらうと蜜柑は不満そうに頬を膨らませる。
柚子の対応は慎重に行わなければならないのは蜜柑、お前だって分かっているだろう。
もし粗相なんかしたら最悪死人が出るぞ。
「それにしてもどうしてここに?」
「決まっています、お兄様に会いに来たのです!」
「そ、そうか。それは嬉しい話だ……」
苦笑いな俺は、上部だけの感謝の意を込めて柚子のその綺麗な黒髪を優しく撫でる。
するとそれが気持ちいいのか、柚子は幸せそうな顔を見せた。
「柚子ちゃんだけずるいよ、あたしもー!」
「はぁ……分かったから」
横っ腹にタックルしてきた蜜柑は、俺に撫でろと言わんばかりに頭を突き出す。
それに応えるべく、蜜柑の髪もまた優しく撫でてやった。
両手に花、いや両手に妹。
この光景を見た者たちは、揃って皆同じ事を言うだろう。
――何て素敵な兄妹なのだろうと。
しかしそんな良いものじゃない、だってこれ無理矢理やらされてるだけだから。
「なあ二人とも、そろそろいいだ――」「ただいま」
玄関の施錠の音と共にその声が聞こえた瞬間、俺の手が止まる。
まずい、このタイミングで麗奈が帰ってきてしまった。
この二人に麗奈の事がバレたら、間違いなく母さんたちに同居の事が伝わってしまう。
そうなれば下手したら実家に強制送還だ。
しかし考えている間も、麗奈の足音は止まない。
そして足音が止まると同時に、斉藤シスターズと麗奈は無事出会ってしまった。
麗奈は二人を、二人は麗奈を見つめる。
その間俺はごくりと生唾を飲み、冷や汗を袖で拭った。
もう後は賭けるしかない。
頼む麗奈、どうか最適解を導き出してくれ。
「――もうお兄ちゃん、お客さんが来るなら先に伝えておいてくれないと、私も困るのだけれど?」
麗奈、それ今一番駄目なやつ――。
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