第32話
夕方だというのにまだまだ明るいこの時間、夕陽に照らされた玄関の扉を俺は開く。
「ただいま」
靴を脱ぎながらそう部屋の奥に言葉を投げる。
すると最近では当たり前となっていた『お帰りなさい』の返事が返ってこなかった。
違和感を覚えた俺は足元を見やる。
するといつもはそこにあるはずの麗奈の革靴が今日は無かった。
どうやらまだ帰っていないらしい。
鍵は渡してあるのでそこは問題無いのだが、連絡も入れずに一体何処へ行ったのだろうか。
「まいっか、なんかあったら連絡寄越すだろ」
楽観的な考えかも知れないが、麗奈なら心配は要らないだろう。
勿論あまり遅い様ならこちらから連絡は入れるつもりだ。
鞄をいつもの定位置に置き、クッションを座布団代わりに下に敷く。
そこに腰を下ろしたら、俺は件の事件の詳細を纏め始める。
蒼井にあのあだ名を付けたのは八神だが、しかしその実、裏では舞という女の陰謀が絡んでいるのでは無いかと俺と白石は推測する。
それを皆に証明できれば事は直ぐに解決するが、残念ながらその証拠が何処にも存在しない。
なので明日、白石が舞という女との話の場を作ってくれるらしいので、そこで上手いことその女から言質を取ろうという算法だ。
上手くいくかは正直五分五分だ。
下手したら話すら出来ないかも知れない。
まあ白石が仲介するからそれはないか。
「ただいま」
そんな事を考えていると玄関の方から聞き慣れた声がする。
その声の方へと向かうと、靴を脱ぐ麗奈がいた。
俺は麗奈の鞄を貰い、部屋の奥へと持ち運ぶ。
後に入ってきた麗奈は制服の上着をハンガーに掛けたら、先程俺が座っていたクッションに腰を下ろす。
俺も円卓を挟んで向かい側に座ると、麗奈は普段の無表情なまま話を始めた。
「遅くなってごめんなさい」
「……別に門限は無い、それより何処行ってたんだ?」
時刻は午後の六時を回っている。
学校が終わったのは三時半くらいだ。
普段は特に寄り道もせずに帰る麗奈だが、今日は一体何処で何をしていたのか。
そう聞かれた麗奈は、何かを思い出したかの様に突如円卓を強く叩く。
そしてそのまま俺の方へと身を乗り出した。
「そう、聞いて頂戴衛介!」
「な……何だよ」
深海の様に深みのある青い瞳と、雪の様に白い肌を持つ美しいその綺麗な顔が、突然目の前に現れて俺は心臓が跳ねる。
余り顔には出ていないが、少々興奮気味な目前の美少女に俺はたじろぐ。
しかし麗奈は御構い無しにそのまま話を続けた。
「今日私は佐浦さんたちと『猫カフェ』という所に行ったのよ。あそこは天国……桃源郷だわ!」
「そんなとこ行ってたのか」
どうやら下校途中、佐浦と拓也に会ったらしく、二人は無料チケットで猫カフェに向かう最中だったようだ。
本来はそこに白石も加わる予定だったが、部活で行けなくなってしまい、チケットが余っていた所に麗奈が拓也に誘われたという所らしい。
成る程、だから麗奈がこんなにも興奮しているのか。
その後麗奈は猫カフェでの事を熱く語っていた。
余りにも熱弁する麗奈に疲れてしまい、後半は適当に相槌を打っていた。
しかしそれでも麗奈は止まらなかった。
俺が夕食を作りにキッチンに向かうが『帰る前、シロとクロが私に甘い声で鳴いてきて辛かったわ……』など、俺の背後にぴったりとくっついて話し続けていた。
麗奈の猫好きも大概だな。
そんな未だ熱心に語る麗奈の口に、俺は拍子切りしたきゅうりを無理矢理突っ込んだ。
きゅうりで麗奈の口を塞いだら、俺はそのまま料理の乗った皿を手に持ち円卓へと運ぶ。
「猫カフェの話も良いが、夕飯が先だ」
「……分かったわ」
もぐもぐと小さな口を動かしてきゅうりを食べる麗奈は、少々不満げな顔を見せてそういう。
まだ話し足りない、そんな顔をしていた。
――仕方ないな。
「……飯が終わって風呂が沸くまでだぞ」
寂しそうな顔を見せる麗奈に、エプロンを外しながら俺はそう言った。
するとその言葉に麗奈は少し微笑む。
そしてただ一言、嬉しそうに感謝の意を伝えてきた。
「――ありがとう」
「……いただきます」
「いただきます」
俺は何だか照れ臭くなってしまい、無理矢理合掌した。
麗奈もそれに続いて二人で食事を開始する。
それから数分、夕飯が終わるとベッドに寄りかかる俺の横で、麗奈は再び猫カフェでの出来事を楽しそうに話し出すのだった。
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