善行への道

山川一

第1話 生命の運動と人の善悪

一日一日と時間が過ぎて、陽が昇って沈むうちに私達の身の周りは様々に変化し移り変わっていく。毎日毎日同じような仕事をしているようであっても、社会全体が蠢き、置かれた環境は変貌していく。ここでまずこの宇宙における生命の運動についてより詳しく考えてみたいと思う。岩石のような無生物は全く何も変わらないように見える。一方、夏の蝉や家の猫のように色々と駆け回り色々と食べる者達の生活は忙しい。私達も毎日食事をする。したがって私達は必ず殺している。全ての生き物は何らかの形で他の生物なり無生物なりを破壊しその身に取り込む。生きるために殺す、というと何か大変に葛藤があるように思われるが、その原因は生物を破壊することが人間にとっての悪であるからだ。例えば、もし岩や石ころを食べて生活しうる人間がいたとしたら彼の生活は全くの悪がないと言えるだろう。しかし我々はそうではない。豚を殺し稲の種子を刈り取る。したがって、まず生命は外側にある何らかの原子、あるいは分子を外に結合されている形から分解して取り出し、小腸を中心とした消化作用でもって自らの内に取り込むのである。我々の身体はそうやって外側にある原子分子を自分を中心として再構成したものであるといえる。したがって、我々の身体を構成する原子分子は常にどこか外側にあったものから借り受けたものだし、また死という形で返却しなければならない。

死は人間にとってほとんど悪と思われており、神の仕業で避け得ないのでしょうがないと思われているが、殺すことと同様忌避されるものである。しかし前項で述べた通り、原子分子を外から借り受けまた返還するのが生命の運動そのものだとすると殺すという悪は人が生きる限り避けることができない。また死という悪も避けることができない。石喰い人間のみが生きる上で悪を避けうると考えるならば、基本的にこの悪の出処は、生命体の持つ情報体としての性質であると考えることができる。つまり、石を破壊しても石だがネコを殺せばそれはネコでなくなってしまう。ネコをネコとして成り立たせていたシステム、あるいは情報体が破壊されてしまう。このことを人間は悪と考えていると思われる。同様に、ある身近な人が記憶を失ったり、あるいは認知症などで種々の動作がこれまでと大きく異なってきた時、私達は死に近い喪失を感じることになる。まだ死ではないがその人としての情報体が破壊あるいは変化してしまい、以前のその人を喪失してしまったためである。実際には、人が亡くなることと山にいる見知らぬ猪が殺されるのではその人にとっての影響は大きく異なる。このことは後に述べるが、ここでは生命の運動として原子分子の交換が生命運動の本質であることに対して、人間においては原子分子の関係を破壊すると悪となり、保つところに善があることを明らかにしておきたい。



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善行への道 山川一 @masafuro

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