庭先の椿つばきが、薄く積もった雪に鮮血のような朱を落とした二月。かじかむ手を学ランのポケットに入れた僕が家に着くと、同じく自分の家の前にいた灯莉と会った。

 チェック柄のコートを着た灯莉は、寒さの所為か少し顔が赤かった。僕に気づくと、スマホを握った手を下ろして「よっ」と砕けた調子で挨拶してくる。僕も「ん」と短く答えてから、気になったので探りを入れた。

「何。電話?」

詮索せんさく禁止。お子様には関係ないでしょ」

 灯莉は、僕に反論する隙を与えない。「人のことより、歩美ちゃんは?」なんて大人ぶった言い方をして、僕に背中を向けている。

「ガキ扱いすんな。っていうか、なんで歩美?」

「ふうん、鈍感? それとも、遊び? いい子なんだから、大事にしなよ」

「だから、なんで歩美の話になるのかって訊いてんだけど」

「はいはい、お姉さんは忙しいので、犬も食わない話は興味ないです」

 顔だけで振り返った灯莉は、口角を上げた。縁日の金魚すくいで、赤い尾びれに何度も逃げられたようなもどかしさを感じたけれど、嘆息するだけに留めておいた。誤解は困るが、悪い気分ではなかったからだ。

「受験勉強、調子どう?」

「ん、まあまあ」

 短く答えた灯莉は、悪戯っぽい笑みの名残を、ぎこちない表情で引っ込める。赤茶だった髪は黒に戻り、背中の真ん中まで伸びていた。

 ――灯莉が歌を口ずさんだ日から、僕らの錆びついた関係に変化があった。僕が音楽室まで迎えに行くと、灯莉は大人しく帰るようになったのだ。

『勘違いしないで。俊貴が来ると、練習にならないって理由だけなんだから』

 灯莉の根負け。僕の粘り勝ち。僕の行為は、灯莉を含めた多くの人間からそう言われた。本当の理由は、部員たちの陰口から僕を守るためか、あるいは家族との関係を修復するきっかけを、灯莉自身も探していたからだろうか。真実は分からなくても、少しだけ灯莉に近づけた僕は、たぶん少しだけ浮かれていた。

 ただ、部活を引退後の灯莉は、受験勉強に本腰を入れて、寄り道をせずに帰宅している。こうなると皮肉にも、僕が灯莉と一緒に帰る口実がなくなった。再び別々に帰宅する日々に戻ったけれど、代わりに、互いの家の前で顔を合わせることが何度かあった。

 交わす会話は、ただの挨拶や、互いの勉強の調子など。どちらかが「それじゃあ」と言えば、相手は「うん」と適当に頷いて、それぞれの家に引き上げる。小学生の頃と比べれば温度の失せたやり取りでも、僕は満足していた。

「寒いね」

 灯莉が、僕に背中を向けたままぽつりと言った。話題を振るのはいつも僕の役回りなので、今日は珍しい。僕は平凡に「ああ、寒いな」と返したけれど、本当は寒さなんて気にならなかった。短い会話で繋ぐこの時間が、一秒でも長く続いてほしかった。

 とはいえ、受験勉強中の灯莉を、これ以上引き留めるわけにもいかない。門扉もんぴに手をかけた僕は、この時間を終わりにする台詞せりふを、普段通りに告げた。

「それじゃあ」

 だが、返ってきた台詞は、普段通りではなかった。

「うん。……由良ゆらくん」

 足元の雪に、赤い椿がころりと落ちた。僕の靴が、花の首を蹴る音なんて、耳に届くわけがないのに、なぜだか残酷なくらいに柔らかく、冷え切った耳朶じだを打っていた。僕は、灯莉を振り向いた。

 灯莉は、まだ僕に背中を向けていた。コートの肩が、微かに震えている。スマホを強く握りしめる手も、怖いくらいに白い。

「灯莉」とやっと出た声は、情けなく掠れていた。「灯莉!」ともう一度叫んだ僕は、門扉の前から――『由良ゆら』と表札の掛かった家の前から、隣家へ詰め寄った。だが、灯莉は既に玄関扉を開けていて、門扉に阻まれた僕の手は届かない。

「呼び方、なんで」

「……お願い、されたから」

「誰、に」

「彼氏、に」

 か細い声を、僕は遠い世界の出来事のように聞いていた。

「自分以外の男、名前で呼び捨てにするなって、だから……」

 最後まできちんと言わずに、灯莉は家の中へ滑り込むと、音を立てて扉を閉めた。平手打ちに似た拒絶の音が、小波さざなみのように僕の頭に鳴り続ける。冷たい門扉に触れた指先は、痛いくらいに疼いていたのに、その感覚さえも他人事のように遠かった。

 僕を由良と呼んでから、灯莉は一度も顔を見せなかった。

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