夏休みを迎えるまでに、僕は春原灯莉すのはらあかりが見せる中学校での顔を知っていった。

 授業態度は、至って不真面目。気ままな野良猫のように教室を時々出ては、中庭のベンチの木陰や、体育館に併設されたプールのそばで、教師とか、大人とか、退屈とか、鬱積とか、世界なんて名前のつく全てのものから逃げ出して、一人で羽を伸ばしている。高校受験を控えた三年生の中で、それでも成績は中の上。吹奏楽部の引退に向けて最後の練習に打ち込む傍ら、部活のOBの先輩に勉強を教わっているという。

 これらの情報を、僕は周囲に訊き回って得たわけではない。昔馴染みの友人たちが、お節介で教えてくれたのだ。仮に彼らから聞かなくても、自然と耳に入っただろう。

 中学三年生の灯莉は、小学生時代よりも人目を引いていた。洗練された容姿に、りんと研ぎ澄まされた眼差し。灯莉が廊下を歩くだけで、いくつもの視線がついてきた。歩美あゆみなどは「灯莉ちゃんは綺麗だね」と芸能人でも見るような羨望の目で囁いたが、僕は同意しなかった。放課後に歩美と別れた僕は、吹奏楽部の部室を目指した。

「春原先輩はいますか」

 音楽室を覗き込むと、もはや顔馴染みになった何人かが、目線で居場所を教えてくれた。男子部員の一人と楽譜を覗き込んでいた灯莉は、僕に気づくと露骨に顔をしかめたけれど、構わず僕は灯莉に近づいて、「帰ろう」と朴訥ぼくとつに呼び掛けた。

「やだ。一人で帰って」

「おばさんとの約束忘れてる。今日は部活をしないで帰る曜日」

「うるさいなあ! やっぱり言いなりなんじゃない!」

 立ち上がった灯莉を、隣にいた男子部員が「もう少し優しくしてやったら? せっかく彼氏が迎えに来たんだから」と醜悪なにやけ顔でなだめてきた。

 彼氏なんて、そんな台詞せりふを真に受ける人間は誰もいない。小馬鹿にした視線のもりが、僕にいくつも突き刺さる。僕が顔色を変えずに立ち続けていると、灯莉は舌打ちして男子部員の肩を軽く小突き、荷物を雑にまとめて扉に向かった。僕も続くと、嗤い声の合唱が追い駆けてきた。音楽に関わる部活のくせに、全員が音痴だと僕は思う。

 廊下に出ると、窓から初夏の風が吹きつけた。潮の香りを運ぶ風だ。僕は紙飛行機を飛ばすように、前をどんどん歩く灯莉に言った。

「おばさんたちは悪くないよ。これは、僕が勝手にやってることだから」

 階段を下り、昇降口へ向かう灯莉は、何も言わない。僕の所為で貴重な練習時間を奪われたうえに、部活仲間とわいわい下校することも許されず、気に食わない元弟分との帰宅を余儀なくされたのがしゃくなのだ。

 振り向かない背中は、きっと知らない。路傍ろぼうの石を蹴飛ばすような無関心を突きつけられるたび、僕の肺にはナイフをねじ込まれたような痛みが走り、呼吸に血が混じることを。けれどその傷がどんなに深手でも、掠り傷だと己の意識に擦り込んで、今日も僕は灯莉と話す時間を作る。

「今日の夕飯、カレーだって。家族みんなで食べたいって、おばさん言ってた」

 灯莉は靴箱から運動靴を出して、簀子すのこ板の前に放った。僕も一年生の靴箱前で上履きを急いで履き替えると、先に校舎を出た灯莉に追いつき、話の続きを再開する。

「だから今日は、夜に出かけないでほしい」

「どうして」

 灯莉が、振り向いた。眼光の鋭さは、海の底へさらわれそうになる身体を天へと向けた瞬間に、見上げた海面を照らす陽光を想起させた。真剣な眼差しに、僕も真剣に応じた。

「心配だから。おばさんがどうとかじゃなくて、僕が」

「俊貴、変わったよね。そんなふうに、思ってることをハキハキ言えるタイプじゃなかったのに」

「うん。変わった」

 僕は日陰が似合いの人間で、今も性根は暗いままだ。誰といても、何を話しても、浜辺に打ち上げられた珊瑚のようなひびと穴だらけの心の欠けは埋まらない。かつてそのくぼみを満たしたものは、いつの間にか乾いていた。だが、それでも。

「僕が変わらないと、灯莉は帰ってこない」

「いい加減、目を覚ましなよ」

 灯莉は、据わった目で僕を見上げた。また一太刀ひとたち、心に傷が刻まれる。僕は、灯莉に嫌われている。にもかかわらず、かろうじて一緒に下校できているのは、灯莉が掛けてくれた慈悲かもしれない。だとしたら、灯莉は必ず戻ってくる。そんな期待にすがらなければ、僕は生傷だらけの心を守れない。

「私はもう、俊貴の好きな灯莉姉ちゃんじゃないんだよ。嘘もつくし、俊貴が信じられないくらいに最低なことだってしたんだから」

「知ってるよ」

 動じないで答えたつもりで、本当は動じていた。俊貴の好きな、灯莉姉ちゃん。誰にからかわれても実感なんてなかったのに、灯莉本人に告げられたら、指摘がしっくりと胸に落ちた。けれど今は、初めて名づけられた感情に言葉も声も与えないで、僕はただ自分が落ち着くためだけに、「知ってるよ」と繰り返した。

 灯莉の帰宅が遅いのは、部活が理由ではなく友達と遠出したからだ。その交通費にてるために、商店街での買い物という名目で、家族のお金をちょろまかした。灯莉が勉強を教わっている場所だって、例の先輩の家かもしれない。

「じゃあ、どうして? 分かったでしょ、私は忙しいの。受験生だし、部活もあるし、友達との時間も大事にしたい。俊貴と遊んでる暇なんてないの」

 口調を強くした灯莉は、歩調をぐんと速めた。躍起になって灯莉に歩調を合わせた僕も、「じゃあ、僕は何?」と強い口調で言い返した。

「友達じゃないなら、僕は、今の灯莉の、何?」

 息を短く吸った灯莉が、苛立ちと悔しさの入り混じった顔で僕を睨めつけた。なぜだか泣き顔のように見えた。歩く速度をさらに上げた灯莉は、僕の質問には答えずに、「ねえ、どういう神経してるのっ?」と、昨年の秋の夜に隣家から聞こえた声と同じ悲痛さで、僕を激しく罵倒した。

「部室まで何度も呼びに来てっ、みんながどんなに俊貴のことを馬鹿にしてるか知ってる? 知らないわけないでしょ!」

「知ってる。灯莉の周りの奴らはみんな、ひどい音痴ばっかりだ」

「音痴? どうしてそうなるのっ? 失礼なことを言わないで!」

「ふうん、あんな奴らでも庇うんだ」

「仲間のことを馬鹿にするなら、許さない。もう二度と部室に来ないで」

「じゃあ灯莉、歌ってよ」

「え?」

「よく歌ってたじゃん。即興で、でたらめな歌を……ここで。そんなに仲間を馬鹿にされて悔しいなら、灯莉がみんなの代表で、名誉回復のために歌えばいい。昔みたいに」

 はっとした顔で、灯莉は足を止めた。競い合うように通学路を走った僕らの頬を、さっきよりも濃い海の香りが叩いていった。防波堤沿いの階段を下った先には、ぎらぎらした太陽光を眩しく吸収した砂浜が拡がり、消波ブロックに守られたコンクリート色の道の先に――思い出の灯台が建っている。

「……性格、いつからそんなに悪くなったの?」

「元から。灯莉が僕に優しくなったら、少しはマシになるかもしれない」

「ばか。生意気」

 屋上前で僕をなじったときのように、灯莉は目に強い光を湛えて僕を見た。それからスクールバッグをぽんと足元に放り、防波堤のへりに腰を下ろす。

 長い睫毛が伏せられ、唇が薄く開き――何年も眠りについていた人魚が瞼を開くように、小さなメロディが潮風に乗って細く流れた。

 口ずさまれた歌は、僕でさえ知っている流行はやりの曲で、純愛のバラードだ。あの頃のような、即興ででたらめの歌ではない。僕は、立ったまま耳を傾けた。

 ワンフレーズだけで、途切れた歌声。人魚は、再び眠りについた。とんと弾みをつけて立ち上がった灯莉は、スクールバッグを肩に提げ直し、僕を一瞥して言い捨てた。

「これで満足でしょ」

 カモメが飛び立つように走り去っていく背中を、僕はもう追い駆けなかった。胸にはほのかな充足感が、黄昏たそがれ時の海のように満ちていた。

 こうやって灯莉と話していけば、いつの日か空白の時間を取り戻せる。そう疑いもなく信じていた。

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