5
夏休みを迎えるまでに、僕は
授業態度は、至って不真面目。気ままな野良猫のように教室を時々出ては、中庭のベンチの木陰や、体育館に併設されたプールのそばで、教師とか、大人とか、退屈とか、鬱積とか、世界なんて名前のつく全てのものから逃げ出して、一人で羽を伸ばしている。高校受験を控えた三年生の中で、それでも成績は中の上。吹奏楽部の引退に向けて最後の練習に打ち込む傍ら、部活のOBの先輩に勉強を教わっているという。
これらの情報を、僕は周囲に訊き回って得たわけではない。昔馴染みの友人たちが、お節介で教えてくれたのだ。仮に彼らから聞かなくても、自然と耳に入っただろう。
中学三年生の灯莉は、小学生時代よりも人目を引いていた。洗練された容姿に、
「春原先輩はいますか」
音楽室を覗き込むと、もはや顔馴染みになった何人かが、目線で居場所を教えてくれた。男子部員の一人と楽譜を覗き込んでいた灯莉は、僕に気づくと露骨に顔を
「やだ。一人で帰って」
「おばさんとの約束忘れてる。今日は部活をしないで帰る曜日」
「うるさいなあ! やっぱり言いなりなんじゃない!」
立ち上がった灯莉を、隣にいた男子部員が「もう少し優しくしてやったら? せっかく彼氏が迎えに来たんだから」と醜悪なにやけ顔で
彼氏なんて、そんな
廊下に出ると、窓から初夏の風が吹きつけた。潮の香りを運ぶ風だ。僕は紙飛行機を飛ばすように、前をどんどん歩く灯莉に言った。
「おばさんたちは悪くないよ。これは、僕が勝手にやってることだから」
階段を下り、昇降口へ向かう灯莉は、何も言わない。僕の所為で貴重な練習時間を奪われたうえに、部活仲間とわいわい下校することも許されず、気に食わない元弟分との帰宅を余儀なくされたのが
振り向かない背中は、きっと知らない。
「今日の夕飯、カレーだって。家族みんなで食べたいって、おばさん言ってた」
灯莉は靴箱から運動靴を出して、
「だから今日は、夜に出かけないでほしい」
「どうして」
灯莉が、振り向いた。眼光の鋭さは、海の底へ
「心配だから。おばさんがどうとかじゃなくて、僕が」
「俊貴、変わったよね。そんなふうに、思ってることをハキハキ言えるタイプじゃなかったのに」
「うん。変わった」
僕は日陰が似合いの人間で、今も性根は暗いままだ。誰といても、何を話しても、浜辺に打ち上げられた珊瑚のような
「僕が変わらないと、灯莉は帰ってこない」
「いい加減、目を覚ましなよ」
灯莉は、据わった目で僕を見上げた。また
「私はもう、俊貴の好きな灯莉姉ちゃんじゃないんだよ。嘘もつくし、俊貴が信じられないくらいに最低なことだってしたんだから」
「知ってるよ」
動じないで答えたつもりで、本当は動じていた。俊貴の好きな、灯莉姉ちゃん。誰にからかわれても実感なんてなかったのに、灯莉本人に告げられたら、指摘がしっくりと胸に落ちた。けれど今は、初めて名づけられた感情に言葉も声も与えないで、僕はただ自分が落ち着くためだけに、「知ってるよ」と繰り返した。
灯莉の帰宅が遅いのは、部活が理由ではなく友達と遠出したからだ。その交通費に
「じゃあ、どうして? 分かったでしょ、私は忙しいの。受験生だし、部活もあるし、友達との時間も大事にしたい。俊貴と遊んでる暇なんてないの」
口調を強くした灯莉は、歩調をぐんと速めた。躍起になって灯莉に歩調を合わせた僕も、「じゃあ、僕は何?」と強い口調で言い返した。
「友達じゃないなら、僕は、今の灯莉の、何?」
息を短く吸った灯莉が、苛立ちと悔しさの入り混じった顔で僕を睨めつけた。なぜだか泣き顔のように見えた。歩く速度をさらに上げた灯莉は、僕の質問には答えずに、「ねえ、どういう神経してるのっ?」と、昨年の秋の夜に隣家から聞こえた声と同じ悲痛さで、僕を激しく罵倒した。
「部室まで何度も呼びに来てっ、みんながどんなに俊貴のことを馬鹿にしてるか知ってる? 知らないわけないでしょ!」
「知ってる。灯莉の周りの奴らはみんな、ひどい音痴ばっかりだ」
「音痴? どうしてそうなるのっ? 失礼なことを言わないで!」
「ふうん、あんな奴らでも庇うんだ」
「仲間のことを馬鹿にするなら、許さない。もう二度と部室に来ないで」
「じゃあ灯莉、歌ってよ」
「え?」
「よく歌ってたじゃん。即興で、でたらめな歌を……ここで。そんなに仲間を馬鹿にされて悔しいなら、灯莉がみんなの代表で、名誉回復のために歌えばいい。昔みたいに」
はっとした顔で、灯莉は足を止めた。競い合うように通学路を走った僕らの頬を、さっきよりも濃い海の香りが叩いていった。防波堤沿いの階段を下った先には、ぎらぎらした太陽光を眩しく吸収した砂浜が拡がり、消波ブロックに守られたコンクリート色の道の先に――思い出の灯台が建っている。
「……性格、いつからそんなに悪くなったの?」
「元から。灯莉が僕に優しくなったら、少しはマシになるかもしれない」
「ばか。生意気」
屋上前で僕を
長い睫毛が伏せられ、唇が薄く開き――何年も眠りについていた人魚が瞼を開くように、小さなメロディが潮風に乗って細く流れた。
口ずさまれた歌は、僕でさえ知っている
ワンフレーズだけで、途切れた歌声。人魚は、再び眠りについた。とんと弾みをつけて立ち上がった灯莉は、スクールバッグを肩に提げ直し、僕を一瞥して言い捨てた。
「これで満足でしょ」
カモメが飛び立つように走り去っていく背中を、僕はもう追い駆けなかった。胸には
こうやって灯莉と話していけば、いつの日か空白の時間を取り戻せる。そう疑いもなく信じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます