隣家から言い争いの声が聞こえて、台所にいた母さんが動きを止めた。まな板を包丁が叩くリズムが乱れて、居間でテレビを見ていた僕に、不協和音を伝えてくる。

 その間にも、隣家で扉を乱暴に閉ざす音がして、残響に荒々しい足音が続いた。あとは秋の虫がりいりいと悲しくすすり泣くばかりで、物音一つしなかった。僕はソファから腰を浮かしたけれど、家族の視線を感じた気まずさから、再び腰を下ろした。

 ――灯莉は、どこへ行ったのだろう。

 街灯の光の輪を外れた道は、闇が深海のように巣食っている。道標みちしるべの閃光が消えた町で、灯莉はきっと一人ぼっちだ。

 行き先は、灯台だろうか。だけど僕は、そこだけは違うと信じたかった。

 ――『俊貴、行こう!』

 もう何か月も、その呼び声を聞いていない。どうせどこかへ行くのなら、僕も道連れにしてほしかった。けれど果たして今の灯莉は、そんな僕の我儘わがままを許すだろうか?

 灯莉は中学一年生で、僕は小学五年生。通う学校が分かれた僕らは、顔を合わせる時間がめっきり減っていた。

 灯莉と同じ飼育委員に入った僕は、毎週決まった曜日に早起きして、山の端に昇った生まれたての太陽を眺めながら、通学路を一人で歩いた。下校時は、歩美あゆみと帰る日が増えた。家の方向が同じだからだ。登下校の通学路で、灯莉と出会うことはなかった。珊瑚さんご色の胡粉ごふんを絵筆で塗り広げたような夕空へ、クレマチスの藍色をした夜のとばりが下りるように、僕らの毎日は瞬く間に、無慈悲に色を変えていった。

 ――四月には、まだ灯莉に会えた。

 僕より二時間ほど遅く帰ってきた灯莉は、仔犬とじゃれるみたいに僕の頭をわしゃわしゃ撫でて、中学校の話を勢い込んで聞かせてくれた。

 ――五月にも、まだ頻繁に顔を見に行けた。

 けれど、灯莉の帰宅時間は次第に遅くなり、隣家の様子を気にした僕は、小石の当たらない静かな壁と、窓に四角く切り取られたあかね空を、ぼんやり眺めるのが日課になった。

 ――六月には、異変が明確になった。

 灯莉は、吹奏楽部に入部していた。放課後には音楽室で金色のホルンを抱えて、先輩たちと毎日の練習に励んでいるという。

 その頃から、ぱったりと会えなくなった。灯莉が帰宅するのは、決まって僕らの夕飯時か、それよりさらに一時間は遅かった。

 ――夏休みになれば、会えるのだと思っていた。

 だが、夏休み中も灯莉は部活に参加した。時には同級生たちと電車を乗り継ぎ、遠方の映画館に出かけていた。僕が隣家へおとないを入れても留守ばかりで、灯莉から僕を訪ねた回数は、片手の指で足りるほどだ。

 季節は無味乾燥に過ぎていき、灯莉が中学二年生で、僕が小学六年生の秋になると、夜の七時を過ぎ、八時を過ぎ、九時を過ぎても、灯莉は帰ってこなくなった。隣家からは言い争いが、僕の家まで聞こえてきた。温厚なおばさんは泣いていて、おじさんは灯莉を激しく叱った。熱を宿した大人の言葉に、灯莉は真っ向から食らいついた。

 まるで別人のようだった。僕の知らないかおの灯莉が、家をへだてた向こうにいた。小学校で男子と取っ組み合いの喧嘩をしたときでさえ、灯莉はこんなにも凄烈せいれつな怒りを剥き出しにはしなかった。灯莉と家族の仲が、なぜおかしくなってしまったのか。珊瑚の欠片のように壁越しに零れ落ちる会話から、僕は大体の事情を知っていた。

 部活に行くと告げた灯莉は、本当は誰とどこにいたのだろう。相手はきっと部活仲間で、それも男の先輩に違いなくて、けれど確証が一つもないのをいいことに、僕はいつも思考をそこで止めた。あと少しで開花する毒々しい花の蕾へ、黒い覆いをかぶせて陽の光をさえぎるように、その一方で僕の胸には、いつしか誓いにも似た願いが育っていた。

 ――中学生に、早くなりたい。

 同じ学校に通えたら、灯莉とまた話ができる。一人よりも、二人のほうが楽しい。それを教えてくれたのは灯莉だ。誰が味方か見えなくなっている灯莉に、僕の存在を伝えたかった。だが、そこまで考えたとき、僕はいつも怖くなった。

 灯莉のそばにいたい気持ちは、僕の独りよがりではないだろうか? 灯莉は、一人で出ていった。僕の手なんか、求めていない。

 明日が来るのが、待ち遠しかった。夜になると、早く朝になればいいのにと願っていた。祈りはあの頃と変わらないのに、どうしてこんなに呼吸がつらいのだろう?

 それでも時が一秒進むごとに、僕は中学生に近づける。あと半年で灯莉と同じ学校に通えるという現実だけを拠り所にして、僕は無為にテレビを眺めて、毎日を浪費した。

 浪費、していたのだ。

 待つばかりで、この状況が受け身だと気づかなかった。二歳差という僕らの変えられない歳の差が、明確な距離と溝を生むことが、まだ骨身に沁みていなかった。


     *


 中学校は、小学校よりも一学年のクラス数が増えていて、生徒数も多かった。制服で個性をならされた少年少女が集う学びで、僕は灯莉の姿を見つけて、唖然あぜんとした。

 灯莉の髪はセミロングで、赤味を帯びた焦げ茶色に染まっていた。

 すぐに、声を掛けようとした。でも灯莉の周りには友達がいて、僕は足を止めた。上級生の輪に入るくらい、昔は容易たやすかったはずなのに。そのとき、僕は思い知らされた。

 灯莉がいた小学校だから、僕は物怖じしなかっただけなのだ。拾われた猫が庭で四肢ししを伸ばして寝転ぶように、僕は灯莉が照らした陽だまりに、安穏あんのんと居ついていただけだった。廊下に立ち尽くす僕の隣で、真新しい制服姿でもじもじしていた歩美あゆみが「行こうよ」と囁いて、学ランの裾を引いてきた。

 でも、このまま引き下がるわけにはいかなかった。僕は、灯莉を連れ戻すと決めたのだ。陽だまりの海辺で、サンドイッチを握って走った、あの日の灯莉を連れ戻すと。そのためなら、僕が変わることくらい、なんてことないではないか。

 歩美の手を振り解き、僕は上級生の教室に向かった。開け放された引き戸から、僕より背が高い男の上級生が入れ違いで出てきたから、僕はすかさず声を掛けた。

「すみません、灯莉ねえちゃ……春原すのはら先輩を呼んでもらえませんか」

 じろりと見下ろされて、反感を買ったと分かった。上級生は教室をあごでしゃくり、勝手に探せとでも言わんばかりに、僕へ肩をぶつけて去っていった。教室じゅうの好奇の目が、気づけば僕に注がれていた。今この瞬間の僕をとりまく全てのものに腹が立ったが、そんなことは些末さまつに感じられた。――窓際でたむろしていた女子グループの輪の中から、赤茶の髪の少女が現れたからだ。

「灯莉姉ちゃん」

「その呼び方、やめて」

 正面に立った灯莉は、整えられた眉を寄せて囁いた。

 人目を気にするような声だった。僕は二の句が継げなくて黙らされる。何を命令されたのかすら、とっさには理解できなかった。年上の幼馴染の背が僕より低くなっていたことも、思いのほかショックで茫然とした。

「何の用? わざわざ、どうして……」

 そこで灯莉は口をつぐみ、鬱陶しそうに唇を噛んだ。カラーリップが引かれた唇も、日焼けしていない頬も、何もかもが僕の知っている灯莉と違った。「来て」と短く言った灯莉は、防波堤を横切る猫のように、廊下を一人で歩いていった。置いてけぼりにされた僕は、海風みたいにべたつく視線を浴びながら、夕日を沈めた海色の髪を追いかけた。

 三階へ続く階段を上がり、屋上へ繋がる施錠せじょうされた扉まで歩いたところで、灯莉はようやく立ち止まった。そうして僕を振り返ると、つっけんどんに言い放った。

「うちの家族に、何か言われたんでしょ」

 家族? 面食らう僕を一睨みして、灯莉は気怠げに溜息を吐いた。その姿がどうしてか、僕が小学五年生の春に、灯台の隣で煙草を吸っていた中学生たちと重なった。

「最低。俊貴まで使ってくるなんて。ねえ、言いなりになんてならないでよ。私は私。勝手にやるから。学校でまであの人たちのことを考えるなんて、うんざり」

 僕は、絶句した。混乱で頭の中がぐちゃぐちゃで、喉を通って当然の言葉が、き止められて出てこない。それでも僕はかろうじて、違う、と首を横に振った。自分が何をしにここまで来たのかを思い出して、腹に力を込めて、言い返す。

「僕は、誰の言いなりにもなってない」

 自らの意思で、ここへ来た。学ランを着て、灯莉の隣に並べる日まで、じっと待ち続けてここに来た。下手したら睨みつけるような目になっていたかもしれない僕を見て、灯莉は琥珀こはく色の目を見開いた。窓からの斜光が、灯莉の瞳の奥を照らし出す。こんなにも透き通っている瞳に、しかし僕の姿は長く映りはしないのだ。灯莉は不機嫌そうに顔を背けて「とにかく」と話を強引に打ち切った。

「昔みたいに馴れ馴れしくされると迷惑なの。用がないなら、教室に来ないで」

「待って。僕はまだ、灯莉姉ちゃんに何も言ってない」

「聞きたくない」

 煙草の吸い殻を波止場に捨てるような無感動さで、様変わりした幼馴染は、光る埃がちらちらと舞う階段を下り始めた。僕は呼び止めようとしたけれど、灯莉は青い日陰に沈む階段の踊り場から、鋭い視線で制してきた。

「学校では、灯莉姉ちゃんって呼ばないで。いい?」

「……分かった」

 僕は、淡々と頷いた。そして、灯莉の要求通りに、呼び名を変えた。

「灯莉。これからは、そう呼ぶから」

 灯莉の頬が、紅潮した。怒りだろうか。羞恥だろうか。一体どちらに、僕は期待をしたのだろう? 初めて呼び捨てにした名前の響きが舌で痺れて、感覚神経を伝った麻痺が、全身に回るのを感じていた。

「ばか! 生意気!」

 激昂げっこうして叫んだ灯莉は、スカートを翻して走り去った。途方もない疲労感が、僕の両肩に圧し掛かった。灯莉は中学三年生で、僕は中学一年生。十四歳と十二歳の春だった。

 同じ中学校にさえ通えば、手が届くのだと思っていた。

 目指した陽だまりへの道は、あまりに遠く険しかった。

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