小学校に通い始めると、僕には新しい友達がもっと増えた。みんなは、転校生の僕を温かく迎えてくれた。秘密基地で一緒に遊んだ子たちもいて、僕は灯莉が学校で人気者なのだと知った。

「ね、学校って楽しいでしょ? みんなのことも好きになるでしょ?」

 ショートの髪を揺らして灯莉は屈託なく笑ったが、僕は内心控えめに、それは違うと思っていた。学校のみんなが僕を受け入れてくれたのは、灯莉の存在があったからだ。もし灯莉がこの町にいなければ、僕の生活は大きく変わっていただろう。学校は楽しくなかったかもしれないし、みんなのことだって好きになれたか分からない。

 児童が少ない田舎だから、休み時間には上級生も交えて遊ぶことが多々あった。灯莉は弟分ができたと思っているのか、僕をよく可愛がった。

 灯莉が小学四年生で、僕が小学二年生の放課後には、図画工作の授業で絵を描くのが遅かった僕に付き合って、灯莉も自由帳を広げて居残ってくれた。ハミングに合わせて描かれたのは、サイダーのような水色がしゅわしゅわと鮮やかな海の絵で、人魚の女の子が歌っていた。帰り道では遠回りして、蝶の羽化やカマキリの卵を探して裏山を歩き回った。時々はお互いの家に行って、夕飯を御馳走になったりもした。

 あるとき、僕の家でカレーライスを食べたあとで、席を立った灯莉が言った。

「としき、行こう! すっごくきれいなもの、見せてあげる!」

 暮れなずむ海辺の町を、僕らは自転車で走った。家々が軒を連ねる細道には、魚を生姜で煮付けた甘辛い匂いが漂っていた。黄色のパーカーを着た灯莉は、絵の中の人魚のように自転車をすいすい走らせたから、猛特訓の末やっと乗れるようになったばかりの僕も、灯莉の背中に懸命に食らいついてペダルを漕いだ。茜色に紫陽花の群青色を溶かした夕空には、一番星が光っていた。とりわけ眩しいその星が、大海原へ降ってきそうな空の下で、このまま世界が終わっても、全く不思議ではない気がした。

 海へ続く細道の終わりで自転車を停めて、息を弾ませながら石段を駆け下りると、潮風は柔らかく僕らの火照った頬を撫でた。砂浜に二人分の足跡を残して、僕らは波止場に近づいた。空と海との境界線が溶け合いそうな世界を見守るように、それはぼうと建っていた。サンドイッチを盗んだあの日に、僕と灯莉が目指した場所だ。

「としき。灯台ってね、光るんだよ。見たことある?」

 僕は、ふるふると首を横に振った。この町に来るまで、灯台を見たことすらなかった。「私もないんだぁ」と答えた灯莉は、照れたように笑った。

「学校で、先生が言ってたの。灯台のてっぺんには大きいレンズがあって、夜の暗い海のずーっと遠い向こうまで、くるくる回りながら閃光みたいな光でまっすぐ照らすんだって。その光が、航海に出た船の道標みちしるべになるんだよ」

 コウカイ、ミチシルベという言葉を、僕はきょとんと聞いていた。灯莉の話は、この頃の僕にはまだ難しくて、でも腑に落ちる部分もちゃんとあった。

「でも、この灯台は光ってないよ」

「この灯台は、もう光らないよ。何十年も前に動かなくなって、そのままなんだって。でも、光らなくても私は好き。きれいだもん。きれいでしょ?」

 春の夜風が甘く吹き抜けて、刻一刻と藍色の濃度を深める空を見上げた灯莉の髪をそよがせる。僕も、隣で顔を上げた。

 白亜の灯台は夕刻の海色に染まっていて、道標の光を失くした汀で、闇に呑まれていくのだろう。けれど煌めき増す星々が、大海原に浮かぶ漁船のライトが、灯台の周囲を蛍のように照らしている。それらを見渡していたはずなのに、僕は気づけばまた灯莉の横顔を見つめていた。そうしていると、割れた貝殻のような心のくぼみに温かなものが満ちていき、呼吸が喉を通りやすくなった。

「灯莉ねえちゃん、この灯台が今も動いてたら光ったの?」

「もちろん」

「ずーっと遠い向こうまで?」

「うん、ずーっと遠い向こうまで」

「東京にも、届くくらい?」

「東京にも、届くかもね」

 僕の質問が面白かったのか、灯莉は上機嫌で波止場に向かった。消波ブロックに打ち寄せた波が砕けて、僕は怖気づいた。鼻の奥に水が流れ込んできたあのときの、死んだ方がマシだと本気で思うくらいの息苦しさを思い出す。まだお風呂でシャンプーをするのも怖いのだ。足をもじもじさせた僕に気づいた灯莉が、笑って手を差し伸べた。

「怖くないよ。私がついてる」


     *


 その日から、灯台は僕らにとって、お気に入りの場所から特別な場所に変わった。

 夜に灯台まで来たのはこの一回きりだったけれど、学校の放課後には二人でよく遊びに来ては、ごつごつした波止場に並んで座り、取り留めのない話をした。

 裏山の秘密基地が、大人に見つかって壊されたこと。りずに秘密基地を移設しようと、神社の裏手に段ボールなどの資材を運んでいること。その作戦に当たっている子どもたちの誰と誰が、実は好き合っているなんて秘密まで。楽しそうに話す灯莉は、時々歌を口ずさんだ。曲の名前を訊ねると、名前はないと返ってきた。名無しの歌を、僕はこっそり人魚の歌と呼んでいた。

 明日が来るのが、待ち遠しかった。夜になると、早く朝になればいいのにと願っていた。そんなふうに思うのは、生まれて初めてのことだった。

 だけど、初めて寂しい予感を覚えたのは、その一年後のことだった。

「飼育委員?」

「そ。飼育小屋のウサギとか、インコのお世話をするんだよ。だから今年は、朝と放課後の決まった曜日に、飼育小屋に通うんだ」

 胸を張った灯莉は小学五年生になっていて、春の日差しが麗らかな午後に、僕らはいつものように灯台の隣で、駄菓子屋の飴玉を舐めていた。灯莉の声が聞き取りにくかったのはきっと、波音に耳を塞がれた所為せいだけではなかった。

「それ、僕もやりたい。灯莉ねえちゃんと一緒にやる」

「だーめ、俊貴にはまだ早いよ。小学五年になってからね」

 灯莉は、くるりと踊るように僕を振り向いて笑った。夕日のオレンジ色に照らされた横顔を見た僕は、そのとき急に、灯莉を遠い人のように感じた。

 学年が上がれば、クラブ活動や委員会に所属することは知っている。だけど僕は、東京の雑踏で家族とはぐれたときみたいに、心許ない気持ちで思ったのだ。

 ――僕は今、この町に越してきたときに出会った灯莉と、同じ年齢になっている。

 それに、もう一つ気づいたことがあるけれど、僕はソーダ味の飴玉を噛み砕いて、喉につかえた言葉ごと飲み込んだ。

 ――僕が小学五年生になる頃には、灯莉はもう小学校にいないじゃないか、なんて。

 もし言葉にしていたら、灯莉はどんな顔をしただろう? 明るく笑い飛ばされるのが、なぜだか怖いと思ってしまった。

 氷のように冷たい別離が、ひたひたと僕らに忍び寄っていた。迫りくる足音に身を固くした僕を、朝顔のような薄紫色に染まり始めた夕空の下で、海を照らす役目を終えた灯台が、ただただ静かに見下ろしていた。


     *


 灯莉が小学六年生で、僕が小学四年生のとき。飼育委員で遅くなる灯莉を、僕は灯台の前で待つつもりで、一人で波止場を歩いていた。

 けれどそこには先客がいて、学ランとセーラー服姿の三人連れが、僕を振り返った。ここから少し離れた中学校の生徒たちだ。気後れした僕がそそくさと立ち去ると、泥のようなわらい声が、逃げる僕の背に投げつけられた。中学生たちは、煙草を吸っていた。

 小学校のグラウンドまで戻ると、ちょうど飼育小屋から出てきた灯莉と鉢合わせた。僕が灯台での出来事を報告すると、灯莉は細く息を吸い込んでから、「忘れよう」とさっぱり言って、明るく僕を慰めた。

「あの場所は、私たちだけの場所じゃないんだから」

 その通りだ。でも、灯莉は寂しくないのだろうか。

「灯莉ねえちゃん。今日はだめだったけど、明日は……」

「ああ、ごめん。明日はカナたちと遊ぶんだ」

 申し訳なさそうに手を合わせた灯莉の髪は、肩口まで伸びていた。灯莉はいつの間にか、男の子みたいなショートヘアをやめていた。

 その頃には、灯莉と僕は、以前ほど一緒に遊ばなくなっていた。灯莉は同級生の女の子と過ごす時間が増えていて、僕も歩美あゆみを始めとしたクラスメイトと過ごす機会が多かった。その時間が楽しくないわけではなかったけれど、ふとした瞬間に乾いた風が胸を抜けて、昨年の春に灯台で感じた切なさが、僕の首を絞めるのだ。

 棘のようなわだかまりを抱えたまま時は過ぎて、ミモザの黄色い花が咲き誇り、やがて散り、入れ替わるように桜のピンク色が花開き、新しい春が訪れた。

 灯莉は小学校を卒業して、喫煙していた少年少女たちと同じ制服を着た中学一年生になった。僕は灯莉のいない小学校で五年生になり、制服姿で遊びにきた灯莉に、少し強がって見せた。同じ学校に通えなくても、寂しくなんてないのだと。灯莉が帰ってしまってから、格好つけたことを後悔した。

 思えば、この春を迎えるまでが、まだ楽しい時期だった。

 翌年、小学六年生になった僕は、現実に打ちのめされることになる。

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