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『とーしーき! あーそーぼ!』
この海辺の町に僕が越してきたのは、小学一年生の春だった。都会から来た子どもが珍しかったのか、隣の家に住む灯莉はいつも、僕の家の前で明るく声を張っていた。運動会で聞くホイッスルみたいに、すかんと空を抜ける声だった。
『裏山にいこ! 二組の山田が、ひみつ基地作ったの! としきも来ていいんだって! 案内してあげる!』
男の子みたいなショートの髪に、短いスカート。剥き出しの膝小僧には、絆創膏が絶えなかった。元気の
『行こうよ! 一人でじーっとしてるよりも、二人のほうが楽しいから!』
とんでもない主張だった。僕は一人が好きなのだ。東京に住んでいた頃、僕には友達がいなかった。幼稚園のみんなが水を得た魚のように
もし僕らが本当に魚なら、あの陽だまりはみんなにとっての海なのだ。みんなは人の輪の中で誰に教えられなくとも上手に呼吸ができるけれど、僕には同じことができなかった。みんなの見よう見まねで賑やかな輪に加わってみても、切実な喉の渇きを覚えるばかりで、無理に
誰かと一緒にいるよりも、一人のほうが呼吸ができた。
みんなの輪の中にいるよりも、孤独でいるほうが苦しくなかった。
極端に人見知りをする僕に、誰もが手を焼いていた。
そのうちに、僕を遊びに誘う物好きなんて、いなくなった、はずなのに。
二つ年上の女の子は、台風のような勢いで、僕を日向へ連れ出そうとしているのだ。
ぐずった僕は、一年生が三年生の輪に交じれないとか、今日は家で遊ぶとか、幼いなりに精一杯の言い訳を駆使して抵抗したけれど、結局はお転婆の灯莉に手を引かれて、日差しの下という大海原へ連れ出された。
まだ通う前の小学校に、木造の旧校舎。よく母親とコロッケを買うという商店街に、海辺の町らしい船を
やがて、二階の窓から見える近所のミモザが、黄色の花を柔らかく散らして、灯莉が連れていってくれた小学校で見た桜の木も、
当日の朝は、僕にとって不思議な時間だった。僕たちの母さん同士は大張り切りで、台所には初めて見る具のサンドイッチがたくさん並び、灯莉がそれらにカラフルな星形のピックを刺していた。ソファに座った僕は、窓から射す白い日差しと、長方形の青空を、シャボン玉になった心地で見上げていた。誰かが吐息を吹きかければ、音もなく割れて世界から消える。そんな白昼夢の中で
今にして思えば、僕は役割がなくて退屈だったのかもしれない。遠足前に似た浮かれた空気が、卵焼きや唐揚げの匂いとない交ぜになって漂う部屋で、僕が大人たちの調理の様子を、遠巻きに眺めていると――灯莉と、急に目が合った。
猫みたいなアーモンド形の瞳に、
灯莉は、新しい遊びを思いついたのだ。
『としき、行こう!』
あの日のことを、僕は一生忘れない。太陽のような笑顔で、溌剌と発せられた灯莉の声は、今も耳に残っている。僕は大人の目を盗んで、灯莉は大人の目だけでなくサンドイッチまで二つ盗んで、二人で家を飛び出した。
行き先は、瞳を通わせた瞬間に決めていた。
当時の僕たちの、お気に入りの場所だ。
*
カモメの鳴く声が、そこかしこから聞こえてくる。雲一つない青い空に、飛び立っていく群れを見つけた。波打ち際で空を
「いい天気」
空に溶けそうな声だった。まるで青天の火葬場で、誰にともなく囁くような、
日差しを反射する砂浜と、果てしなく青い海との境目を、陸から垂直に貫く波止場の先に――その小さな灯台はあった。チェスの駒みたいな円筒形の白い灯台は、この町のシンボルとして、長年親しまれてきたそうだ。
だけど、それは、僕らが幼い頃までの話だ。
「俊貴、行こう」
僕を見上げた灯莉の髪とカーディガンが、潮風を
こんなにも、肌は白かっただろうか。こんなにも、肩の曲線は柔らかだっただろうか。こんなにも、僕より小さかっただろうか。
なのに、僕を連れ出す言葉だけは、あの頃から変わらないのだ。
いっそ変わってしまえば振り切れたのに、変えてくれない所為で振り解けない。まるで呪いのようだった。「あっちで食べようよ」と言った灯莉に促された僕は、
けれど、すぐに吐きそうなほど後悔した。灯台までの道のりには、さまざまな物が落ちていた。空のコーラのペットボトルに、近くにできたコンビニのレジ袋。半分燃え残った
僕らの昔の遊び場は、すっかり様変わりしてしまった。
「灯莉、やめよう」
「こんな所で、食べられない」
「大丈夫だよ。向こうまで行けば、見晴らしもいいし。――ほら、着いた」
波止場の終わりで、僕らは日陰に呑み込まれた。思い出の灯台は、三年前に見上げたときより、明らかな経年劣化を背負って古びていた。コンクリートの外壁は剥落していて、赤茶色の錆びも目立つ。血のように赤い相合い傘の落書きが、リストカット
食パンとバターの香りが、僕らが五歳と七歳の頃の再現のように、潮風に乗って拡がった。あの日の陽だまりの輝きを銀色のバットに流し込んで、冷蔵庫で冷やし固めてからフォークでざくざくに砕いたものを、
「俊貴、どれがいい? 好きなの選んで」
「……食う気しない」
「じゃあ、私が先に選んじゃう。あとで文句を言っても、替えてあげないから」
灯莉は、バスケットに敷き詰められたサンドイッチを一つ抜き取った。具は、サーモンとクリームチーズだ。黒胡椒をまぶしたサンドイッチを齧った灯莉が、ちらと僕を見上げて笑う。僕はもう一度観念して、バスケットを挟んで灯莉の隣に腰を下ろした。足を投げ出した先には消波ブロックの群れがなく、穏やかな波が波止場に打ちつけた。灯莉も足を崩すと、フラットシューズの爪先をぶらつかせた。波の音が、鼓膜でざらつく。僕は、バスケットの中身を見下ろした。
半熟卵とハムを挟んで、塩胡椒を振ったサンドイッチ。かりっと焼き色のついたベーコンと、瑞々しいレタスとトマトのサンドイッチ。商店街の肉屋のトンカツに、ソースと千切りキャベツを合わせたサンドイッチ。イチゴと生クリームのフルーツサンドまで入っていた。ここに店でも開くつもりだろうか。僕は固く握り込んだ手を膝の上にのせたまま、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「灯莉は、なんで僕を呼んだ?」
「俺っていうの、やめてくれるんだ」
「質問に答えないなら……」
「帰るなんて言わないで。ねえ、食べてよ。せっかく作ったんだから。俊貴の好きなものが分からないから、たくさん作ってみたの。これだけあったら、一つくらい好きなのあるでしょ?」
何気ない口調の
無言で立ち上がりかけた僕へ、目を見開いた灯莉が「待って」と呼び止めて、手を伸ばす。僕の喉から震える声が、あの日と同じ台詞で零れ出た。
「触るな」
伸ばされた指は、僕の上着に触れる寸前で止まった。
「灯莉は、僕のことなんか……どうだって、いいくせに」
激しい後悔と自己嫌悪が、僕の胸中を食い荒らした。あまりの格好悪さに、嫌気が差す。だが、もう耐えてはならないのだ。二年前に、そう決心したではないか。
「ごめん。俊貴」
カモメの声が途切れて、波の音が大きくなる。「ごめん。俊貴」ともう一度囁いた灯莉は、頭を垂れた。
「謝りたかったんだ。今までのこと。……二年前から、ずっと」
――とんでもない主張だった。そんな謝罪を素直に受け入れて許すには、もうあまりに遅すぎる。そう
腰を下ろし直した僕は、
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